第23話

 希絵がSNSでアイドルを目指す同志と知り合ったのは、四年前の九月だった。「かのん」と名乗る二小の六年生で、アイドル好きのフォロワーを通じて知り合ったらしい。

 かのんはアイドルの夢を周りに伏せつつも希絵より一歩前を行く子で、休みになるとオーディションを受けるために上京していたらしい。希絵はその報告が来る度にSNSの画面を私に見せては「すごいよね!」とはしゃぎ、自分も早く、と羨ましがっていた。

 正直面白くない部分もあったが、かのんは希絵が待ち望んでいた同志だった。小学生のSNSが禁止されているのは知っていたものの、それを理由に関係を断つのはかわいそうに思えたし、「じゃあ会う」と言い出しそうだから黙っていた。会えば私よりかのんを選ぶのではと、怖かったのだ。それならSNSで話されている方が心が平和だった。でも、平和は長く続かなかった。

 希絵とかのんは、私の知らないところで着々と交流を重ねていたらしい。

――かのんが私にライブのお土産渡したいんだって!

 満面の笑みで希絵が報告したのは十二月、事件前日の放課後だった。でも、渡すには会わなければならない。希絵をとられるかもしれないやきもちと恐怖で、絶望した。

 SNSで知り合った人と会うのは危ない、と止める私に希絵は反発して、久し振りに激しく言い合った。希絵は「志緒には分からない」と泣きそうな顔で言って、逃げるように帰ってしまった。

 事件当日も、朝の挨拶はしたもののぎこちなかった。私が歩み寄って少し仲直りできたが、いつものように一緒に帰ってはくれなかった。

 その理由を私は「まだいやがられている」と解釈したが、そうではなかった。私が家で雪に変わりそうな雨を横目に宿題をしていた頃、希絵はかのんに殺されていた。

 かのんは、道井蓮士だった。



「道井蓮士の犯行については、どれくらい知ってる?」

「周りの人が、『指紋が出た』『防犯カメラに映ってた』って。あとは、半年くらい前から家出をしてたってことくらいです」

 トーマスは椅子を回しながら頷く。今日は薄い水色の半袖シャツで、ボタンダウンの襟だった。夏休みを除けば毎日のように見守り隊で出ていたのに、今年の夏もほとんど日焼けしていない。シャツの袖から伸びた腕は、相変わらず白く滑らかで美しかった。

「蓮士が家出をしたのは七月、でも別に初めてってわけじゃなかった。蓮士の家はお世辞にも家庭環境がいいとは言えなくて、小学生の頃は近くにある祖父母の家によく預けられてたんだ。僕の診てた子でね。『お父さんを殴ってあげるから連れておいで』って言うと笑うんだけど、結局一度もなかったな。児相も何度か介入してたけど、どうにもならなかった。三人兄妹で蓮士しか男の子がいなかったから、母親は蓮士に依存してた。自分の代わりに殴られてくれるのは、蓮士だけだったんだろうね」

「離婚、すれば良かったのに」

 子供を身代わりにするなんて、考えられない。

「家庭の数だけ事情があるからね。周りから見れば離婚した方が良くても、本人が同意しない。珍しいことじゃないよ」

 トーマスはにこりと笑い、脚を組む。細長い爪先に健康サンダルを引っ掛けて、ぶらつかせた。

「蓮士は中学に入った頃から、再び両親と一緒に暮らすようになった。それと同時に素行が荒れ始めて、学校での問題行動が目立つようになったんだ。家出したのは、喫煙がバレて出席停止の処分中だ。でも親は蓮士が家出をしたと学校や警察に連絡していなくて、そのまま夏休みに突入した。二学期になっても出てこない蓮士に学校が児相に連絡して介入し、ようやく分かった。ただ蓮士は携帯を持っていて、妹とはメールをやりとりしていたから本格的な捜索にはならなかった。とりあえず無事で、誰かの家に世話になっていることが分かったからね。本人は探されたくないから、探せば逃げ出す。無理に引っ張り出そうとしない方がいいって結論になったんだろう」

 確かに、そうかもしれない。連絡が取れて無事も確認できているのなら、本人の意志で帰らせた方がいい。下手に追い掛けて行ける場所がなくなったら……でも結局、最悪の事件をしでかしている。

 乾く喉に小さく咳をして、胸を落ち着かせる。感じ始めた息苦しさに、ブラウスの胸をさする。相変わらず平らな場所は、指先に硬い骨の感触を伝えた。

 トーマスは腰を上げ、窓際の冷蔵庫から子供用の経口補水液を取り出す。はい、と差し出された紙ボトルを受け取り、ストローを差して少し飲む。おいしくはなかったが、胸は落ち着いた。

