第4話 確信犯

 少し考えてみたが、にわかには分かることではなかった。仕方がないので、マスターにご教授いただくしかなかった。

「確信犯とはどういう意味なんですか?」

 と聞いてみると、

「私は話をし始めると前提が長くなったりするけど、それでもよければ話してあげよう」

 という前置きを条件として提示された。

 何も分からないよりも、話を聞いているうちに、こちらもいろいろな発想ができるという意味で、そこに問題はないような気がした。

「はい、構いません。お願いします」

 というと、

「それでは」

 と言って、自分で淹れたコーヒーを口にした。

 確信犯というのは、相手が自分の考えていることが分かっていて、それでもやってみようと思うことだったり、当たり前に皆がやっていることを下手な理屈をつけてみたりして、最後には、『ダメもとで』という意識を込めている場合が考えられますね」

「どういうことですか?」

「何か怪しげな態度を取ることで、相手が何か疑っている様子を見ながら、それでも相手に勧めることで、余計な発想を持たせ、ひょっとすると、自分が考えすぎているのではないかと頭を混乱させるやり方ですね。相手が何も知らないのをいいことに、難しい話をして有無も言わせずに従わせるやり方も確信犯のようなものですが、それ以上に、相手が知っていると思うことでも相手の頭を混乱させることで、ダメで元々という思いの中でやっている考えですね」

「そういうのって、大きな犯罪ではないですよね。いわゆる少々のことなら、笑って許されることですよね」

「ええ、その通りです。だから、まわりは少々のことでは何も言わないだろうという考えがあるから、何か不都合な状況に陥っても、『そんなつもりはなかった』と言って逃げることができるじゃないですか。そういう最初から逃げ場を作っているようなやり方は、彼のポリシーに反しているんでしょうね」

 マスターの話を聞いていると、武明にも同じようなところがある気がした。

 それは確信犯に対してではなく、杉下老人に対してだった。

 自分の中にも、確信犯を許せないところがある。その部分を自分では、

――潔癖症なところ――

 だと思っている。

「それが確信犯ということですか?」

 と聞くと、

「私が人から『確信犯というのは、どういう人のことですか?』と聞かれた時に答えるであろうと思っている話をしただけですよ。確信犯と聞いてまた違うイメージを持っている人もいると思いますが、杉下老人が嫌いな確信犯は、こんな人たちではないかと私は思っています」

 とマスターは答えてくれた。

「杉下老人の考える確信犯というのはどういうものなんでしょうね? 僕たち若い人から見る確信犯と、年齢を重ねた人が見る確信犯とでは違いがあっても仕方がないと思うんですよ」

「それはそうでしょうね。何といっても、相手は年齢を重ねている。いろいろな人と接触もしているでしょうし、ニュースなどで、いろいろな事件も知っていますからね。でも、テレビでニュースになる犯罪や、話題になることが確信犯に結びついているというのはあまりないような気がしているんですよ」

「そうですね。確信犯というと、もっと身近なものだったりするんでしょうからね。なんといっても、こちらの考えを相手が見破ったとして、それでもやめたりしないものが確信犯でしょうからね。むしろ、相手に看破される方がやりやすい確信犯というのもあるような気がしますよ」

 武明がそういうと、

「ダメもとで相手を惑わすというやり方は、最近実際の犯罪でも増えてきているようですよ。宗教に絡んでいるものも、その一つではないかと思ったりします」

 いわゆる、

「霊感商法」

 と呼ばれるものもそうではないだろうか。

「あなたのご先祖様に、犯罪者がいて、今のうちに禊を行っておかないと、あなたはこのままでは不幸になります」

 などと言われて、びっくりしているところへ、

「この霊験あらたかな坪をご所望されると、あなたの未来は明るいものになります。毎日この坪にお祈りすればいいのです」

 であったり、

「あなたが持っている三文判では、自分への禊にはなりません。まずは自分を目立たせることで、先祖の呪縛から解放させなければいけません。新しい印鑑をおつくりになって、その印鑑に霊感を授けることで、あなたの未来は約束されます」

 などと言った言葉巧みな勧誘で、高価なものを売りつけるやり方である。

 不安に精神を蝕まれ、何を信じていいのか分からず、藁をも掴む気持ちで占ってもらえば、こんな占いに出くわすこともある。それがいわゆる霊感商法というもので、通常の精神状態であれば、こんな胡散臭い話に乗るはずもない。

「人の弱みに付け込む」

 とは、まさにこのことであろう。

 ただ、ひょっとすると、元は本当に霊験あらたかなもので、霊感商法でも何でもなかったのかも知れないが、それを誰かが悪用することで商売になってしまうと、本当の霊験あらたかがかすれてしまい、見えなくなってしまう。霊感商法がどれほどのものか規模や奥行きは分からないが、少なくとも表に出ていることに対して肯定的な人は誰もいないだろう。

 杉下老人が嫌いな確信犯というものの中には、この霊感商法なるものも含まれているように思えてならなかった。

――ひょっとすると、過去に騙されかかったことがあったのかも知れないな――

 とも感じた。

 本人は、真面目に考えていたものを、まわりが必死に止めることで、そのうちに我に返った杉下老人が、あわや騙されるところだったことに気づいたことで、確信犯に対する恨みや嫌悪感が本物になったのだとすると、人間不信になったとしても、不思議ではないように感じられた。

 人間不信や確信犯への嫌悪が、そのまま孤独な毎日にどのような影響を及ぼしているのか、すぐには分からなかった。

 確信犯というのを、言葉にして改めて聞いてみて、杉下老人がその確信犯に嫌悪を感じているということを聞くと、

――杉下老人は、自分に近いものがある――

 と、感じさせられた武明だった。

 そんなことを考えていると次第に、

――杉下老人が考えていることが、そのうちに分かってくるようになるのではないか――

 と感じるようになってきた。

 なるほど、そう思ってくると、隣の庭を毎日のように覗いていてもどんどん気になることが増えてくる理由も分かった気がした。しかも、考え方が似ているだけに、飽和状態になることもあるのは分かっていたので、飽きが来たかのように感じたのも分かる気がしてきた。

 だが、その飽和状態が本物なのかどうか、自分でも分からない。虚空への感情がどこか自分の中に壁を作ってしまっているのではないかと感じたからだ。

「ところで、杉下老人は、何か具体的に嫌いに思っている確信犯というものを感じているんでしょうかね?」

 と、武明は聞いてみた。

「ハッキリと口に出すことはないけど、前から杉下老人に近寄ってくる女性がひっきりなしで、明らかにお金目当てだと露骨に分かる人もいると聞いたことがあるんだけど、それがどこまで本当なのか分からない。実際に杉下老人がそんなにお金を持っているというわけでもなさそうなんだけどね」

