第28話
バス停までかと思った位坂は、結局家まで送ってくれた。トーマスに託されたからだろう。相変わらず律儀だし、紳士だ。
「翡川は、戸増先生の過去は知っているのか」
バスを降り、また降り出した雨に傘を開きつつ位坂が尋ねる。
「過去って、どういう? どんな子供だったとか?」
私も開こうとしたが、位坂が差してくれたから甘えることにした。それに、距離が近い方が話も漏れにくい。
「そうじゃない。でも知らないなら、先生が意図的に話していないのだろう。勝手に話すべきじゃないから、黙っておく。すまない」
「ううん、いいよ。位坂くんは、お父さんに聞いたの?」
「いや、祖父だ。ただ」
位坂は私が濡れないよう傘を傾けながら、私に合わせた速度で歩く。
「確かに苦手なタイプだし、人格的に問題があるのは確かだろう。でも祖父の評価のとおりとも思えない。翡川と関わるうちに変わっていったのなら、良かったと思って」
「そうならいいな。私にとっては、ずっと特別な人だから」
私は初恋に舞い上がっているだけだったが、少しくらいトーマスの心を癒せていたのならそれに越したことはない。あのこっ恥ずかしいラブレターも、出した甲斐があったというものだ。
「先生は、防犯カメラに先輩が映っていると分かっていた。共犯じゃないとしたら、先輩が助けを求めに来たのを断ったんだろうか」
「いつのカメラに映ってたかが問題だよね。美璃ちゃんを見捨てるとは思えないから、拐ったあとじゃないと思う。まあ、助けを求めに来た蓮士を突き放すっていうのもピンとこないけど」
「会いに来たものの何らかの理由で会えず、何か自分だと分かるものを残して行った、か」
「そんなところかなあ」
しっくりこないが、落としどころとしては納得できる。今日はひとまず、ここまでか。
「夜にでも、父に連絡をしておく」
切り出した位坂に、ゆっくりと視線を上げる。位坂は私を見ないまま、溜め息をついた。
「父は警察の、いわゆるキャリア組だ。国家公務員だから、日本全国に転勤する。今は警察庁にいるけど、少し前は大阪府警にいた。一箇所に長く留まれない仕事なのと、母が昔から病気がちな人だったから、父は俺達をここに残して単身赴任を選んだ。母が亡くなる前は、盆正月以外にもちょくちょく帰ってきていた」
訥々と語られ始めた過去に頷いて、隣を行く。
「母は腎臓が弱くて、透析を受けていた。死亡したのは俺が小学一年生の時、感染症が原因だった。父は入院中には見舞いに来たけど、通夜と葬式には来なかった。赴任先で大きな事件が起きていたらしい。祖父には、そういう仕事だと言われた。身内より社会の秩序を優先させなければならない時がある仕事だと」
確かにそんな仕事だろうし、私達の安全がそんな誰かの献身に支えられていることも分かっている。ただ、そう簡単には割り切れるものではない。天災の時に母の迎えがなかっただけで、私の心は軋んだ。位坂はそれ以上に、深く傷ついたはずだ。
「頭では、仕方なかったのは理解できた。それでも、心は思うようにならない。俺がうまく感情を表出できなくなったのは、その辺りの葛藤もあったのだと思う。父は、変わった俺を見るのがつらかったのかもしれない。少しずつ帰って来なくなった。ここ数年は、声すら聞いてない」
親子にも、いろいろな形があるのだろう。私のように父親の顔すら知らない家もあれば、万里のように揃っていても円満とはいかない家、位坂のように追い詰められる家もある。子供は、家を選んで産まれてこられない。
辿り着いたアパートに足を止め、視線を上げる。
「送ってくれてありがとう。ごめんね」
「いや、本当は外出禁止のところだから当然だ。先生にも頼まれたしな」
位坂は事もなさそうに答えて頷く。
「西杵先輩には俺から話しておく。何かあれば連絡をくれ。あと、一人にはならないようにな」
「うん。気をつけるし、何かあったら連絡する。位坂くんも、気をつけて帰ってね」
ありがとう、ともう一度礼を言ってアパートの階段へ向かう。部屋に辿り着き鍵を開けたあと振り向くと、位坂はまだアパートの入口で見守っていた。手を振ると、軽く手を挙げて応える。礼儀正しい大型犬のようだった。
芳岡がチャイムを鳴らしたのは四時五十分を過ぎた頃だった。
「ごめんね、ばたばたしてて」
