恋と沼 前
ある金曜日の深夜(つまりもう土曜日だ)、居酒屋バイトから帰宅した奏斗は、便利屋ブルーヘブンに
バイト先の路地裏で酔いつぶれて寝ていた若いサラリーマンを、放っておけず連れ帰ってきたのだと言う。
「酔っ払いを放置たぁ……物騒な世の中だねえ」
どこかのんびりとした口調で言う天に、
「言ってないで、そこに布団敷いてくださいよ」
苛立つ奏斗。
「ぶふ。へえへえ」
天が笑いながら敷いた布団に、奏斗は肩で支えていた男性を慎重に寝かせる。
「……何笑ってんすか」
「いやあ。ここにカナト寝かせたの思い出してさあ。かーわいかったなー」
店の奥にある小部屋。
まだ十五歳だった奏斗が、初めて心を落ち着かせて、ゆっくり眠った場所だ。
「うっざ」
「今じゃかわいくねえ!」
「はああ~めんどくせ~」
「あんだよ!? 思春期か!?」
「十九に思春期もクソもねんだよ……」
奏斗は、相手してらんね、と大きく息を吐きつつも、寝かせた男の首元を緩めた。
ジャケットは寝かせる前にかろうじて脱がせ、ネクタイもほどいてジャケットと一緒にハンガーにかけてやる。
シャツのボタンを外し、ベルトも取って――
「あーあ。無防備だなあ……うん。悪い奴ではないな」
天が彼の顔をじっと見てから言うと
「そうでしょうよ」
奏斗は、淡々と彼を横向きに寝かせ、顔の下にタオルを敷き、その側に洗面器を置く。
体に直接風が当たらないように扇風機を回し、清潔なタオルケットを掛けてやる。見知らぬ他人に対してすら甲斐甲斐しいその姿に、天の胸中は複雑だ。
「カナト~手慣れすぎだろ~」
「酔っぱらいの世話は、ガキの頃から死ぬほどしてましたから。天さん上で寝てていっすよ。面倒みとくんで」
ペットボトルの水を枕元に置いて、奏斗は何でもないかのように言うのだが――
「ばあーか。俺は寝なくても平気なんだよ。任せて、おとなしく寝とけ」
「あ~はは。そうでした。じゃ、お言葉に甘えて」
こうして未だに行動の端々に、無意識の『
「もっと自己中でいいんだぞ、カナト」
天の呟きは、既に廊下に出た奏斗には、届かなかった。
◇ ◇ ◇
「ごごごご……んごおっ!?」
自分の大きなイビキで目が覚めた様子の男は、尋常でなく慌てながら上体を起こした。
「おー、起きたか~おはよう」
「ぎゃっ!」
動揺するのも当然だろう。
――まず、ここがどこなのかが分からない。
――次に、寝ていたと思われる自分の横に、見知らぬ男(しかも赤髪のタトゥー入りで無駄にデカイ)が、
――さらに、自分が昨夜何をしていたのか、思い出せない。
天はそこまで
そして「よ」と手を伸ばし、近くの棚の上に置いてあったタオルを掴んで、放り投げる。
「ほらよッ。安心しろ~。何かするんならとっくにしてらあな。そこ出て右に洗面があるから、とりあえず顔洗って来い」
天が気安く投げたタオルを咄嗟に受け取った男は、働かない頭でもって、素直に従うことにしたようだ。
もそもそと立ち上がり、少しよろめく。部屋を出る時に柱部分に肩を打ち付け、「いだっ」とつぶやいて、のろのろと歩いて行った。
「ありゃあ。また厄介ごとじゃねえか……カナトの野郎、なかなか鼻が利くようになったなあ」
「……何年一緒にいると思ってんすか」
憮然とした奏斗が、部屋に入りながら言う。
「クク。ちげえねえ。朝飯か?」
「そっす」
「なあ。そろそろ敬語じゃなくてもいいんじゃねーの?」
「大天狗に対して? 恐れ多いんですが」
奏斗が大真面目な顔で言うので、天は肩から転げ落ちそうになった。
「おま……普段からそう思ってんのかよ」
「? 大体そうすね」
「そりゃあ、生きた心地しねえだろ」
「慣れました」
「っかー! どうしたもんかねえ。こりゃまた大事件だ」
天は頭を抱えた。すっかりこの暮らしに慣れてくれたと思ったのだが、本当の意味で奏斗の気は休まっていないのではないか――そんな疑念が生まれてしまったのだから。