「じゃあ、杉下老人の考えすぎ?」

「そうかも知れないな。自意識過剰が強すぎるのかも知れないと自分では言っていたんだけど、そこまで目立ちたがりだという意識もない。子供の頃は、自分から目立とうとしなければ、目立つことのない少年だったので、何とか目立とうとしていたらしいんだ。その気持ちは私にもよく分かったので、その思いをよく聞いてみると、私も感じていたように、その思いには限界があって、結局は最後には孤独を感じることになるんだって言っていましたよ」

 と、しみじみ、マスターは話してくれた。

「風俗通いというのは?」

 と武飽きが思い立ったように口にすると、マスターはその言葉を待っていたかのように、

「そう、人間不信が招いた副作用のようなものかも知れないね。お金を払って女を買いに行くと思われるかも知れないけど、杉下老人は、お金を払って時間を買いに行くんだよ」

「時間を買いに、わざわざお金を払って?」

「そうだよ。お金を使うことをもったいないと思うのであれば、欲望だけのためにお金を使っているとしか思わないだろうね。でも、いったん人間不信に陥ると、お金なんか、どうでもよくなってくるんだよ。どうでもいいというのは御幣があるかも知れないが、他の人と同じ感覚でお金を使うことへの嫌悪感というべきか」

「人間不信になるのと、孤独を感じるのって、どっちが先なんだろう?」

 武明は孤独も人間不信もどちらも感じているのだが、最初から一緒に感じたわけではない。人間不信の時に孤独を感じたりすることはなく、孤独の時に人間不信を感じることもなかった。なぜ今両方を感じているのか自分でも分からないが、人を嫌いになるという共通の思いなのに、その派生型としての人間不信と、孤独というものが、同じ次元では存在できないもののように思えていたのだった。

 それなのに今は両方を感じる。

 元々人間不信と孤独というのは別のものだと思っていた。

 人間不信というのは、人から騙されたり、信じてはいけない人を信じてしまったことで、自己嫌悪に陥った時に感じるものだと思っていた。

 しかし、孤独というのは、まわりはどうでもよく、自分がまわりに対して心を開こうとしないことから陥るもので、感情とは違うところにあるものだった。

――僕はどっちが多かったんだろう?

 今までに人間不信と、孤独感との間でループしたことがあったような気がする。どちらも陥る前に前兆のようなものがあって、どちらの前兆が気持ち悪かったのかというと、人間不信の方だった。

 武明は、孤独を感じることにあまり違和感はなかったが、人間不信を感じる時というのは、

――何をやっていても、面白くない感情だ――

 と思っていた。

 それは、あるで躁鬱状態のようではないか。

 武明は、今までに躁鬱状態に陥ったことは何度かあった。一番最初に感じたのは、他の人に比べても結構早い方ではなかっただろうか。その頃はまさかそれが躁鬱状態だなどと想像もつかなかった。後から思い返して、

――あれが躁鬱状態の始まりだったんだ――

 と思えた。

 それがいつのことだったのかというと、小学生の高学年の頃、何をやっても面白くない時期が急に訪れたのだ。

 明らかに今まで見えていたのと同じ光景ではなかった。学校の校庭が小さく感じられ、それが遠くから見ているように感じるのだということは、小学生の自分に分かるはずもなかった。

 担任の先生を意識していた。

 担任の先生は女の先生で、子供心に憧れていた。初恋というわけではなく、子供の頃にはよくある年上の女性への憧れであり、そこに母親を見たのかも知れない。

 武明が、母親を遠ざけるようになったのは、この頃だった。

 先生への憧れが、母親と比較してしまう自分を感じさせ、母親が決して悪いわけではないのに、先生を引き立てるために、母親を劣化した目で見てしまう自分を情けなく感じていたのだろう。

 その思いが、いつしか欝状態を作り出し、憧れている先生の顔をまともに見ることのできない少年になっていた。

 しかも、先生は小悪魔的なところがあり、色気というよりも、かわいらしさが表に出ているので、大人の先生からも人気があった。そんな男の先生を見ていると、恋敵というよりも、母親を取られるような感覚に陥ってしまったことで、先生からからかわれているような錯覚すら感じていた。

 それも、からかいながら、先生は自分に気があるという風に思い込んでいて、その思い込みがまたしても、欝状態に拍車をかける。

「ああ、何をやっても、面白くない」

 思わず独り言のように口に出してしまう。そんな様子を担任の女の先生は、妖艶に笑って見ているのだった。

 一番最初、先生に対しての感情を分かっていなかった時、自分が今まで見えていた光景と違うものが見えたという話を先生にしてしまった。

「須藤君は、なかなか面白い感性をしているわね」

 そういって先生は歯を見せて笑った。

 教室では、そんな笑い方をしたことのない先生が、自分にだけ見せてくれた笑顔、そこにどんな感情があるのか、小学生が分かるはずもないのに、緊張感が高まっていた。

「先生、僕……」

 と、甘えたような声を出していたのかも知れない。

 すると、先生は今までの先生ではなくなっていた。その顔には笑顔が満面で、それは、皆に振りまいていた教室で見せる顔ではなかった。自分だけのためにするその顔は、

「このことは内緒よ」

 と言う言葉を耳元で囁いた時、すでに金縛りに遭ったかのように、動けなくなっていたのだ。

「何が内緒なの?」

 と言う前に、先生の唇が、武明の唇を塞いだ。

「君、かわいいわ」

 指で、先生は、武明の頬を撫でている。武明には、すでにどうすることもできなかった。

 いや、どうすることもできなくてもそれでいい。せっかく先生が自分をかわいがってくれようとしているそのシチュエーションに逆らう気持ちなどあるはずもなかった。

「あぁ、先生」

 声が漏れてからというもの、喉の奥がカラカラに乾いていて、言葉が出てくる状況ではなくなっていた。

 それからどれくらいの時間が経ったのだろう?

