第2話 想像上の世界

 この日の夢は、いきなり男女が話をしているところを見かけたところから始まった。ドライアイスの雲の上を歩いてきた二人が、道なき道を歩いてきて、ちょうど出会ったところだった。

「やあ、しばらく」

 と男の方が言えば。

「また、会ったんですね」

 と女性の方は、会ったことを喜んでいるというよりも、落胆が目に見えて分かった。

「嫌だな。そんなに露骨に嫌な顔をしなくていいじゃないか」

「ええ、ごめんなさい。そうですね。この世界に入って誰かと出会うのはあなただけなんですよ」

「あなたもそうなんですね。僕も他の人に会うことはないんですよ。会うと言っても、天国や地獄の門番だったり、関所の受付のような人だったりで、話をしても、事務的な言い方しかしないんですよ」

「一緒ですね。だったら、もっと私たちは仲良くした方がいいんでしょうね。さっきは、あなたが新しく出会う人ではないかという期待を持ったために、出会ったのがあなただったことで、期待が裏切られた気がしたので、露骨に嫌な態度を取ってしまったんです。本当にごめんなさい」

 そう言って、恐縮そうに彼女は頭を深々と下げた。

「いえいえ、いいんですよ。僕もあなたと同じ立場なので、気持ちは分かります。でも、僕は一つ疑問に思っているんですが、本当に僕は死んだんでしょうね?」

 この男性は根本的なところで疑問を抱いているようだった。

 だが、その思いは女性の方も同じことのようで、

「私も、自分が死んだなんて信じられないんですよ。死んだらどうなるかというのは、生前からいつも気にしていたので、いざ死んでしまうと、途中まで考えていたはずのことを忘れてしまったようなんです」

「死んだらどうなるかを、いつも考えていた?」

「ええ、どうして考えていたのかというのは分かっているんですが、生きている時に自分なりでもいいので、結論めいたものがあったのかどうかも分からないんですよ」

「どうして、死んだらどうなるかなんて考えていたんですか?」

「私は、宗教団体に所属していたんです。その宗教は、基本はキリスト教だったんですが、カトリックでもプロテスタントでもない、独自の考え方だったんです。そもそもキリスト教というのは、いろいろな考え方があったんですよ。少しでも違った考えが生まれれば、それは派生して新しい宗教になったりする。私はその中の一つだったんですが、その宗教は、絶えず死後の世界を考える勉強会を開いていたんですよ」

「僕は宗教に対してはあまり意識がなかったんですが、どうしても、避けて通りたい存在だったのは確かですね。関わりたくないという思いが強く、どうしても偏見の目で見ていました」

「宗教に身を委ねる人の多くは、現実世界に嫌気が差した人や、生きていくことに限界を感じるほどの苦しみを味わっている人がすがるのが宗教なんですよ。私は現実世界に嫌気が差していたんです。いくら頑張っても、お金のある人が優遇されたり、生まれを優先されたりする世の中にウンザリだったわ」

「それで宗教団体に身を置いたんですね?」

「ええ、入信してから、まだそんなに経っていたわけではないんですが、気が付けばその宗教団体に対しても疑問を感じるようになっていました。いつもいつも死後の世界のことばかり考えていて、今を見ていない。まるで現実逃避のようにも思えて、現実世界に感じた限界を、宗教でも思い出したんです」

「脱退しようとは思わなかったんですか?」

「ええ、思いました。でも、そう思った時にはすでに遅かったんです。一旦入信すると、抜けることは許されない。抜けたいということを口にした時から、まわりの目は冷徹に変わってしまうんです。そこからまわりの人の敵視が始まり、まるで苛めに遭っているような感じでした」

「宗教なのにですか?」

「宗教団体が人を救うというのは、どこまで本当なのかって思いますよね。宗教団体もしょせんは一組織に過ぎないんです。組織を守ろうとするには、一人の人権なんて、関係ないんですよ。秩序という言葉を盾に、戒律を押し付けてくる」

「宗教団体に戒律というのはつきものではないですか?」

「そうなんですが、私が入信してから、抜けたいというまで、その団体に戒律など存在しないと思われていたんです。だから、比較的自由だったんですが、我に返って客観的に見てみると、団体の行動自体が戒律のようなものだったんですね」

