彼女 ー想い出の始まりー

福山典雅

彼女 ー思い出の始まりー


「別れます」


 彼女は少しだけ震える声で、はっきりと僕にそう言った。


 揺るがない意志をのせたその言葉は、僕の心をかきむしる様に響いた。だけど、それでいい。僕らは別れるべき二人だからだ。






 僕らが初めて出会ったのは8年前、僕が21歳の時だった。


「背が高いね! ほらこんなに差がある!」


 そばかすの浮いた美大生の彼女の耳には、瑠璃色のピアスがしめやかに輝いていた。


「待ち合わせと迎えに行くのは、どちらが好き?」


 僕は彼女との初デートで、今にして思えば随分間抜けな事を聞いた。


「あのね、こういう道で手をつないで歩くのって素敵じゃない?」


 ふわりと髪を揺らして僕の手を引く彼女は、銀杏の葉で埋められた道で優しく微笑んだ。


「ここが僕の好きな場所なんだ」


 長く続く海岸線、僕は車を走らせながらその風景と同時に、彼女の澄んだ横顔を眺め、人生で最も愛おしい人だと思った。


「苦い! エスプレッソはやっぱり駄目かも!」


 顔をしかめた彼女は悪戯な顔つきで、飲みかけのエスプレッソを僕にグイグイ押し付けて困らせる。





「二人ではじめよう」


 抱きしめた彼女に結婚を誓った僕は、その小さな暖かさを一生守りぬくんだと強く心に刻んだ。


「子供が生まれたり、友達が来た時に、テーブルは大きい方がいいけどなぁ」


 家具を選んでいる時に、絶対に部屋には入らないけど、きれいな木目の美しいテーブルを彼女は気にいっていた。


「ねぇ、見つめるだけで僕が起きると思ったの?」


 気だるく目を覚ました素敵な朝の始まりは、彼女が隣で綺麗な瞳を向け微笑んでいた。


「台所に入ってもいいけど、置いてる物の位置を変えちゃ駄目!」


 エプロン姿の彼女は、胡椒を行方不明にしたお詫びに食器を拭く僕に、頬をふくらませ可愛く注意をする。


「アイスクリームが落ちるってば!」


 ソファに座って映画を見ている時に、急に抱き着いてキスして来た彼女は、僕の食べてるアイスクリームには気を遣ってくれないみたいだ。





「愛や恋に賞味期限ってあるのかな」


 彼女が何かを言いたげにするが、仕事が忙しく疲れていた僕は無口になり始めていた。


「君の仕事は楽しい?」


 僕の言葉が聞こえているのか、どうなのか、たまに声をかけても知らないフリをされる様になっていた。


「形だけで何かをしてくれても、私は何も嬉しくないんだけどなぁ」


 休日に遅れた誕生日プレゼントを渡した僕に、彼女は昔とは違う言葉を返す様になっていた。


「君が感じる幸せは、僕を消費する事なんだろ?」


 自分の事ばかりを話したがる彼女に、僕はつい辛辣になってしまう。


「あなたが見ている私はきっと馬鹿な女かもしれないけど、私にだって考えがある」


 突然、家を飛び出した彼女が、翌日の朝に帰って来て僕に冷たくそう言った。


「僕の何が気に入らないのかわからないけど、出来たら教えて欲しいんだ」


 どうしょうもない毎日に僕は疲れ果てていて、答えを彼女に聞いたけど、もう何も言ってはくれなかった。


「あなたの時間はあなたの時間、私の時間は私の時間、ほっといてくれるのが一番の親切で優しさなの」


 僕はどうにかして彼女との関係を修復したかったけど、全てが遅すぎたのかも知れない。


「君が求めている僕になる事で、もし君が幸せを感じるなら、そんな人生は虚しいだけだよ、一緒にいる意味なんてない」


 もう数えるのも嫌になる程の言い争い、僕はつい結論を口走ってしまう。


「優しくして欲しいんじゃない! なんでそんな事もわからないの!」


 結婚記念日に激昂する彼女が、僕にはもうどうしょうもない存在としか思えなくなっていた。





「やり直せるなら、僕は何から手をつけたらいいんだろう?」


 リビングに彼女がいるせいで、入る事さえ戸惑う様になっていた僕は扉越しについそう呟いてしまう。


「昔みたいに穏やかな時間があればいいのに」


 深夜に夜景を見ながら、肩を震わせ泣いてる彼女を僕は見てしまった。



 僕らは壊れたままの愛をお互いに見つめ、情なのか何なのかわからないものに、ただ縛られていた。僕はこれ以上彼女を苦しめたくないし、僕自身もこれ以上出来る事は一つしか残されていなかった。


 それはお互いを解放する事。


「きっと僕といるせいで、君の人生は歪んでしまって、もうどこだかわからない場所に僕らは来てしまっている。全部、僕のせいだ。僕は君を愛しているけど、一緒には生きてはいけないと思う」


 何度かの話し合いを行い、僕らは現在の関係を清算する事に決めた。






 僕らは恋をして、愛を育てようとし、無残に枯らしてしまった。それが8年間かけて辿り着いた結果だった。


 引き潮の様に、僕らの想いは消えて行った。


 彼女の出て行った部屋は、僕には整頓された廃墟みたいに感じる。

 ふいに部屋の中に残されていた、懐かしい瑠璃色のピアスを見つけた。


 それは出会った時に彼女がつけていた品。


 この思い出の始まり。


 僕はピアスをぎゅと握り締めた。


「背が高いね! ほらこんなに差がある!」


 あの時の彼女のセリフが聞こえた気がした。







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彼女 ー想い出の始まりー 福山典雅 @matoifujino

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