「珍しいな。体調が悪いのか」
「ううん、そうじゃないんだけど」
一人になるとトーマスのことを考えてしまって、気づくと手が止まっていた。位坂の言う「一人にはならないように」はこんな意味ではなかったはずだが、実感した。
「トーマスが蓮士の共犯者だと疑われて、警察に連れて行かれちゃったの」
散らかった部屋をひとまず片付けながら、隠せない痛みを打ち明ける。芳岡は驚いた表情を浮かべたあと、言葉を選びあぐねた様子で頭を掻いた。
「行ってたのか。今日は外出禁止だっただろ」
「分かってたけど、事件のことを調べたくて。でも一人じゃないよ、友達と」
「こんな危険な状況を無視して誘い出す奴を、友達と呼ぶな」
きつく響いた声に、弾かれたように顔を上げる。
「誘われたんじゃない、私が誘ったの!」
実際はどうだったか、思い出す前に言い返していた。
「そんなことをして、もし相手に何かあったらどうするつもりだったんだ」
芳岡は私を見据え、抑えた口調で窘める。それは、と言い返せず俯く向こうで、溜め息が聞こえた。
「どうせ、あの先生も止めなかったんだろう。いい加減な人だとは思ってたけど、まさか善悪の区別すらできなかったとはな。捕まって良かった」
「やめて。捕まってないし、共犯なんかじゃない。悪く言わないで」
滲むものをこらえて、また言い返す。そこだけは譲れなかった。
「気持ちは分かるけど、警察だって何も調べずに疑ったり連れて行ったりするわけじゃない。疑われるだけのことをしてたから連れて行かれたんだ」
「病院の防犯カメラに蓮士が映ってただけだよ」
「必要十分だろ」
「そんなこと、ないもん」
位坂と話している時は揺るぎなかった自信が、どうしようもなく揺らいでしまう。私はただ、事実を無視して信じたいだけなのだろうか。位坂や万里が、蓮士を信じたかったように。
「とりあえず、準備ができたんなら行くぞ」
俯いた頭をもう少し沈めるように頷く。脳裏に浮かぶトーマスの笑みに、息が苦しくなる。
「あ、ちょっと待って」
踵を返した芳岡を待たせて、机へ向かう。貯金箱の下から鍵を引き抜いて小引き出しに差し、引く。詰め込んだ思い出の品から、白いリストバンドを取り出した。シリコンにエンボス加工でアイドルグループのロゴがさりげなく刻まれたこれも、希絵がライブに行った時のおみやげだ。六年生の夏休みだから、これが最後になった。
「お揃いか」
呟くように零した芳岡に、視線を上げる。
「だめだって言ってるのに、学校につけて来てただろ」
苦笑で付け足された思い出に、ああ、と頷く。希絵のことだから、叱られたのだろう。ありありと浮かぶ光景に苦笑して、引き出しを閉める。
――そんな心配しないでよ。会ったら、すぐ帰るから。
「志緒?」
一瞬何かが引っ掛かった気がしたが……なんだろう。消えてしまった。
「大丈夫、なんでもない」
答えて、リストバンドの腕をさする。一足先に玄関へ向かった芳岡のあとを追った。
「蓮士を受け持ってたのって、五年と六年だよね? どんな子だった?」
切り出した私に、芳岡は兎肉を切り分ける手を止めてこちらを向く。希絵の事件を思い出したくなくて、聞いたことがなかった問いだ。
芳岡は、そうだなあ、と返して再び手を動かし始める。
「五年生の四月に、クラスの旗を作ろうって授業をした。いくつか案が出て多数決になったんだけど、蓮士の選んだものは選外でな。でも蓮士はその図案を気に入って、事あるごとに何かに使おうとした。運動会の旗とか、六年になってからは修学旅行のしおりとか。周りもいい加減しつこがって、案が出ても蓮士しか選ばないようになってた。結局、最後は卒業文集の自分のページに大きく描いてたよ。どうしても、プライベートじゃないものに載せたかったんだろうな」
初めて知る蓮士の一面に頷き、皮を剥き終えたじゃがいもを水を張ったボウルに落とす。最後の一つを手に取り、またピーラーを引いた。今日の夕飯は、兎肉のカレーらしい。鹿や猪は何度となく食べてきたが、うさぎは初めてだ。
「情緒が不安定でたまに爆発したけど、いじめたり非行に走ったりは一切なかった。トータルで見れば、蓮士より手の掛かる子はいくらでもいた。でも、あの執着心はな。我を通す時だけは、周りの顔や反応が一切見えなくなる。あいつが秋浜を殺したのは暴力的な側面からじゃなく、執着を断たれたからかもな」