「でも、押し付けてきた戒律というのは、また違うんでしょう?」

「ええ、戒律という名の罪罰のようなものですね。いいこと以外はすべて悪いことにされてしまう。そしてその悪いことを決して許さないのが戒律なんですよ。例えば、人間の欲などはいいことではないとして、悪いことに食い込まれてしまう。それが戒律としてその人に対しての戒めになってしまうんです」

「えっ、でも、欲を断つというのは、宗教であれば、当たり前のことなんじゃないんですか?」

「そんなことはありません。学校で習うような有名な宗教はそうなのかも知れませんが、今のここまで細分化された宗教では、戒律が存在しないところはたくさんあるんです。でも私が経験したように、本当は存在していて、何かあった時だけ、その人に押し付けるようなところも多いのかも知れませんね」

 その言葉を聞いて、男は「うんうん」と頷いた。

 彼女は続けた。

「私は、戒律を押し付けられた中で、死んだ後のことを考えさせられた。それは本当に苦痛なことで、こんなことなら脱退なんて口にしなければよかったと思うほどだったんです。死後の世界の基本は天国と地獄ですよね。その世界を考えながら、戒律を当て嵌めなければいけなかった。そんな世界を私は想像させられたんです」

「それはきつい」

「しかも、その時に考えていたことが、今の自分に起こっているような気がして仕方がないんです」

「それはどういうことですか?」

「天国にも地獄にも行けない自分が、絶えず彷徨っている姿ですね。しかも、生前に考えていた、本当なら考えたくない世界がこの世界には存在しているのを思うと、一人だけで孤独を感じていると、それ自体が地獄だったんです。そういう意味で、私の話を聞いてくれるあなたの存在は、私にとっては、神様のようなものなんですよ」

 と言って、涙を浮かべているようだ。

「そんな大げさな」

 と男は口にしてみたものの、本心は、

――大げさでも何でもないのかも知れないな――

 と感じていた。

「私は、今この世界を認めたくないという気持ちが本当は強いんです」

「そんなことを言うと、自分の存在を否定するようじゃないですか」

「そうかも知れません。今この世界にいる自分を否定することで、別の世界に飛び出せるような気がするんですよ」

「別の世界というと?」

「この世界と背中合わせの世界です。そこにもこの世界と同じような世界が広がっていて、そこにはもう一人の自分がいるはずなんですが、こちらで疑問を感じている今の私がいる以上、もう一人の自分は存在していないように思うんですよね。私はそっちの世界にできれば行ってしまいたいと思っていました」

「その世界というのは?」

「私たちが生前に考えていた死後の世界ですよ。天国は極楽であり、何をしても許される世界で、地獄は血の池があったり、針の山があったりするところだというイメージですね」

「でも、地獄も天国も、誰も見たことがないはずなのに、どうしてあんなにリアルに想像できたんでしょうね」

「やっぱり宗教の発想が生んだものなんじゃないでしょうか? ただ、死んだら必ずどちらかに行かなければいけないという発想は、私にはどうも疑問でしかなかったんですけどね」

 と言った言葉を聞いた男性は、

――じゃあ、どんな世界があるというのだろう?

 そう思った時、彼は閃いた。

――天国と地獄以外に別の世界があるとすれば、それは一つや二つではなく、永遠に広がる無限の世界なんじゃないだろうか?

 という思いだった。

 それは、広さという意味なのか、数という意味なのか分からなかったが、無限という言葉が当て嵌まるとすれば、この発想ではないかと感じたことが自然な発想であることに、不思議な感覚を覚えていた。

 二人の話を見ていて、

――最初は男性の方が、自分ではないか?

 と思えていたが、次第に客観的に見ている自分に気づくと、この男性は自分とは考え方が違っていることに、あらためて気づかされた。

 その時に、自分が夢を見ているということを認識したのだが、客観的に見るようになると、次第に男が何を考えているのか、分からなくなってきた。

 むしろ、女性の方の気持ちが分かるような気がしてきた。

 ただ、自分は宗教には興味がなく、毛嫌いしている方だったので、彼女が宗教に対して感じていることは、自分とは違うように思えた。それなのに、彼女の口から発せられる言葉はハッキリとしていて、それは自分と正反対の意見を考えることで成立するようなイメージに思えたのだ。