 先生は武明に何度も口付けし、背中をなぞってくれていた。さすがに、自分の生徒に手を出すほどの勇気はなかったのか、一線を越えることはなかった。

 今から思えば先生も、気持ちの高ぶりを必死に抑えていたのだろう。乾いた空気の中、二人の吐息が十分に湿気を帯びた空気を作り出し、妖艶な雰囲気はそれ以上でもそれ以下でもない凍りついた時間を作り出しているようだった。

 先生は、次の日からも今までと変わらない様子で、武明を見ても、普通の先生と生徒でしかなかった。

 だが、武明にはそんな状態のままいられるわけがない。

 先生への思いを満たすことができずに、かといって、諦めるだけの力があるわけもない。小学生の自分で思いを遂げようとした先生の罪は、武明が一人で背負うことになってしまった。

 それなのに、武明は先生を諦めることができなかった。その思いが躁状態を作り出し、何をやっても楽しく思えるのだが、先生だけはまともに見ることができない。そんな中途半端な感情のまま、いつしか欝状態がやってくる。そして、前兆を経て、また欝状態に入り込むのだ。

――ああ、また欝状態だ――

 前兆はいきなりやってくる。躁状態になる時にはトンネルの出口が見える感覚だったが、欝状態になる場合は、信号機の色が違って見えてくる。

 今までは、緑色に見えていた青信号、そして、普通に赤に見えていた赤信号が、真っ青な青に、ワインレッドのような赤に変わって見えてくるのだった。夕方の喧騒とした雰囲気が、夜になると、はっきりとした光を帯びて感じるようになってくると、そこは欝状態の入り口だったのだ。

 そんな時、担任の先生と、同僚の先生が腕を組んで夜の街に消えていくのを見た。ネオンサインをバックに二人はキスをしている。それは、自分にしてくれたキスとは違って、完全に相手に身を任せているキスだった。

――いやらしい――

 悔しさと妬みが渦巻く中、いやらしさが沸々と湧き上がってくるのを感じた。

「あれが大人の恋愛なのか?」

 そう思うと、男と女の両方ともが汚く感じられた。

 自分も男の一人なのに、自分だけは違うと思い、男も女も嫌いになった。

 それがどんな感情なのか分かっていなかった。

「これが人間不信というものか」

 と最初に感じたのは、いつが最初だったのだろう?

 躁鬱状態というのは、その頃には分かるようになっていたが、嫉妬や恋愛感情というものはハッキリとは分からない。

 中学生の間に、自分は成長期にあることを自覚していたが、そんな成長期の自分も、まわりの人も、皆汚らしいものに思えてならなかった。

 そんな時に思い出したのが、ネオンサインをバックに見えていた先生同士のキス。成長期の自分たちから比べれば、十分に綺麗なものだったのを思い出していた。

 それから躁鬱症と人間不信が同じ次元に存在しているように思うようになり、

「躁鬱症の原因は人間不信から来るんだ」

 と思うようになっていた。

 確かに人間不信から躁鬱症になったのは確かだと思うが、人間不信がなくなれば躁鬱症も解消されたり、逆に躁鬱症が治れば、人間不信もなくなるというわけではない。あくまでもきっかけというだけで、対策に使えるだけの原因とは言い切れないところがある。

 しかも、人によっても原因が同じだとは限らない。その人それぞれによって解決、解消法が違っているのだ。それを思うと、今は時間が解決してくれるのを待つしかないということなのだろう。

 中学時代が今から思えば一番躁鬱症がひどかったような気がする。人間不信も一番強く、ただ、その頃には寂しいという感覚はなかった。

 つまりは、孤独という感覚がなかったということになる。

 もちろん、孤独という言葉は知っていた。寂しいという感情から生まれるもので、孤独を感じたくないという思いは、ずっと持っていた。

 実際に孤独を一番最初に感じたのは、高校卒業前くらいだっただろうか。三年生の頃は受験を前にしてナイーブになっていたが、孤独とまでは感じていなかったように思う。

 だが、友達から、

「お前は小学生の頃から孤独だったからな」

 と言われ、大きなショックを感じた。

――孤独なんて感じたことなかったはずなのに――

 小学生の頃を思い出そうとしても、ハッキリとは思い出せない。ハッキリと思い出せないということは、無理に思い出そうとして思い出したことが本当のことなのか怪しいものだ。

 むしろ違う記憶であることの方が強い気がした。しかも、それが本当に自分の記憶なのか、それすら怪しい気がしていた。

「孤独だったんじゃないんだ。人間不信だったんだ」

 と友達に答えてみたが、友達はその言葉の意味がハッキリと分かっているわけではなかった。

「孤独と人間不信って違うのか? 人間不信が孤独を生むんじゃないのかい?」

 と言われた。

「そうじゃないんだ。孤独と人間不信はまったく逆のもののように思えるんだ。そこには感情の有無が関わっているんじゃないかって思っているんだけど、お前はどう思う?」

 友達と少しの間、談義した。

 しかし、結論が生まれるわけもなく、話は中断してしまった。しかし、一ついえることは、

「孤独に見える人間不信もあるってことなのかも知れないな」

 という友達の意見だけは、二人とも賛同していたのだった。

「俺も人間不信になったことがあったけど、それはその人に対して恨みや妬みを感じたわけではないんだよな。孤独を感じるというのも同じもので、相手に何も感じないから、自分の中に孤独を作るんじゃないかって思うんだ」

 これも友達の意見だったが、それも間違っていないような気がした。

 武明は一人で考えている方が好きだったが、こうやって友達と談義するのも悪くないと思うようになった。人間不信とは別のところで人を求めている時もあると思うと、やはり孤独と人間不信は、同じ次元で考えてはいけないものに思えてきたのだ。

「杉下老人は、今までに人間不信に陥ったことってなかったんだろうか?」

 思わず、武明が口を開いた。

「そんなことはないと思いますよ。でも、実際に被害に遭ったのは初めてなのかも知れないですね」

 とマスターが返した。

「僕には、杉下老人には孤独は感じますが、どうしても人間不信を抱いているようには思えないんですよ。人間不信を自分に言い聞かせているとは思えるんですが、本当にそうなのかということまで、ハッキリと分からないんです」

 という武明の言葉に、マスターは言葉がないようだった。

「杉下老人が風俗に通うようになってから、私も行ってみたんですが、今まで感じていたような風俗に対しての思いとは違っていましたね」

「というと?」

「偏見の目で見ていたんですが、そんなことはまったくない。老人が、会話を求めていると言っていましたけど、その気持ち分かる気がしますよ。ただ、老人は女性恐怖症だったのかも知れません」

「女性恐怖症の人が風俗通いですか?」

 少し考えれば分かることだったが、その時は風俗に対しての偏見もあってか、深く考えなかった。

「ええ、女性恐怖症だからこそ、風俗に通うんです。普通の恋愛ができない人というのは結構いるもので、性欲を満たすためだけに風俗に通うという人も少なくないんじゃないかって思いますよ」