今度は私が手を止めて、肉を切り終えた芳岡を見た。芳岡の横顔は、位坂より十五センチくらいは下にある。
「『握手して欲しい』とか『友達になって欲しい』とか、思うところがあったのを一刀両断されて我を忘れたんじゃないか」
「あんな風に騙されて、友達になんてなれるわけないのに。なんで、なれると思ったんだろうね」
再びざらつく皮に向かい、手早く向いて水へ落とす。軽く洗い流し、ざるに上げた。
「でも、トーマスは共犯じゃないよ。トーマスは、そんなことに力は貸さない。助けを求めに来ても、自首させてたはず」
「『映ってるだけで会ってない』なんて、警察が信用すると思うか?」
コンロへ居場所を移した芳岡は、兎肉を炒めつつ相容れない問いを投げる。確かにそんな言い訳を警察が信用するとは思えない。しかもトーマスは、映っていることは分かっていた。
でも、と口ごもりつつ、じゃがいもを切っていく。コンロからは腹の空く匂いが漂い始めたのに、いつものような食欲が湧いて来ない。
「不審者への怒りが、不審者を正しく裁かなかった権力への怒りに変わったんだろう」
溜め息交じりの不穏な言葉に、また手が止まる。
「あの人は、不審者に妹を殺されてる。犯人は服役したあと社会に出て、また子供を殺した。怒りが警察に向くのは」
「なんで言うの?」
遮った私にも、芳岡は炒める手を止めない。分かっていて、わざと言ったのだろう。包丁を置き、胸を落ち着かせるように長い息を吐く。揉めたいわけではない。
「トーマスは、私には黙ってた。本人が黙ってることを、なんで勝手に」
「言えば志緒が離れるから黙ってたんだろう。志緒を特別可愛がってるのは、亡くなった妹を重ねてるからだ」
控えめな私の抗議を、今度は芳岡が遮る。否定したかったが、トーマスが何を考えているのかなんて分からない。私は、亡くした妹の代わりなのか。
「いい加減、目を覚ませ。客観的に見ればあの人が普通じゃないことくらい、志緒だって分かるだろう。蓮士の共犯だとしても、過去を知ってる人は驚かない」
「……先生は、なんで知ってるの?」
作業を放棄した私に、芳岡はコンロの火を止めてあとを引き継ぐ。一歩退いて、鈍く光る包丁がじゃがいもに沈むのを眺める。
「親戚なんだよ。といってもあの人の実家は県外にある戸増分家の末端だから、血の繋がりはほぼないに等しいけどな」
親戚、と小さく繰り返した私に頷く。トーマスも芳岡も、これまではそんな素振りさえ見せなかった。トーマスは、自分のことは何も話してくれない。
「あの人は、院長の養子だ。事件のあと、母親が育てられなくなって子供のいない院長夫婦に引き取られた。小学校に入ったくらいだったはずだ」
そんなことも、何一つ。私はトーマスの何を見ていたのだろう。私が好きなトーマスは、「トーマスじゃなかった」のかもしれない。
胸をよぎるいやな予感に、立っていられなくなってしゃがみこむ。志緒、と呼ぶ声がして耳を塞いだ。もう何も、聞きたくなかった。目をつぶり、胸に浮かぶトーマスのことだけ考える。
不意の感触に、芳岡が私の頭を撫でたのが分かった。同じように温かくても、トーマスの手とは違う。それでも私はこの先、この手を優先させなければいけなくなるのだろう。いやではないのに、いやになりそうで怖い。
泣きそうになりながらじっとしていると、両脇を掴んで持ち上げられる。
「子供じゃないのに」
「子供だ」
頬を膨らませる私を抱き上げ、芳岡は座敷へと向かう。
「あの人は、志緒を守りたいわけじゃない。自分を満たしたいだけだ。望むものを与えるだけじゃ、親にはなれない」
芳岡の肩越しに見える台所が、ふと涙で滲む。そんなことはない。トーマスは、ずっと私を守り続けてくれた。これからだって、ずっと。言えない言葉を飲み込んで唇を噛む。
――この先も僕は、どんなことがあっても志緒ちゃんの味方だ。僕にできることは全てするから、いつでもおいで。
全部教えてくれなくても、あの言葉は本物だ。
「私は、トーマスを信じる」
呟くように零した決意に、芳岡は長い溜め息をついた。
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