 子供の頃、近くに宗教団体の事務所があった。建物は明らかに宗教団体と分かるような感じで、子供は近寄りがたかった。しかし、友達の母親が入信していて、子供も半強制的に入信させられていた。母親の話としては、

「子供は一人で判断できないので、母親の私が導いてあげなければいけない」

 と言っていたのだが、学校では何とか子供だけでも、宗教団体から切り離したいと思っていた。

 それでも、学校にそんな力があるはずもなく、子供が強制的とは言え、入信させられると、そう遠くない将来には、

「私は教祖様を親のように慕っています」

 と、完全に洗脳されたようになっていた。

「無理やりに入信させられたことを、あれだけ嫌がっていたのに」

 と、その子を知っている人は皆そう言うだろう。

 洗脳というものがどれほどの力を持っているかということを、その子が証明した形になった。人によっては、その力に陶酔し、入信する人もいたようだが、それ以外のほとんどの人は、

「宗教というのは恐ろしい」

 として、

「君子危うきに近寄らず」

 を、貫いていた。

 もちろん、高山もその一人で、その思いを抱いたまま、成長したのだ。その時同じように感じた人のほとんどが高山と同じように思っていることだろう。高山のまわりに宗教に入信している人はいない。誰もが宗教に対して一定の気味悪さを感じているのだった。


 目を覚ました高山は、夢の途中で宗教団体について自分が考えている時間があったことを覚えていた。子供の頃のイメージが湧いてきて、そのイメージを抱いたまま、目が覚めたのだった。

 今回の夢で印象に残ったのは、生と死の世界の狭間では、男女一人ずつが存在できる世界であり、二人が出会うところから夢が始まっているのではないかと思うことであった。その相手が運命の人なのかどうかは、まだこの段階では分からない。しかし、次に夢を見る時も同じ相手ではないかということが想像できる。そして、その夢を見るのは、そんなに遠い未来ではないだろう。

――この話は誰にしよう?

 三雲にもう一度してもよかったのだが、三雲にする前に、少し頭の中を整理したい気がした。

 前の夢の内容は何とか文章として残していたので、ある程度覚えているが、あれがプロローグだったとするならば、今回の夢は何になるのだろう? いきなり宗教団体が出てきて、どこで話が繋がるのか、少し考えてしまったからだ。

 しかし、いろいろ考えていると、結局話ができるのは三雲以外にはいないような気がした。いつものように、三雲に連絡すると、

「今夜は空いてるよ」

 と言ってくれたので、二人が最近お気に入りにしているバーで待ち合わせをした。

 この店のマスターは二人の話を聞きながら、いつもうんうんと頷いていた。話が難しすぎるのか、話に割り込んでくることはない。

 店に行くと、すでに三雲は来ていて、マスターと話をしていた。その様子は、高山が知っているマスターと違って饒舌で、ビックリさせられた。今までは待ち合わせで自分が先に来た時、マスターと会話になったことなどなかったのに、三雲に対してここまで饒舌な姿を見ると、思わず嫉妬してしまいそうになる自分にハッとしていた。高山が扉を開けたことは他に客のいない静かな店内なので、すぐに分かりそうなものであるにも関わらず、三雲は振り返ることもなく、途中の会話を止めることもなく続けていた。

 会話の内容は、どうやら今日三雲と話をしようと思っていた天国と地獄の話のようだ。普段から耳に入っていても、会話に入り込んでこないマスターは、この話題に興味を持っていたということだろうか。

「お待たせしました」

 と言って、三雲の隣に座った高山に対して、どこか申し訳なさそうに肩を竦めているように見えた。

「いらっしゃい」

 バツの悪そうな言い方だが、この様子なら、こちらから水を向けないと、マスターは自分から口を開くことはないだろう。

 三雲は相変わらずタバコを燻らせながら、高山の切り出すのを待っている。

 二人の間では、待ち合わせを言い出した方から口を開くというのが暗黙の了解になっていた。だから、呼びだした高山が口を開かない限り、三雲の方から口を開くことはないのだ。