 その時のマスターの言葉には重みがあった。ただ、重みだけではなく、冷徹さもあり、いかにも他人事のように思えてならなかった。

 武明は女性恐怖症ではないが、普通の恋愛はできないと思っている。孤独を感じているからだ。中学二年生の頃に異性を気にするようになってからしばらくは、

「彼女がほしい」

 と切に願っていた。

 だが、その思いも次第に薄れてきた。自分がどうして彼女がほしいのかということに気づいたからだ。

 彼女がほしいと思ったきっかけは、最初から分かっていた。友達が女の子を連れてきて、自慢話を始め、イチャイチャしているのを見せ付けられることで、妬みと羨ましさから、彼女がほしいという意識を持ったのだ。

 確かに思春期であり、彼女がほしいと思っていたのは間違いのないことだが、人への妬みや羨ましさから生まれたものだということを意識したことで、まわりに対しての競争心が生まれた。しかし、自分とまわりを比べて自分に勝ち目がないと思った時、まわりと一線を隠すことを考えたのだ。

 人によっては、まわりと接することで、自分を高めていこうと思う人もいるだろう。そういう人の方が大半なのかも知れない。しかし、武明にはそんな発想はなかった。人と接することを、なるべく控えるようになったのだ。

 中学高校時代と、まわりを見ていると、皆何を考えているのか分からなかった。まったく何も喋らないやつもいて、彼らはそういう意味では分かりやすかったが、団体でつるんでいる連中の中にも、どこかよそよそしさを感じる連中もいた。そんな連中を見ていると、人を避けているように思え、なるべく目立たないようにしようとしていた。

 そんな連中を見ていると、武明は矛盾を感じた。

――人とつるんでいながら、目立とうという意識がないなんて、何のためにつるんでいるんだ?

 と思った。

 自分の居場所を見つけることができず、とりあえず人とつるんでいるだけだというのであれば、武明にはその気持ちは理解できるものではなかった。

「杉下老人は、風俗に通うようになると、彼に群がってきた女性が急に離れていったというんです」

「老人は自分が風俗に通っているということを他の女に話したんですかね?」

「ええ、話したようですよ。でも、それだけのことでお金目当ての女性が、まるで蜘蛛の子を散らすようにまわりから去っていきますかね?」

「そうですね。それは少しおかしな気がしますね」

「私もおかしいと思って、少し杉下さんに聞いてみたんですよ。そうすると、『私のまわりに群がってくる女たちは、それぞれに風俗関係の女たちなんだ。そんな女たちでなければ、私に群がったりしませんからね』って言っていたんです」

「女たちが嫉妬心を燃やしたということですか?」

「それもおかしいと思うんですよ。杉下老人のまわりに、他の女が、しかも自分と同じように風俗関係の女がいることは分かっているはずですからね。しかも、彼女たちも自分と同じようにお金目当てであることを、皆それぞれ分かっているhずだからですね」

「そうですよね。一体どういう発想から彼女たちは老人から離れていったんでしょうね。風俗に通っていることと関係がないんじゃないですか?」

「いや、そんなことはないようですよ。それは杉下さんが自分で話してくれましたからね」

「マスターは、その理由をご存知なんですか?」

「ええ、分かっているつもりです。実際に杉下さんから聞きましたからね。でも、俄かには信じられない話であり、今でも不思議に思うことなんですよ」

 とマスターは言った。

「僕にも分かるように話してくれるとありがたいですね」

 と武明が言うと、

「どこまで理解いただけるか難しいとは思いますが、できるだけお話しましょう。でも、本当は実際に本人から聞かないと分からないところもあると思うので、そこはご了承ください」

「ええ」

 本人が話すのと、他人の口からの又聞きでは、天と地の差があることだろう。思い込みや勘違いも起こりかねない。しかし、本人が話をしてくれるはずもないので、とりあえず理解できるところまででも話が繋がればいいと思っている。武明はマスターの話と、今まで自分が見てきた杉下老人を思い出しながら、話を聞くことにした。

「まず、どこから話せばいいかな?」

 と言いながら、マスターはコーヒーを一杯、口に含んだ。

「須藤さんは、杉下老人の息子夫婦が独立して家を出たのをご存知ですよね?」

「ええ、もちろん知っています」

「しばらくすぎ下老人は一人になって、孤独を味わっていたようなんですが、本人はそれを寂しいとは思っていなかったんです。しばらくしてから老人は風俗に通うようになって、それまでの自分の人生にはなかったものを見つけたと言っていました」

「やっぱり、寂しかったんですかね?」

「そうではないようですよ。寂しさの中からでは、決して見つけることのできないものを見つけたと言っていましたからね。お金がある間は、ずっと風俗に通ってもいいとまで言っていましたよ」

「そんなにのめりこんでいたんですか? そんなに風俗というのはいいものなんでしょうか?」

「杉下さんにとってはいいものだったのかも知れませんね。杉下さんは、風俗に通っていると言っても、他の人とは少しパターンが違っていたんです」

「それはどういうことですか?」

「普通の人であれば、お気に入りの女の子が現れれば、その子をずっと指名するものですよね。また、人によっては、お気に入りの子を決めることなく、ただ、いろいろな女の子で楽しみたいと思っている人もいるでしょう。杉下老人は、結構早い段階でお気に入りの女の子を見つけたようで、その子をずっと指名するつもりだったようなんですが、彼女が風俗を辞めるということになり、杉下老人にお金で雇われて、一緒に住んでいたようなんですが、そのうちにまた風俗に通うようになって、今度は、誰を指名するというわけではなく、ランダムに相手をしてもらっていたようです。そんな時に、老人に女が寄ってくるようになり、お金目当ての女が老人のまわりに増えたんです」

「そうだったんですね」それからどうなったんですか?」

「それでも、老人は風俗に通うことをやめなかった。むしろ積極的に通っていたようでした。その様子を見て、今まで群がっていた女が彼の元から去っていったというわけです。さっきの話は、端折ってしまったんですが、その前にはこういう経緯があったんですよ」

 というマスターの話だった。

「じゃあ、杉下老人のところにいる綾乃という女性は、杉下老人から金で雇われた元風俗嬢ということになるんですか?」

「そういうことです。彼女は杉下老人の介護をしながら、愛人のような生活をしている。それは彼女が望んだことであって、ここが不思議なところなんだけど、杉下老人は性格的には、自分の考えと少しでも違っていれば、決してお金を使おうとは思わないはずなんだ。人のためにお金を使うなど、愚の骨頂だとまで話していたんですよ」

「なるほど、表から見ているとさぞや頑固そうな老人だと思っていましたけど、その通りだったんですね」

「ええ、その通りです。あの人ほど頑固な人はいないでしょうね。あの人はこんなことも言っていましたよ。『私のように頑固な人は、そうはいないと思う。だから私のことを理解してくれたり、他人事ではなく見てくれる人は、本当に頑固な人なんだって思います』ってね。だから、私も須藤さんも頑固なんじゃないかって思いますよ」

「僕が頑固なのは認めます。その証拠に引き篭もりになってしまって、孤独を寂しいとは思わなくなり、杉下老人のことが気になって、ずっと杉下老人が庭に佇んでいるのを毎日のように観察しているんですからね」

 誰にも言ったことのない秘密にしておかなければいけない話をしてしまった。マスターはその話を聞いてどう感じるのだろうか?