「え、と、あの……」
そこへ、顔を洗い終わった男が戻って来た。すっかり目の覚めた顔をしている。
目の下の隈とやつれてこけた頬に、無精ひげ。くたびれたシャツは、肩幅に合っていない――買った当時より痩せたのだろう。これらを整えれば、くっきり二重の優男に違いないが、今はただの疲れたサラリーマンだ。
「とりあえず、飯作ったんで。こっちへどうぞ」
奏斗が促すが、男は戸惑っている。当然だろう。
「え……」
「ま、食いながら話しようや」
っこらしょ、と立ち上がった天が、その肩を強引に押した。
◇ ◇ ◇
男は、高橋
とある中小企業に勤める営業職で、昨夜は取引先接待のため、この辺りで飲んでいたらしい。
「ご迷惑をおかけして、大変申し訳ありませんでした」
わたわたと全身を手のひらでまさぐって、ポケットからくしゃくしゃの名刺を差し出し、深々と頭を下げる彼に天は
「気にすんな。うちのカナトが勝手に拾ってきただけだかんな」
とニカッと笑い、奏斗も
「っすね。バ先で倒れてたの見つけただけなんで」
とお椀に味噌汁を入れて持ってきた。
「……あ、ありがとう……おいしそう……」
優大は丁寧に両手で包むようにお椀を受け取ると、きちんと礼を言った。
ダイニングテーブルには、出し巻き卵と味噌汁、ご飯に漬物と、味付け海苔。
行儀よく手を合わせて「いただきます」と言い、食べ始めた優大だったが
「な、なんか……ごめんなさい……」
温かい味噌汁を飲むと、目から静かに涙をあふれさせている。
天は無言で、テーブルの上にティッシュの箱を置いた。奏斗は淡々と食事を終わらせると、食後の緑茶を入れようと、すぐそこのキッチンでやかんを火にかけ、急須に茶葉を入れる。
「うぅ……ずびび……ううぅ……ずびびび……あああすびばせ……」
「いい。我慢すんな。とにかく泣けばいいさ」
とん、とん、と横から天が背中を優しく叩いてやると――優大は子供のように「うあーん!」と大口を開けて泣き出した。
元々技術職を目指して就職した優大は、希望叶わず営業に配属されたのだと言う。理由は「見た目が爽やかだから」という社長の訳の分からない独断だ。
不本意ではあったがそれでも、いつか異動することを目標にし、顧客を知ることも将来の糧になるだろうと信じてやってきた、三十歳。
社長のワンマン経営についていけない人々が次々と辞め、業務量が増え、コストだ会社の利益がどうだと人員補充はされないまま、がむしゃらに働いてきたが――ついに三か月前から、残業代も支給されなくなったという。それでも仕事は減らず、接待だなんだと土日もままならず、このままでは良くないと転職を考えていたら
「半年付き合っている彼女に、結婚したいって言われて……ちょっと目の前が真っ白になりました」
という。
「それは……んな余裕ねえわなぁ」
しみじみ頷いて見せる天を見て、大天狗のくせに一番人情家だ……と奏斗は思ったが、あえて口には出さない。
「彼女さんは、この状況知らないんすか?」
「土日もろくに会えなくなったから、ライ〇でだけど説明したんです。なんか、だからこそ支えたいって言われて……でも僕からすると全然余裕ないし、そこまでの関係性がまだできてないっていうか」
「半年っすもんね」
「うん……でも向こうは二十九だし、焦る気持ちも多少は分かるから」
「「おひとよし」」
ずば、と声のそろった男二人に、泣き腫らした真っ赤な目をシパシパと瞬かせる優大。
「え……?」
「んな大変な時だ。自分を優先すんのは悪いことじゃねえよ」
「むしろそんな時に、結婚なんて迫ってくるような女は」
「「ろくなもんじゃねえ」っすよ」
「ぶっは!!」
優大、盛大にむせる。
「おふ、たり、息、ぴったり! ゴホ、ゴホ、ゴホゴホゴホッ!」
「わはははは!」
天が笑いながら、その背中をドンドン叩いてやる。