「昨日、また夢を見たんだ」

「どんな夢なんですか?」

「やはり天国と地獄に関するような夢なんだけど、今度は少し分かったことがありました」

「それはどういうことなんですか?」

「私が見ている世界は天国と地獄の間の世界であり、夢を見始める最初に必ず男女が出てくるんですが、その二人は同じ人なんです」

「そのうちの男性というのは、あなたをイメージして創造されたものなのでは?」

「いいえ、そういうわけではないようなんです。自分も最初はそう思ったんですが、自分でもよく分からないんですが、考え方が微妙に違っているんですよ」

「そうなんですね。天国と地獄の間に何か世界が存在しているのではないかという発想は僕の中にもあったんですが、きっと僕と同じような発想をしているのではないかと思います」

「どうしてそう思われるんですか?」

「天国と地獄というのは誰も見たことがないので、イメージでしかありません。それも、絵画や小説で描かれたイメージを想像しているんでしょうが、前後に何か想像を助ける材料があれば、いろいろな発想も生まれてくると思うんですが、そうではない。つまり、想像できる範囲は限りなく狭いということなんでしょうね」

 というのが、三雲の発想だった。

「三雲さんは編集者というよりも作家に向いているのかも知れませんよ。僕もまったく同じ意見なのですが、この発想は、作家ならではのものだと僕は思っていました。三雲さんには、僕たちと同じ感性があるんでしょうね。だから、僕も三雲さん相手なら、遠慮なくいろいろ話を聞くことができる」

 と高山が言うと、三雲はニコニコとした笑顔を浮かべた。

「それはありがとうございます。でもきっと担当させていただいた先生方のおかげなのかも知れませんね。先生方は発想のとっかかりと考えられる。編集者は出来上がったものに対して売れるかどうか、売れるにはどのような演出をすればいいのかを考える。作家の気持ちに入り込まなければできないこともありますよね」

「なるほど、そこで発想が飛躍することもあるというわけですね」

「飛躍することはあっても、変に発想が変わるということはありません。やはり、最初の発想が素晴らしいから、こちらも発想の幅を広げることができるんですよ」

「そうですね。だから、会話も弾むというものですよね」

「その通りです。ここでの会話が次作のヒントにでもなってくれれば、私どもにとって至福の悦びなんですよ」

「ところで、今回の夢の話の続きは?」

「ああ、そこなんですが、今回は宗教的な話が出てきたんですよ」

「どちらかが、宗教団体に所属しているとかですか?」

「それは分からなかったんですが、女性の話として、今いる世界を否定することで、もう一つの世界が広がっているというんです。その世界は自分たちの行こうとしている天国と地獄の世界とは隣り合わせの世界で、それが宗教的な天国と地獄だっていう発想だったんです」

「ほう、それは面白い発想ですね」

「でも、その夢はそこまでしか覚えていないんですが、それはそれ以降を見ていたのに覚えていないだけなのか、それとも、本当に見ていないのか、自分でも分からないんです」

「どうしてですか?」

「夢を見ながら、私は自分のことを考えてしまい、自分の中の宗教観が浮かんできたようなんですよ。そのため、どこかで夢の世界から逸脱してしまったんでしょうね。気が付いたら、目が覚めていました」

「それは自分も感じたことがあります。夢というのは見ている自分が客観的に位置していて、まるで映画館でスクリーンを見ているように展開されるものだというイメージを持っていました。だから、急にスクリーンを見ていて、自分の世界を想像してしまったことで、我に返ってしまったと感じたことも何度かあった気がします」

「三雲さんは、自分が見た夢を覚えているのはどんな時ですか?」

「ハッキリ決まった法則のようなものはないような気がしていますが、一つ言えることは、続きを思わせるような夢を見た時は、覚えていないものなんだろうなって感じることですね」

「それは私もありますね。夢の続きを見たという話は聞いたことはないし、実際に自分でも見たことがないので、子供の頃は夢の続きは見ることができないのだって思っていました。でも、逆の発想で、続きは見ていたとしても、目が覚めると覚えていないだけだという発想も成り立つと、最近は感じるようになりました。正確に言うと、童話を書くようになってからではなかったかと思うんです」

「そう感じるようになったから、童話が書けるようになったのかも知れませんよ」

「そうかも知れません。その時期というのは曖昧で、自分でもそれは分かっていると思っていましたからね」

「天国と地獄の話に宗教の発想というのは、切っても切り離せない発想だとは思うんですが、どうなんでしょうね。そもそも天国と地獄という世界の発想は、宗教から生まれたものではないんでしょうか?」