「すみません、ありがとうございます」

「うん。しんどくなったら横になってもいいからね」

 椅子へ戻ったトーマスは腕置きに肘を突いて、物憂げに笑う。事件の話をしているのに、いつもと少しも変わらない。

「そんなわけで蓮士は事件当日までどこかに潜伏しつつ、彼女に近づいて殺す算段を立てていた。温室を選んだのは、下見したからだろう。温室は数日前に窓が割れて、ブルーシートを掛けて放置されてた。防犯カメラに犯行の様子は映らない、ベストな場所だった」

「でも、蓮士が映ってたんですよね?」

「警察はそう言ってるけどね。正確には『蓮士が映っていた』わけじゃなくて、『指紋と足跡で蓮士になった』んだ。あの日も雨がよく降っていて、既に暗かった。パーカーのフードを被っていたし、顔が映らないよう傘を差していたらしい。姿を捉えたのも低スペックの防犯カメラだしね。温室に入るとこと出たとこしか映ってない。ほかはうまく防犯カメラに映らないところを選んでたらしい。どの経路から入ってどこから逃げたのか、返り血も足跡も臭いも雨で押し流されて警察犬も役に立たなかった。彼女の携帯も蓮士の携帯もまとめて消えたしね。残されたのは僅かな映像と凶器の鍬に残された指紋と掌紋、温室の足跡のみだった」

 いやな言葉に思わず顔を背ける。通夜でも葬式でも希絵の顔を見られなかったのは、蓮士が鍬で、顔を。

「ごめんなさい、ちょっと、横になります」

 胸に蘇る重苦しい感覚に、紙ボトルを置いて診察台に横たわる。壁の向こうで呼び出しボタンの音と、誰かが呼ばれるのが聞こえた。トーマスを私が独り占めしているから、院長がフル回転している。いつもよりは確かに患者は少なかったが、申し訳ない。

 院長は当然、トーマスと私の密な関係を知っている。知っていて、いつも温かく見守ってくれていた。

――志緒ちゃんは、祥文ひろふみのことが好き?

 尋ねた院長に力強く頷いたのは何歳の頃だったか、「仲良くしてやってね」と言われて再び鼻息荒く頷いた。トーマスには私以上の相手はいない、くらいの勢いだった。

「でも、どうして防犯カメラにはそんな神経質なのに、指紋や足跡を残したのかな」

 全てを聞いて初めて湧いた違和感に、トーマスは頷く。

「足跡からは何も分からないと踏んでたのかもしれない。指紋の方は、凶器への残り方から左手には手袋をはめてたんじゃないかって説が有力でね。じゃあなんで右手にははめてなかったのか、って考えたら」

 向けられた視線に、あ、と気づいた。

「握手」

「そう。でも、小学六年生じゃないどころか女子でもなかった相手に『全部水に流して、ファンだから握手して。友達になって』って言われて握手できる子はいない。怒るか気持ち悪がるかは人次第だけど、拒否して帰ろうとするのが普通の反応じゃないかな」

 希絵なら間違いなく、その両方だ。純粋な思いを裏切られた怒りと小六女子を装って付き合われた気持ち悪さで、爆発したはずだ。我慢なんてしない。それが相手を怒らせるなんて、考えなかったのかもしれない。

「それに腹を立てたってことですか?」

「直接的なきっかけはそうじゃないかって言われてる。きっちり計画を練っても、自分の感情を制御する能力には欠けてた。蓮士には、激昂すると手がつけられなくなる問題があったしね。ただ握手だけして帰るつもりの奴が、あんな見つかりにくい場所を選んで防犯カメラを避けて会いに行くとは考えにくい」

 確かに握手さえできればいいのなら、そこまで人目を避ける必要はない気がする。暗さと雨と、犯行を隠すブルーシートと防犯カメラの盲点が必要だった理由。

「今回の一件と照らし合わせれば、拐って逃げるつもりだったのかもね。それなら、彼女の妹を狙った理由も納得がいく」

 納得はいくが、母親の気持ちを考えると居たたまれない。今頃、どんな思いで無事を祈っているだろう。会いに行きたいが、また拒絶されてしまうかもしれない。でも、私も美璃を探したい。

 ゆっくりと体を起こすと、身長計が目に入る。先週の金曜、笑みで促すトーマスに戸惑いつつ測ってみたら三センチ伸びていた。気づいてくれたのは、やっぱりトーマスだった。私をいつでもちゃんと見てくれている。

