第12話
思い立って位坂にメールを送ったのは翌朝、着替え始めてようやく頭が働き出した頃だった。
『おはよう。今日、お昼一緒に食べない?』『おはよう。俺は学食だけど、大丈夫か。』
すぐ返ってきたメールに、着替えの手を止めて部屋のドアを開ける。
「お母さん、お弁当作っちゃった……よね」
ダイニングテーブルの上に置かれたいつものバッグを確かめて、苦笑した。母はエプロンを脱ぎながら、思い当たったような顔をする。
「今日、午前中で終わり?」
「違うの。友達に一緒にお昼食べようって誘ったら、学食だって言うから」
昨日のうちに約束しておけば良かったのに、迂闊だった。
「じゃあ、そのお弁当は私が食べるよ。友達と学食で食べて」
「ありがとう、次からは夜のうちに約束する。ごめんね」
詫びたあと、部屋に戻って改めて返信を打つ。
『私も学食で食べる。四限終わったら迎えに行くね』
送り終えてセーラー服のリボンを通していると、携帯が揺れた。
『分かった。待っている』
話し言葉も書き言葉も、雰囲気が変わらない。多分、快諾だ。いつか西杵も一緒に仲良く食べられたら嬉しいが、無理強いするようなことじゃない。自然に、いつか。
携帯をポケットに突っ込んで、ブラシを手に取る。今日は西杵のように、高い位置でのポニーテールにしてみた。
「志緒、今日も芳岡さんのとこで夕ごはん食べてね。お願いしてあるから」
「分かった」
ドアから顔を覗かせた母に答えると、目が合った。
「何?」
「かわいいじゃない。いつもそこで結べばいいのに」
「友達がしてて、すごくきれいだったの。でも髪質が全然違うからなあ」
西杵の髪を思い浮かべてから自分の髪を見ると、あまりの違いに苦笑する。
――えーいいじゃん。私、志緒の髪とか顔とか好きだよ。外国の子っぽくてかわいいじゃん。
希絵は私を褒めながら、よく髪を編み込みにしてくれた。希絵も西杵と似たタイプだったから、私の瞳や髪が羨ましいとも言っていた。私は黒い瞳にまっすぐな黒髪の方が良くて納得できなかったが、結局はないものねだりなのかもしれない。
「なんか、子供っぽくない? 今日、先生のとこ行くのに」
「大丈夫、かわいいと思ってくれるよ」
できれば「かわいい」より「きれい」と思って欲しいが、どうがんばっても系統が違う。鏡に映ったのは、セーラー服よりランドセルが似合うような子供の姿だ。
「ほら、そろそろ出るよ」
「はーい」
母の声に答えて、デイパックを手にする。いつもより大きく揺れた髪に結び目を確かめ、玄関へ向かった。
四限が終わったあと、約束どおり十組へ向かう。ドアを出入りする生徒の隙間から位坂を探すと、気づいて腰を上げた。
「申し訳ない、俺が迎えに行けば良かった」
「いいよ。誘ったの私だもん」
来た道を戻り、学食を目指す。うちの購買と学食は校舎の南側、校門を出て細い道路を越えたところにある。敷地外にあるのは、あとで作られたからだろう。とはいえ近い場所だから、みなスリッパで行き来しているらしかった。
「私、学食初めてなの。どうやって注文するの?」
「券売機で食券を購入して、対応する受付で出して待てばいい」
食券購入も、初めてだ。切符を買うような感じだろうか。
「何がおいしい?」
「カレーだろうか。日替わり定食もおいしいけど、出てくるまで内容が分からない」
そんなサプライズな献立で大丈夫なのか、試してみたい気はするがひとまず今日は安定のカレーにしよう。
位坂は私が掴むより早く上の方で校舎のドアを押し開け、私を通す。やっぱり、振る舞いは紳士的だった。
「それで、調査は進んだのか」
渡り廊下から逸れながら、位坂は私を見下ろす。
「うん。御守を調べて分かったことのせいで、余計分からなくなったの。位坂くんなら、何か分かるんじゃないかと思って」
何はなくともトップクラスだ。期待してしまうのは仕方ない。
「責任重大だな」
「期待してるので、よろしく」
校門を出て、白線の剥げた短い横断歩道を渡る。目の前の垣根を越えれば、学食だった。