「須藤さんの話もよく分かります。きっと私も須藤さんの立場なら同じことをしたような気がしますね」

「それはそれだけ杉下老人に思い入れがあるということですか?」

 と武明が聞くと、

「それもありますが、私には須藤さんも興味があるんですよ。引き篭もりの人が、どうして杉下老人に興味を持ったのか。なるべく他人とは接点を持ちたくないというのが引き篭もりの人ですよね。いくら妄想とはいえ、相手は生身の人間なんですからね。そこが興味を持った一番の理由ですね」

「僕に興味を持ったんですね? 僕は自分でも引き篭もりだと思っていますが、他の人と違うように思えるんです。元々、他の人と同じでは嫌だという感覚が非常に強かったので、一口に引き篭もりと言われるのは、自分としては複雑な思いだったんですよ」

 と武明が言うと、

「私も常々、他の人と同じでは嫌だと思っているんですよ。だから、人とつるんでいる人を見るのは嫌だし、自分がつるむこともないんです。中学高校の時など、いくつかの集団があって、その中心にいるやつも嫌いだったけど、一番嫌だったのは、そのすぐ横にいるやつが嫌だったですね。どうせつるむのなら、中心にいればいいのに、どうしてナンバーツーに甘んじているのかって、見ていてイライラしました」

 とマスターは言った。

「マスターのその考えは、僕には正直理解できないですね。というよりも、今までにそんなことを考えたこともなかったです。私は常に、一番端にいる連中にしか目が行きませんでしたからね」

「それはやはりその人の願望が含まれているのかも知れないですね。実際に今私は、ナンバーツーが一番ではないかと思っているんですよ。決して表には出てこないけど、その実際を操っているのはナンバーツーなんだって思うと、それが元々の自分の願望だったんじゃないかって思うんですよ」

「ということは、僕は端にいる人が願望だったということかな?」

 と自分に言い聞かせてみたが、マスターに言われると、まんざらでもないような気がした。

 学生時代にも、ほんの少しだけ、願望ではないかと思ったことがあったが、自分で考えるだけでは、すぐに打ち消してしまうのが関の山だった。その時に、考える暇もなかったのだ。

 マスターのいう

「ナンバーツー」

 という発想が、武明に別の考えを抱かせた。

 それは、そう欝状態になっていた自分を思い出したのであって、そう欝状態というのが、人間の表裏を表すものだという発想があったからだ。

 ただ、ここでいうナンバーツーが裏だと本当に言えるだろうか?

 ひょっとすると、ナンバーツーが表なのかも知れない。

 今ここでこうやって考えている自分は、いつも表にいるようで、その実、表を見ているのだから、実際には裏なのかも知れないではないか。

 自分のことを他人事として見てはいけないという考えは、裏から見る表の自分を表しているということに、気づくはずもなかった。

 しかし、自分を他人事として見るのではなく、客観的な冷静な目で見るという考えであれば、それは裏から表を見るという発想ではないだろう。

 躁鬱状態にある自分は、欝状態の時に躁状態の自分を見ることはできない。躁状態の時に欝状態の自分を見ることもできないということは、それぞれの自分は違う次元に存在しているのではないかと考える。

「杉下老人は、もう一人の自分を探していたんだろうか?」

 ふと、武明はそんな風に感じた。

「それは違うと思います。彼は自分だけであり、もう一人の自分の存在はないと思っていたんです。その話もしたことがありました。彼はもう一人の自分の存在という発想は持っていました。しかし、それは皆が皆ではなく、もう一人の自分というものが存在する人と存在しない人とに別れると思っていたようです。自分にはもう一人の自分は存在しないと自分で思っているようでしたよ」

 というマスターの話を聞いて、

「僕ももう一人の自分という発想は以前から持っていました。でも、僕は杉下老人と違って、もう一人の自分は、誰にでもいるものだと思っています。いる人といない人が同じ次元に存在するなど、僕には信じられません」

「その意見は私も同じですね。私も須藤さんと同意見です」

 と、マスターはすんなりと認めた。

「でも、少しは違うかも知れませんよ」

 あまりにも簡単に認められると、却って気持ち悪い。思わず反対意見を述べてみたくなったのも無理もないことだろう。

「もう一人の自分は同じ次元にいると思いますか?」

 とマスターから言われ、

「僕は違う次元にいるのだと思います」

 と答えると。

「やはり同じ考えですね」

 と、マスターは答えた。

「でも、今まで見てきた杉下老人の様子は、確かに誰かを探しているような気がしていたんです。僕はそれをもう一人の自分ではないかと思った時期も正直ありました。そして、その意識が間違っていないと思ってもいたんですよ。それが違っているのではないかと思ってもいなかったので、マスターの意見を聞いていると少し新鮮な気がしてきました」

 と、武明がいうと、

「彼は確信犯なのかも知れないですね」

 とマスターが即答した。

「確信犯? それはどういうことですか?」

「彼は、誰かに見られているということを最初から分かっていて、そのつもりで行動していた。だから、須藤さんが信じて疑わないように仕向けることもできる。でも、逆にそれは無理のあることでもあるんですよ。つまりは、どこまでが彼によって作られた感情なのか、判断がつきにくいともいえますね」

 マスターの言っている意味を半分分かった気がしていたが、半分は分からない。しかもその分からない部分に、肝心なところが含まれているような気がして、武明は再度「確信犯」という言葉を反芻してみた。

「杉下さんが見られていることを意識していたなんて、分かりませんでした」

「それはそうでしょう。見ている方は、なかなか相手が気づいているということは分からないものですよ。だから、ミイラ取りがミイラになったなどということわざがあったりするんじゃないですか?」

 まさにその通りだった。

「杉下老人というのは、何か秘密めいたところがありますよね」

「だから、分かりやすいところもあるんですよ。何か秘密を持っていると思わなければ、ただ孤独な老人というだけしか分からないような気がしますからね」

「確かにそうです。そういう意味では僕なんか、孤独な男にしか見えないかも知れませんね」

 と言って苦笑いをした。

「でも、男というのは、えてして孤独な部分を醸し出している人が多いと思いますよ。それに比べて女性は秘密めいたところがあるんだと思いますよ」

 というマスターの話を聞いて、

「なるほど、じゃあ、杉下老人は女性っぽいところがあるということかな?」

 自分で話していて、

――一体何を言い出すのだ?