「ほら。少なくともここに、同じ考えの男がふたりもいるんす。心強くないすか?」
奏斗が、湯呑に緑茶をトポトポ注ぎながら、微笑んだ。
優大はその慣れた手つきに思わず見とれる。
この朝食を作ったのも奏斗だと聞き
「うわあ……僕、カナト君のことをお嫁さんにしたいよ」
笑いながら言うと、天が悪ノリして
「ああ!? カナトを嫁に欲しいだと! やらんぞ!」
と芝居がかった口調で言う。
なんで急に大声? と首を傾げた奏斗だったが
「……え……カナト君、お嫁さんになるの……?」
光晴が、いつの間にかダイニングの入り口に立っている。
「あ。みっちーさん。はよっす」
すかさず奏斗が立ち上がって迎えに行くと
「ああああの、これ、頂きものの桃をね……おすそわ……あの、開いてたから勝手に入ってゴメ……」
と動揺しつつも、きちんと手土産の説明をする光晴。
「めちゃくちゃ良い匂いっすね! あざっす」
奏斗は光晴が持っている白いビニール袋を覗きこんだ後、それを受け取りながら笑顔を返す。
そんなふたりを見て、天はなんとも言えず甘酸っぱい気持ちになる。
これだから、恋というやつはいいなあと思うのだ。――自分には無い物だから。
「天さん、嫁とか冗談やめてくださいよ」
奏斗は呆れた声で言うと、ガサガサと袋の中から
それから果物ナイフとまな板を出して、シンクのところで手慣れた様子で剥き始めた――ダイニングにたちまち良い香りが漂う。
「うん。カナトは俺の嫁だもんな~」
「ちげーしキモイし。さ、みっちーさんも一緒に食べましょ。そこ座っといてくださいね」
「う、うん!?」
ぎゅいん! と首を回す光晴の視線の先には、いやらしくニヤける大天狗がひとり。
「天さん……んもう」
光晴はひきつった笑顔で天の隣に座ると、テーブルの下で天狗の脇腹を思いっきりつねる。
「いだだだ! 悪かったって!」
「ゴホン。朝から失礼しました。ええと?」
光晴が気を取り直して優大を見やると、
「あ、私は高橋優大と申しましてですね、酔いつぶれて寝ていたところを奏斗さんに拾っていただきました」
また丁寧にぺこりと頭を下げた。
「なるほど。僕はこの近所のカフェで働いてます。みなさんみっちーと呼んでくださってます」
「みっちーさん。はぁ~」
「だいぶお疲れのご様子ですね?」
「ええはい。なんか、久しぶりにこう、人間になった気分です。はい」
「ふふふっ。不思議なことを言うんですね」
「ああいや、仕事とか接待以外で、まともに人と話してなかったなって思い至りまして」
「それはそれは……大変でしたね」
優大が、ぽうっと光晴を見つめる。
「はあ~。みっちーさんて、可愛いですね」
「え? 僕、男ですよ?」
「ああいやなんか、うん。こう、可愛いなって」
「ふふっ。優大さんて面白いですね」
優大は、まだぽうっと光晴を見つめている。
「はあ~笑顔もいい……ちょっと、優くんって呼んでみてくれませんか?」
「? 優くん?」
「わはあ~。可愛い……癒されま……」
――ドン!
「どーぞ」
ガラスの器をやや乱暴にテーブルに置いた奏斗が、憮然と全員にフォークを配り始める。
桃の形がなぜかどんどんひしゃげていっているのを見た天は、おかしくて仕方がない。
「ぶふふふ。なあユーダイ」
「はい?」
「お前、空気読めないって言われねえ?」
優大が、パチパチと大きな瞬きをした。
「めちゃくちゃ言われますけど……えっ、まさか今も読めてないですか!?」
――その察しの悪さが、今んとこ
天の神通力がピリリと走ったのを感じて、奏斗は眉根を寄せた。
「天さん、まさか」
「ん~どうすっかねえ~……うお、うま! あっま!」
口いっぱいに頬張った桃は、みずみずしい甘さをもたらし、だが後味には少しえぐみが残った。
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