初めての学食は、見渡す限り男子しかいなかった。スリッパの色は一年から三年までまんべんなく揃っているが、右を見ても左を見ても男子だ。時々、先輩に出会ったらしい誰かの元気な挨拶が聞こえる。うちは、男子校だっただろうか。
「すごい、男子しかいない」
「早弁する奴が多いからだろう。二限のあとに弁当を食べて、昼は学食で食べる。俺は一食だけどな」
券売機で教わったとおりカレーの券を買い、受付に進む。待っていたおばさんは、小柄な私を見てご飯の減量を尋ねた。
「位坂くんは、日替わり定食?」
「ああ。今日は鯖の味噌煮だ。当たりだった」
それほど広くない学食の隅を選び、並んで座る。みな各々賑わっているから大丈夫だろうが、あまり聞かれて嬉しい話ではない。共田のことは「彼女」としようと、学食へ入る前に約束した。
「早速なんだけど、御守を確かめに行ったの。現行の合格御守は、やっぱり緑だったよ」
挨拶を終えて早速切り出した話題に、位坂は箸を取りながら頷く。
「寺務所のおばあさん曰く、一昨年の途中で白から緑に変えたんだって」
「一昨年?」
「ね、引っ掛かるよね」
私もスプーンを取り、一掬いしたカレーを口へ運ぶ。もったりしすぎずさらさらしすぎず、ちょうどいい。たっぷりの野菜から旨味が出ているのだろう、給食系カレーのおいしさだ。
「ついでに、学業御守と合格御守の違いも聞いたの。学業御守は普段の学力向上サポートで、合格御守は試験本番のサポートなんだって。ますます、中学二年生でなんでもらった? って」
「本来なら三年生の受験前に渡すべきところが、二年生の時に渡さざるを得ない事情ができた、か」
位坂は頷き、鯖の味噌煮を口へ運ぶ。予想どおりではあるが、きれいな箸使いだった。
「転校した生徒がいるんじゃないか?」
確かにその可能性はあるが、それなら西杵が思い当たっていそうな気がする。
「ちょっと待って、情報源に確認してみる」
スプーンを置き、西杵へメッセージを送る。共田が二年なら、西杵は三年で在籍していた頃だ。
「情報源?」
「二年の西杵先輩。知ってる?」
別にそこまで隠す必要はないだろう。西杵は既に位坂の存在を知っている。
「北高に来ていたんだな。剣道部にいないから……まあ、あのまま道場か」
位坂は少し目を見開いて驚いたあと、含んだような答えに着地して汁椀に手を伸ばした。聞いてみたい気はするが、話されないのはそれなりの理由があるからだろう。
すぐに携帯を揺らした西杵の答えは、『いなかったと思う。見なくなった顔はなかった』だった。
「転校した子はいなかったっぽいよ」
「西杵先輩も、適応指導教室に通っていたんだな」
ああ、しまった。良くなかったかもしれない。今度会ったら、謝っておかなくては。礼を返し終えた携帯をポケットへ突っ込んで、再びカレーに向かった。
「意外?」
「いや、そうでもない。でも今普通に通えているなら、良かった」
口調はいつもどおりだったが、悪い感触ではなさそうだ。頷いて、またカレーを頬張る。
「じゃあ、変わりない日常生活の中で御守は渡されたことになるな。教師の出入りはどうだったんだろう」
「それも考えてみたんだけどね」
辛味の残る口を、麦茶でこざっぱりと洗い流す。
「保健室の先生、ここに来る前はスクールカウンセラーをしててね。私は東中でお世話になって、彼女は北中でお世話になってたの。先生ならって私もちょっと思ったんだけど、三月まではいたわけでしょ。渡してたなら、別れる時だよ」
年度途中に、わざわざ合格御守を渡す理由があったなら別だが。私立への編入も、やっぱり無理がありそうだし。
「スクールカウンセラーは、学校の先生とは違うのか?」
「うん。多分、独立した仕事だと思うよ。あの先生は中学や高校をいくつか掛け持ちしてたみたい」
「スクールカウンセラーの資格があれば、養護教諭にもなれるのか?」
「いや、どうかな。スクールカウンセラーはカウンセラーだし、養護教諭は教員でしょ? 別物じゃない?」
位坂はこれまでにない視点で質問を投げる。そういえば、その辺はどうなんだろう。聞いたことがない。
不意に揺れた携帯を取り出すと、西杵だった。
『山下さんの方は、私が探り入れるから』