 と思うほどの話だった。

 だが、マスターと話をしていると、突拍子のないことも自然であり、新鮮に感じるのだった。

「ところで須藤さんは、杉下さんの隣に住んでいるということだけど、杉下老人の行動を観察しているのかい?」

 ここは、本当であれば否定しなければいけないところなのだろうが、相手がマスターであるということもあって、否定できなかった。

「ええ、そうです。でもストーカーのような行為には当たらないと思います。家のベランダから見える範囲でしか見ていませんからね」

「それはそうだと思います。ただ、杉下さんはそのことに気づいているんでしょうかね?」

 そのことに関しては、半信半疑だった。気づかれているような気もしていたが、観察をやめる気にはなれなくて、気づかれてはいないと思うようにしていた。それなのに、いきなり他人から指摘されると、ドキッとしないわけにはいかなかった。

「どうなんでしょう? 僕は気づかれていないと思っていますが」

 明らかに動揺している。その態度は相手がマスターでなくても分かるに違いない。それほど不自然だったのだ。

「ここでも確信犯という言葉が出てくるのかも知れませんが、杉下老人はあくまでも、誰にも見られていないという風に装っているんでしょうね。本当は分かっているんだって思いますよ。それを今度は相手に悟られないようにしようとするには、老人の方でもそれなりに意識させないようにしないといけないからですね」

「お互いに変な気を遣っていたということなんでしょうか? 僕の方は覗いていたというよりも、見えていたと思わせたいと考えていたのが、却ってあだになってしまったのかも知れませんね」

「観察する人間よりも、観察される人間の方が、はるかに意識しているはずですよ。気づくのも早いし、それでも隠そうとしないのは、そこに何かの確信犯的な意図があるからだと思います。すべてを正直に曝け出すのがいいのか、それとも、相手を惑わすようにいろいろ考えさせる態度を取るのがいいのか、老人はどっちだったんでしょうね?」

 と言って、マスターは考え込んだ。

「私には分かりません」

 もし、分かっているとしても、正直に答えはしないだろう。

「何か、老人のことで気になっていることはないですか? 曝け出そうとしている中にも、何かを隠そうとしているのであれば、分かることもあるかも知れない。『木を隠すには森の中』とも言うじゃないですか。それに一つのウソを隠すのには、九十九の本当の中に隠すのがいいなんてことも言いますよね。私は杉下老人と須藤さんの間に、何かそういう駆け引きのようなものを感じるんですよ。考えすぎなのかも知れませんけどね」

 マスターはそういうと少し考え込んでいた。

「そういえば、杉下老人は、庭にある柿の木を気にしているようでしたね」

 須藤は、言おうか言うまいか迷っていたが、気が付けば口から出ていた。

 この言葉が何を意味するのか、マスターには分かるのではないかと思ったからだ。杉下老人のことで気になる点があるとすれば、一番大きいのはこのことだたt。

「柿の木ですか。そういえば、杉下さんは以前、柿の木の話をしてくれたことがありました」

 とマスターがいうと、

「えっ、そうなんですか?」

 意外な話にビックリして武明は答えた。

「老人がまだ子供の頃だったらしいんですが、家の近くに空き地があったらしいんですよ。そこには土管があるだけの、他に何もないところだったらしいんです。そして、その奥には西洋屋敷があったらしく、よく友達とその家に冒険に出かけたということなんですよ」

「ワンパク坊主だったんですね」

「そういうことでしょうね。それで、その西洋屋敷は荒れ放題で、たぶん、子爵か公爵が住んでいた家だったんじゃないかっていうんです。戦後没落して買い手もなく、屋敷は荒れ放題。庭には雑草が生えまくっていて、通路も分からないほどだったといいます。その奥には横穴が掘ってあったといいますから、たぶん戦時中の防空壕の跡ではないかと思われるんですよ。その近くに井戸と柿の木があったといいます。友達は井戸に興味があったというんですが、老人は柿の木が気になっていたと言いました。どうしてなのかと聞きますと、『生きているからだ』って答えたんですよ。荒れ果てた家で、住んでいる人もいなければ整備する人もいない。生きているのは雑草だけという状態でも、柿の木は生きているっていうんですよね」

「面白いですよね」

「ええ、そして、もう一つ気になるのは、その柿の木の下に、誰かが眠っているっていうんですよ。それを感じたんだそうです。子供だからなのか、霊感が強いからなのか分かりませんが、老人は自分が決して霊感が強いとは思っていないそうです。その時もそうだったし、今でも霊感が強いとは思っていないということでした」

 と、マスターはそう言いながら、一瞬背筋をピンと伸ばして、ゾクッとしているようだった。

「マスターは霊感があるんですか?」

「ええ、私は霊感が強い方ではないかと思っているので、話を聞いているうちに、何だか自分がその場にいるように思えてきて、ゾクゾクしていたのを思い出しました」

「誰かが眠っているって、誰が眠っているんでしょうね?」

「時代が時代なので、戦争で亡くなった人の亡き骸が、そのあたりに放置されていて、見かねた誰かが柿の木の下に埋めたとも考えられますよね。何しろ防空壕があったわけですから。しかも、戦後になって財閥や特権階級は没落の一途を辿っている。どう思えば、どんなに大きな屋敷に住んでいても、明日の保障がないのであれば、没落は目に見えている。屋敷が荒れ放題になってしまったのも分かるというもの。その後、国に買い上げられたんでしょうが、その頃の国も余裕などあるはずがない。国民、国家すべてが混乱していた時代だったんですからね」

 マスターも武明も年齢的にそんな時代を知るはずもない。しかし、杉下老人を意識するようになってから、昔の時代のことを考えることが増えたような気がする。特に武明は隣の庭先を見ていると、何もないはずの庭先が時代を通り越して、何かを見せているように錯覚することがあった。

――僕はどうしてしまったのだろう?

 と考えてしまい、頭がどんどん時代を遡っていくのを感じていた。

――今年って、戦後何年になったんだろう?

