第17話 メンヘラちゃんは鬼メッセージを送っている




【中性的な女 ゆう


 まるでそれは嘘のようで、時間が止まってしまったかのように感じた。

 周りの景色が白黒で、私たちだけ色がついているかのよう。騒めきさえも静寂に呑まれる。見つめ合った時間がまるで永遠に感じるかのような。

 心臓が、強く脈打つ。脈拍が上がる、嫌な汗が出てくる。心臓を凍てつくような手で握られたかのような感覚だった。目を奪われる。その長い綺麗な黒髪に。


「悠だろ?」


 答える間もなく、私はその男――――孝也たかやさんに抱きしめられた。反射的に私はビクッと身体を震わせる。


「お前……何で突然いなくなったんだよ……?」


 私を抱きしめる腕に力が入ったが、その問いに答えたくても答えられない自分がいた。

 孝也さんは以前と変わらない香水の香りがする。匂いというのは記憶に強く結びつく五感だ。私はその匂いで、当時の色々なことを思い出していた。思い出したくないことも、何もかも。


「ごめんなさい…………」


 謝る必要なんてなかったのにも関わらず、私は謝罪の言葉を口にした。彼は抱きしめていた腕を放し、私の顔をまじまじと見つめる。そんな目を真っ直ぐに見られずに私は目を泳がせた。


「お前、見違えるほど綺麗になったな」

「け……化粧しているから……ですよ」


 私は目をそらすしかできない。孝也さんの端整な顔立ちを直視できない。こんな格好で合わせる顔がない。恥ずかしい。


「アレ、お前の彼氏?」


 ひょろメガネは投げ飛ばされて腰を打ったらしく、痛そうにしているアレを孝也さんは顎で指した。


「違いますよ!」

「ばーか。そんなムキになって言わなくても、解ってるよ」


 長い髪を掻きあげて、流し目で私の方を見る。やけにそれが色っぽくて、いつものズルい手だ。自分の魅せ方を本当によく分かっている。


「てか、お前なんで急に連絡取れなくなったんだよ。心配したんだぞ」

「それは…………」


 喉元まで出かかった言葉を、私は噛み殺した。


「それは……察してくださいよ」

「ダメ、察せられない。ちゃんと言わなきゃ解らないだろ? それとも……言えないのか?」


 低くゾクゾクする声で言われ、抵抗する間もなく更衣室の中に押し込まれて、壁に阻まれ私は逃げ場をなくす。


「孝也さん…………ちょっと……」


 私のドレスのスリットの部分から出ている脚を、艶めかしい手つきで撫でる。


「お前、俺がいたのに他に男作ったのか?」

「そんなわけ……」

「じゃあなんで急にいなくなったんだよ……?」


 反論の隙を与えてくれない。耳元でささやく痺れる声、長い髪が私の顔にかかる。

 手がスリットからドレスの中に入ろうとした瞬間、カーテンが思い切り開く。


「お前!!」


 ひょろメガネが先ほどの事で激怒し、孝也さんの肩を掴む。


「あぁ?」


 その手を振り払い、孝也さんがひょろメガネの方を向いた。


「急に出てきてなんなんだお前は!? 警察に突き出すぞ!!」


 激昂するひょろメガネは、孝也さんとの身長差によって見上げながら怒号を上げる形になる。正直、ひょろメガネは孝也さんと比べるまでもなく色々と格好悪いが、下から見上げて凄んでも尚更格好が悪いと感じる。


「お前こそ、こいつにしつこくしてストーカーで捕まるんじゃねぇのか?」

「なんだと、この欠陥品が!」

「お前どうみてもコイツに嫌われてんだろ。そんなことも解らねぇのかよ? お前の方が欠落品じゃねぇ?」


 孝也さんがひょろメガネの前でわざとらしく私を抱き寄せた。


「こいつは俺のもんなんだよ。一生な」


 そんなつもりもないのに、『一生』などと軽々しく言う。その一言に、私はドキッとして何も言えなくなってしまうのだ。

 そういうところがズルい人だ。今も、昔も――――


「そうだろ?」


 まるで拒否権のない選択肢。

 孝也さんがそう言って、私の顔を顎をもってあげさせ、唇を重ねた。

 頭が真っ白になるというのは、まさにこのことだった。身体に力が入らない。私はまた指先だけビクッと震えた。


「なっ……!?」


 孝也さんが唇を放すと、こんな公衆の面前でキスをしたという事実と、それに孝也さんに対する好意が入り混じり、恥ずかしさで頭がいっぱいになった。他の事は全て頭から吹っ飛んでいく。