大丈夫だろうか。とはいえ私が挑んで勝てる相手ではない。でも先生より先輩の方が怖いのは、多分皆同じだろう。山下も、西杵には素直に話すかもしれない。
「これを食べたら、現場に行ってもいいだろうか。手を合わせたいし、行けば分かることがあるかもしれない」
「そうだね、行ってみよう」
西杵に『よろしくお願いします』と返し、カレーに戻る。いつの間にか、位坂は半分以上食べ終えていた。
「位坂くん、さすがだね。これまでにない視点の推理が入ったよ」
「推理小説を読み続けた甲斐があったな」
「え、推理もの読むの? 誰が好き?」
食いついた私に、位坂は箸を置いて麦茶を飲んだ。
「アガサ・クリスティ、エラリー・クイーン、ジョン・ディクスン・カーは好きでよく読む。推理小説は、母が好きだったらしい」
「そうなんだ」
ためらいなく口にされる「母」にどきりとしたが、位坂は口ごもることもなく再び定食に向かう。白和えをつまみ、手を添えて口へ運んだ。
「母の蔵書は、廊下の隅で書棚ごと日焼けしていた。長い間、あることも忘れていた書棚だった。それが、小六の夏休みに突然そこにあることに気づいたんだ。なんとなく読みたくなって、埃を被った一冊を引き抜いた。それが、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』だった。流し読みをするつもりが夢中になって、貪るように読んだ。今は朝読書の時間に『アクロイド殺し』を読んでいる」
「いいねえ、ポアロ。日本の推理小説は読まないの?」
日本にも、面白い推理小説は数えきれないほどある。横溝正史に江戸川乱歩、松本清張もいい。
「読んだことはあるけど、俺には少し文が重くて肌に合わなかった」
「そっか、確かに言い回しや文の湿度が違うもんね。じゃあ、推理小説以外も翻訳ものが多いの?」
翻訳ものは、話は重くても文が硬質で少し乾いている感じがする。私は読み続けると谷崎や三島が欲しくなるが、その方がいい人がいるのも理解できる。
「読んでいると言えるほどではないけどな。結局、推理小説に戻る」
「生粋の推理好きの視点、期待してるよ」
笑った私を見下ろす位坂の視線がまた少し、緩んだ気がした。
位坂、と呼ぶ声がして、その視線が反対側へと向かう。近づく影に位坂はすぐに腰を上げ、礼儀正しく挨拶をした。
「食ってるとこ悪いな。今日、三年は遅れるから先に始めててくれ。一年は基礎のあと掛かり稽古で、お前が元立ちしろ」
「はい、分かりました」
剣道部の先輩らしいが、見覚えのある顔だ。向こうも私を一瞥して、すぐに気づいた。
「翡川さん、だっけ。第一小にいた」
「はい、そうです。お久しぶりです」
向き直って頭を下げた私に、
「久しぶりだね、元気?」
「はい、元気にしてます」
「良かった。じゃあ、行くよ。食事の邪魔して悪かった」
墨木は挨拶を終えると、位坂の礼に送られて去って行った。相変わらず華やかでモテそうだったが、あの頃とは少し雰囲気が違っていた。
「墨木先輩、剣道部なんだね」
「ああ、副将だ」
腰を下ろして向き直った位坂に、副将、と思わず繰り返す。
「あ、ごめん。ちょっと意外だったの。小学校の頃は委員長とか児童会長とか、トップに君臨するイメージだったから。頭もいいし運動もできるって話だったし」
窺う視線に慌てて答え、私も箸を握り直して再び食事に戻った。位坂は、納得した様子で頷き、茶碗を手にする。
「確かに、中学の頃は生徒会長をしていたな。北高では生徒会は部活扱いだから、兼部ができないんだろう。ただ、剣道は中学の時も主将ではなかった。先輩に問題があったわけではなく、『より適した人が選ばれた』んだろう。前回も、今回も」
「そうなんだ。まあ、分母が増えれば選ばれにくくはなるよね」
小学校は一学年が八十人くらいだったのが、中学では二百四十人、高校では三百人になる。上には上がいるのは、別に珍しいことではない。納得して最後の最後の一口を食べ終え、スプーンを置いた。
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