「それで、今回はどんな感じなんですか?」

 気持ちを整え、いよいよ本題に移る。表情を引き締めた私に対し、トーマスは相変わらずの笑みで頷いた。

「事件が起きたのは一昨日、九月二十九日水曜日。時間は午後六時二十分頃かな。彼女は殿場二丁目のピアノ教室で六時までレッスンを受けたあと、雨の中を徒歩で帰路に就いた。普段は自転車だけど、雨が降ってたからね。その途中で蓮士と思われる相手に声を掛けられ、二人で鵲寺へ向かった」

「それは、確かなんですか」

「鵲寺近くの防犯カメラが、鵲寺へ入る二人の後ろ姿を捉えてる。傘の具合で隠されて、全身を確かめられたわけじゃないらしいけどね。あと、ほかの防犯カメラには二人の姿が映ってなかった。場所や範囲を知ってて、うまく避けて歩いてたんだろう。前回の犯行やこれまで市内に潜伏してた可能性を考えれば、カメラの場所くらい把握していてもおかしくない。春に証川三丁目で出た不審者がまだ捕まってないんだけど、よく似てるらしくてね。あれは蓮士がカメラの場所を確かめるためにうろついていたんだろう」

 前回も今回も雨の日で傘を差している、暗い、が共通点か。一度捕まらなかったから、味をしめたのかもしれない。いやなやり方だ。

「そのあと境内へ向かい、何かしらの方法で彼女を気絶させて寺にあったブルーシートに包み、山へ入った。そこからはどこへ行ったのか分からない。山に慣れているようだから、もしかしたら山に潜伏していたのかもしれない。今、警察が必死で調べてるよ」

 鴛緑山に入ってしまえば北高にはもちろん、我が家の近くまで逃げてこられる。山を北に越えれば海へも向かえたはずだ。

「彼女と母親の仲はあまり良くなくて、事件の日の朝はけんか別れしたらしい。母親は、帰って来ない彼女を友達の家へ行ったのだと思って学校や警察には連絡しなかった。翌日九月三十日の朝、鵲寺の住職から境内に校章入りのバッグが投げてあると学校に連絡があった。そのあと学校から家へ連絡がいって、警察に通報があったって流れ。近くに落ちてた傘は盗まれたもので、持ち手から蓮士のものらしき指紋が出た」

「らしき?」

「雨に濡れたせいで、完全には残ってなかったみたいだよ。ただ掌紋も残ってるって」

 また雨、か。でも今回は、手袋をしていなかったのだろう。盗んだ傘だし、雨で指紋が流れると油断したのかもしれないが……とりあえず今は置いておくか。

「今更ですけど、これって捜査情報ですよね。どうしてここまで知ってるんですか?」

「情報を与えておけば、鎖に繋げると思ったのかもね」

 ふふ、とトーマスは密やかに笑う。これ以上聞いても、何も教えてくれない顔だった。

「大丈夫?」

「はい、大丈夫です。ありがとうございました。ここからは自分で調べます。早く美璃ちゃんを探さないと」

 診察台を下り、スリッパを履く。他人に調べてもらった結果では、多分私の時計は動き出さない。一旦家に帰って、要点を整理しよう。

「蓮士は、なんて言って美璃ちゃんを連れて行ったんでしょうか」

「脅して連れて行った説が有力だけど、本人に聞いてみない限り事実は分からないよね。ピアノ教室から鵲寺までは五百メートルほど、逃げられなかったのか逃げなかったのか」

 凶器を突きつけ脅されていたら、逃げられないだろう。相手は、姉を殺した犯人だ。

「じゃあ、帰ります。あ、あと、何かあったら芳岡先生のとこに避難することになりました。母と二人だと心配だからって」

「それなら志緒ちゃんだけうちに来ればいいのに。北高近いし、どう?」

 冗談ではなさそうな口振りに苦笑する。でもそんなことをしたら、私の心臓が持たないかもしれない。

「さすがに、そこまでお世話になるわけには」

「寂しいなあ。昔は三十九度の熱でも『やだーかえらないーいっしょにいるー』ってしがみついてくれてたのに」

「忘れてください」

 覚えていないが、想像できるだけに恥ずかしい。ほてる頬を押さえて頭を下げて、手を振るトーマスに見送られて診察室をあとにした。

 落ち着くと一抹の後悔も湧くが、そんなことより今は事件だ。調べるとは言ったものの、どこから手をつければいいのか。とりあえず、できることから始めよう。でもそれには、もっと手掛かりが必要だ。

 志緒ちゃん、といつものように名前で呼ぶ受付に、ソファから腰を上げた。

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