 戦争の話題など、誰もしなくなった今の時代だからこそ、考えなければいけないことがある。そんな言葉、どこかで聞いたような気がしたが、どこでだったのか、思い出すことはできなかった。

 ただ一つ言えることは、自分たちには戦争のことはまったく分からないということだ。杉下老人であっても、戦争を経験したとは言えないかも知れない。それを思うと、防空壕などと言われてもピンとはこなかった。

 ただ、柿の木が植えられていたところというのは、なぜか想像することができた。杉下老人の家の庭に植わっている柿の木を思い出すと、一本だけある柿の木の他には何もない光景をいつしか違和感なく見ることができるようになっていた。最初の頃にしても、何か違和感を感じたという意識もなかったように思えた。ただ、そこにいるのが息子夫婦が出て行った後の、杉下老人だけの時だけであった。

――綾乃の存在はどうだっただろう?

 そう思うと、綾乃の姿を見ている時に、縁側だけしか意識が集中しておらず、庭を見たという意識はなかった。だから、綾乃と柿の木を同じ次元で見ることはできない。やはり柿の木のイメージは杉下老人以外にはなかったのだ。

 マスターは、柿の木の話のついでと言いながら、少し話が変えていた。

「そういえば、その柿の木の話をしている時というのは、珍しく杉下老人が他の人と一緒に来た時だったんですよ」

 マスターの言葉に一瞬驚いたが、すぐに我に返った武明は、それが綾乃ではないことは分かっていた。

「それは誰だったんですか?」

「若いお嬢さんだったんですが、ほとんど何もしゃべらずに、老人の話をじっと聞いていましたね。ショートカットの可愛らしいお嬢さんでしたので、何も話さないことに違和感がありましたが、でも、杉下老人の話をニコニコしながら聞いていたので、違和感はすぐになくなりました」

 綾乃はロングヘア―で、可愛いというよりも美人系の女性だった。やはりここに一緒に来た女性というのは、綾乃ではないようだ。

 マスターは続けた。

「杉下さんは、柿の木の話をした次の日に、今度は一人でやってきたんですが、その時も柿の木の話をしたんです。前の日にした柿の木の話は中途半端なところで終わってしまい、私も少し消化不良だと思っていたので、杉下さんがまた次の日に来てくれた時、話の続きをしに来てくれたんだって思うと、嬉しかったですね」

「その時はどんな話をしたんですか?」

「杉下少年は、友達と一緒に、柿の木を掘り返してみたそうです。何かが埋まっているという予感めいたものがあったんでしょうね」

「それで何かを見つけたんですか?」

「いえ、期待していたものを見つけたというわけではないようでした。ただ……」

「ただ、何でしょう?」

「何か箱を見つけたらしくって、その中に手紙が入っていたようです。友達と杉下少年は恐る恐る見たらしいんですが、そこにあったのは、女性の綺麗な字で書かれた手紙のようでした」

「それで?」

「ただ、その手紙を見つけるまでには少し時間が掛かったといいます」

「というのは?」

「箱の中にはまた箱があり、その中にはまた小さな箱が……。どんどん小さくなる箱の中にその手紙は認められていたそうです」

「おかしなことをするものですね」

「ええ、その手紙というのは、読んでみると遺書のようだったというんですが、杉下老人は、すぐには理解できなかったと言いますが、今頃になってやっと分かってきたと言います。最初は、誰かに見つけられたくないという思いがあったのではないかと感じたということ、そして、次に感じたのは、どんどん小さくなっていく箱を開けながら、開けている人に、限りなく小さなものを感じてほしかったという思いを、手紙に認めたということ、つまり、それは人の死という認識ですね」

「というのは?」

「人一人は、その人にとっては、すべてなんでしょうけど、この社会にとっては、一つの歯車でしかない。歯車にもなりきれない人さえいる。そんな思いに儚さを感じ、限りなく小さなものに押し込めておこうという思いが働いたのではないかと思っているようなんでえすね」

「奥が深いですね」

「ええ、その話を杉下老人は、一人の女性と連れてきているところで急に初めて、その日は中途半端で終わって、翌日、わざわざ一人で私に話に来たんです。最初から、彼女に最後まで話をする気がないのであれば、何もその日に思い出したように話さなくてもいいはずなのにですね。おかしなことをするものだって思いました」

「話はそれだけだったんですか?」

「ええ」

「じゃあ、マスターも中途半端にしか話を聞けていないんですよね。でも、マスターはそれで満足しているのだとすれば、彼女も途中で話が終わったとしても、それで満足しているのかも知れませんよ。つまり聞きたいところまでは聞けたということなんだって思いますよ」

「なうほど、それはあるかも知れませんね。私はあくまでも私の発想でしかなかったからですね」

「実際に、遺書が見つかった。でも、その遺書は誰がいつ書いたもので、本当にその女性が自殺をしたのかどうか、それも分かっていないんでしょう? マスターはそれを聞こうとは思わなかったんですか?」

「ええ、その話をしている時は、続きを聞きたいと思っていたはずなんですが、そこで話が終わると、それ以上聞きたいとは思わなくなりましたね。おかしな感情なんでしょうが、前の日に一緒に来た彼女も同じなのだとすれば、面白い発想ですよね」

「これが自然や偶然だったら面白いんでしょうが、もし、これが杉下さんの最初からの計算で、自然でも偶然でもなかったら、心理的な発想にかなり長けた人だということになりますね。何か怖くなってきました」

「ええ、私も改めて、そう感じますね」

「マスターは。綾乃という女性をご存じですか? 杉下老人のヘルパーをしているらしいんですが」

「ええ、杉下さんから聞いたことがあります」

「その人は、息子さん夫婦が同居から別居することになった時、彼女の派遣を依頼したという話なんですよね」

「えっ、息子さん夫婦ですか?」

「ええ、息子さん夫婦はこの間まで同居していて、一人になる杉下老人を気遣ったようですよ」

「そういう話なんですか? 私は、杉下老人の息子さん夫婦は五年前から海外で暮らしているという話を伺いました。確かヨーロッパの都市を数か所勤務して、まだヨーロッパにいるはずだって聞いていますよ」

 マスターからの意外な話を聞き、本来ならもっと驚くべきなのだろうが、ここまでの話の影響で、感覚が鈍っているのだろうが、少々の話に驚くことはなくなっているようだった。