 明日の仕事のこととか、アミのこととか、リツカのこととか、ここ最近のこととか、全部だ。


「返事は?」

「…………はい……」


 そんな言い方をされたら、抵抗なんてできない。自分が自分でないような感覚に陥る。これが惚れた弱みというものだろう。


「解ったら消えろ」

「全く話にならない。おい、コイツをつまみだせ」


 ひょろメガネがこの高級レストランの店員さんにそう指示した。


「申し訳ございませんお客様……そのお方もお客様でして……」

「そんなことはどうでもいい! つまみ出せ!」


 ひょろメガネが店員ともめているときに、孝也さんはそんな騒動は自分には関係ないという様子で私に話しかけてきた。


「連絡先変わったか?」

「変わっていませんけど……」

「はぁん……俺からの連絡、フルシカトしてたってことか……」

「……ごめんなさい」


 駄目だ。この人の前では抵抗なんてできない。


「今度はちゃんと返せよ?」


 ちゅっ。

 当然のようにまた私にキスした。柔らかい唇。すこしタバコの味がする。その感触や香りにクラクラしてきた。


「連絡するから。またな」

「え……」


 帰りに送ってくれることを若干でも期待していた私は、その別れの言葉にがっかりする。


「仕事の会食で来てるんだよ。あんまり席外していると変に思われるから戻るわ」


 嘘だ。

 なんとなく解る。私と孝也さんはそんなに短い付き合いではなかった。だからこそ、分かるのだ。

 差し詰め、女性と来ているんだろう。


「お前があんまり視線集めてたからな、お前だと気づいたときは奇跡かと思ったぜ」

「…………早く戻ったらどうですか? 変に思われますよ?」


 私は芽生える嫉妬心を抑えて気丈に振舞った。孝也さんといると、いつも私はこうなってしまう。だから駄目なんだ。

 この人は私を駄目にする。


「そうだな。連絡ちゃんとしろよ?」

「……解りました」


 解りました なんて、何で言ってしまったんだろう。

 私は、ひょろメガネが店員ともめているうちに、素早く着替えてこっそりと抜け出した。


 自分の唇に触れる。昔のことを思い出した。

 深い追憶の中で、焦がれていた時間を思い出す。私は、せめてお礼だけでもと孝也さんの連絡先を開いた。

 連絡先も、メッセージも消したわけではない。最後の連絡の後が残っている。


〈おい、なんで返事返さねぇんだよ。具合でも悪いのか? 電話出ろよ〉


 何度も、見返した一節だった。何度も、何度も繰り返しそのメッセージを見た。

 愛しさを押し殺して、私は彼から離れたのに。

 彼は私のことなんて、なんとも思っていないはずなのに。

 それでも騙されていたいと感じてしまう。


 私は、複雑な気持ちになりながらも文面を打ち始めた。

 しかし、なんて文面を打ったらいいか解らなくて、私はしばらく歩きながら考えていた。


〈助けてくれてありがとうございました。連絡できなくてごめんなさい。色々あって連絡できませんでした。さっき久しぶりに貴方を見て〉


 好きな気持ちに変わりはありませんでした………………

 

 そんなこと、言える立場だろうか。

 そんなこと言われても……孝也さんも困ってしまうだろう。孝也さんは何人もの女性と関係を持っているのは知っている。だから、私がそんなことを言っても孝也さんは困ってしまうだけだ。いや、困るまでもなく、簡単に私を掌の上で転がすことができる。

 それが悔しいのだ。

 誰も彼の1番にはなれない。彼は誰も選ばない。孝也さんはそういう人だ。


 考えがまとまらない。文面もまとまらない。

 伝えたいことも、言いたいこともたくさんあるけど、私は全部それを消した。

 彼に返事をするときはいつもこうなる。言っていいのか、悪いのか解らなくて小一時間文面を考えては消しての繰り返しだった。

 こんな感覚も懐かしい。彼は私が考え抜いた文面だってろくに読んでいないって解っているけれど。


〈助けてくれてありがとうございました。連絡しなくてごめんなさい。〉


 また、毒を飲まされる。

 甘美な毒だ。抜け出せなくなる。愛しさに溺れてしまいそうになる。

 そんな柄じゃないって解っているし、こんなの不毛だってことも頭では理解しているのに。

 携帯がやたらと気になる。返事がこないかどうか、見てくれたかなとかと、悶々と考えているさなか返事が返ってくる。


〈お前、まだ俺のこと好きなんだろ〉


 私は、彼の痺れる声と言葉遣いと、あの強気な態度を胸に抱きしめた。


 悔しい。

 こんなにまだ好きだなんて。



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