「じゃあ、あの時杉下老人と一緒に住んでいたのは一体誰だったんだろう?」

 マスターの顔を正面から見つめて、疑問を投げかけたが、その表情は心境に比べるとかなり奇抜な表情をしていたことだろう。

 だが、マスターにも相手の心境が表情ほどではないということを分かっているのか、さほど驚いている雰囲気はなかった。

「私には分かりませんが、さぞや老人は同居人と言っても、気心の知れたような表情をしていなかったのではないかと思えて仕方がないんですよ」

「その通りです。僕が勝手に息子さん夫婦だと思い込んでいたのかも知れません。そう思うと、綾乃という女性に対しても、疑問だけでは済まない何かを感じます」

「以前杉下老人は面白いことを言っていましたね。『人は一人では生きてはいけないという言葉があるけど、それって本当なのかも知れないですね』って言っていましたよ」

「杉下さんらしくはないですね」

「ええ、私もそう思ったんですが、その後に寂しそうな表情になりました。『犠牲のための犠牲が、人を一人では生きていかせないんでしょうね』ってですね」

「犠牲の犠牲ですか?」

「ええ、ニュースなどで、政治のための政治なんて言葉を聞きますが、何とかための何とかって言葉は、あまりいいイメージはありませんよね。私はその言葉を聞いた時、その少し前に話してくれた柿の木の話を思い出しました。例の手紙が入っていた箱の話ですね。杉下さんが話しをしたように、本当に箱の中に箱があったのかどうかは分かりませんが、最初は信じていたんですが、そのうちに杉下さんの作り話ではないかとも思えてきたんですよ。それはそれで間違いではないような気がしてですね」

「言われてみればそうですよね。でも、ウソをついているわけではないように思えるんですよ。例えば、手紙を見つけたその前後に、箱の中の箱に由来するようなことがあり、その印象が深く頭の中に残ってしまったために、杉下老人の記憶が交錯してしまったのではないかという考えですね」

「なるほど、それは言えると思います。印象深いことであれば、記憶と意識が交錯してしまい、事実と願望や妄想が入り組んでしまって錯綜してしまうこともあるだろうからですね。杉下さんがそうではなかったと言えないような気がします」

 杉下老人のことを考えていると、いろいろな発想が浮かんでくる。

 まず、同居していた人たちは本当は息子夫婦ではなかったという発想である。確かに同居人が家族であるという話を誰かから聞いたという記憶もなかった。この店で人と話す以外は、ほとんど誰とも会話したことのない武明なので、その信憑性はほとんどなかった。

 ただ、普通の人は、

「ほとんど誰とも会話しないと言っても、会話をすることがまったくないわけではないのだろうから、話をした人が誰だったのかということくらいは分かりそうなものだよな」

 と言われるであろう。

 しかし、武明はその逆だった。

 たまにしか人と話をしないので、話をしたと言っても、その記憶はほとんどない。幻だったかのような記憶しか残っていない。そう考えてみると、武明の意識の中にある記憶や記憶の中にある意識というのは、信憑性がほとんど感じられなくなってくる。

――杉下老人に対して今まで見てきたと思った記憶も、本当は信憑性のないもので、勝手に想像していたものなのかも知れない――

 そう思うと、今までの自分の感覚をすべて否定してしまいそうになる自分を感じていた。

 杉下老人は時々縁側で、ノートに向かって何かを書いていた。絵を描いているのではないことだけは分かったが、その様子を見ているとまるっで自分を見ているように感じた武明は、老人の書いているものが詩なのではないかと思えてきた。

 詩を書いている時の老人の表情は楽しそうではない。少なくとも趣味をしている顔ではなかった。そんな表情を見て、

――自分に似ている――

 と感じたのは、自分も詩を書きながらつまらないと思っているのかも知れないと感じると、やるせない気分になってきた。

「杉下さんは、詩を書いたりしているんですかね?」

 と、マスターに聞いてみると、

「さあ、それは私には分かりません。でも、話をしていて、いつも迫ってきているであろう『死』というものを意識しているようには思えていました。私がそれを敢えて口にすると、却って意識させてしまいそうになるので言わないのですが、最初に杉下さんが死を意識していると感じたのは、老人が自分の頃の子供の話をしてくれた時だったですね。やっぱり、あの時の柿の木の思い出は、今でも忘れられないトラウマを形成しているのかも知れませんね」

 と話した。

「箱の中に箱があったという発想が、僕の頭から離れないんですよ。それが本当であったにしても、作り話であったとしても、遜色ないほど深い印象を与えているような気がします」

 と武明がいうと、

「杉下老人のその言葉は『確信犯』だったんでしょうね」

「確信犯?」

「ええ、絶対に相手が自分は望んでいる考えをしてくれるという思いがあったという意味での確信犯です。これは決して悪い意味ではなく、相手の発想を操作するという意味で、高度なテクニックに感じられます」

 武明は、マスターの口から確信犯という言葉を聞くと、それまで思っていた疑問が少しずつほぐれてくるような気がした。

 マスターの近くには二人の女性が存在していた。一人は綾乃であり、もう一人は綾乃の双子の姉妹だったのかも知れない。二人は他人が見れば、容姿、性格など違って見えていたのかも知れないが、杉下老人には同じ人に見えた。綾乃の姉妹の方は、老人との同居人に気持ち悪がられていた。ある日、不気味な様子を感じていた同居人の誰かが、綾乃の姉妹と言い争っている間誤って殺してしまった。それを隠そうと、柿の木の下に埋めたのだろう。それを杉下老人には分かっていた。分かっているという素振りを誰にも見せなかったが、綾乃にだけは分かってしまった。その時の同居人が老人の肉親でないことは明白だった。そして彼らがなぜ消えたのか、疑問は残ったが、ひょっとすると、綾乃が『始末』したのかも知れない。もしそうだとすれば、それを知っているのも、老人だけだ。

 そこまで考えて一息つく。そして、さらに考える。

 老人を見ているうちに綾乃も自分の罪の深さに気づいたのか、老人の前から姿を消した。綾乃姉妹のことを老人は、かつて西洋屋敷で自殺をした女の生まれ変わりではないかと思ったのだろう。杉下老人は、綾乃と出会って、自分がその時の時代に戻っていたのかも知れない。武明が二階から見えていた光景は、今の時代ではなく、古い時代のものだったのではないだろうか。ただ杉下老人が存在しているのは間違いのない事実である。まったく同じ人間で同じリアクションのはずなのに、別の人間になってしまったかのように思えた杉下老人への思いは、そう考えると辻褄が合う。

 ただこの話はまったくの想像であり、信憑性は限りなくゼロに近い、

――まるで老人が子供の頃に見つけた箱の中に入っている箱のようではないか――

 嘘であれ本当であれ、この話は武明に大きな暗示を与えた。暗示は本当のことをはぐらかすものもあるが、本当のことへと導くものでもあるだろう。

 武明はマスターと話をしながら、明日のいつもの時間庭を見ると、そこに佇んでいるのが誰なのか、想像がつかない気がした。

――もし、それが自分だったら?

 武明は、孤独は感じるが、寂しさを感じない理由が次第に分かってくるのではないかと思えてならなかった……・


                 (  完  )

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柿の木の秘密 森本 晃次 @kakku

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