「その通りだと思います。でも宗教というのは、多種多様。元々は限られた発想からいろいろ派生する発想から、宗派が生まれてきたんでしょうが、天国と地獄の発想は、どんな宗教でも、さほど変わらない気がします」

「ええ、宗教の発想というのは、この世が乱れてきたことで、死んだあと、天国に行けるようにするために、現世をいかに生きるかという発想から発展したものですからね」

「宗教というのは、どうしても世間の人から敬遠されることが多いので、死後の世界を語るのも、タブーになっていることが多いようですね」

 と高山が言うと、

「僕は今綿貫先生についているんですが、綿貫先生も、宗教かかったような作品を書かれることもあるんですよ。あまり発想が偏ると、問題があるので、そのあたりはチェックしながら担当しているんですが、この間、高山先生と天国と地獄の話をした時、綿貫先生の作品が頭をよぎったりしましたよ。綿貫先生の作品の中にも、天国と地獄の間には何か別の世界が存在しているような内容の話を書かれていた気がします。ただ、その話がメインではなく、話の中でちょっとだけ出てきたことなので、普通に読んでいれば、スルーしかねないところですね。綿貫先生の作品には、そういうところがあるんです。見逃してしまいそうなところに、グサッと突き刺さる何かがあるのではないかとですね。だから、何かよく分からないけど、読み終わった後に、ゾクッとしたものが残っているんですよ」

 と、三雲が話した。

「僕も、そんな作品を書いてみたいといつも思っているんですよ。読み終わっても余韻が残っているような作品ですね。童話には、そういう作品は少ないですよね」

「どうしてそう思うんですか?」

「読み終わっても余韻が残っているような作品というのは、作品の中に一本の筋があって、必ず、その筋に逆らうアンチな発想がなければいけないと思うんです。しかも、その筋を読者に意図として悟られないようにしなければいけない。だから、一本の筋は、本当に太いものではないといけないということの裏付けでもあるんですよ。童話は、基本的に読者は児童なので、そんな高等なテクニックを用いることはできない。だから童話の世界でこのことを実現するのは難しいですよ」

「高山先生が、天国と地獄の話を書きたいと思ったのは、そのあたりにも原因があるんでしょうか?」

「ええ、童話というのは、子供たちに夢を与えるもので、書いていてやりがいを感じさせるものだと思っているので、それはそれで素晴らしいことだと思っていましたが、自分の中でどこか納得のいかないところがあったんです。自己満足できないんですね。僕の中では、『自分が納得できないものを、他人に納得してもらおうというのは、虫が良すぎる』と感じているんですよ。だから、童話以外の作品、自分が書きたい作品にチャレンジしてみたいと思うようになった。それが、この間から夢に見ている天国と地獄の話なんですね」

「高山先生は、今回見た天国と地獄の夢は、以前に見た天国と地獄の夢の続きだとお考えですか?」

「ハッキリとは分かりませんが、イメージとして続きではないような気がします」

「それはどうしてですか?」

「夢の続きというよりも、考えられるパターンを繰り返していると言った方がいいかも知れません。いつも夢に入るところは同じであり、展開で少しずつ変わってくる。だから続きではないですよ」

「なるほど。それは夢の中のパラレルワールドのような発想ですか?」

「そうですね。その表現が一番しっくりくると思います。だから、重要なのは、夢の見始めがいつも同じだということ。それを感じると、前の夢と繋がっていることは分かっているんだけど、それが夢の続きなのか、それとも違うのか、理解するのが難しいところですね」

「でも、夢の続きではないと思っているんでしょう?」

「ええ、僕もさっきの三雲さんの発想と同じものを持っていて、夢の続きを見ることはないと思っているんですよ」

「意見が合いましたね」

「ええ、でも微妙な違いはあると思います。別人が見る夢なのだから、当然ですよね」

 と高山が言うと、

「天国と地獄というもの自体、パラレルワールドなのかも知れませんね」

 と、三雲がいうと、

「それは、天国と地獄そのものがパラレルワールドだと?」

「ええ、同じ世界では存在しえないものであり、例えば、この世とあの世だってパラレルワールドではないかと思うんですよ。死んだらあの世に行くという発想があるから、同じ時間の違う次元で存在できないというものなんでしょうが、あの世もこの世も永遠に続いているものなんですよね。つまりは自分中心に考えてしまっているから、パラレルワールドの発想が生まれないんじゃないかな?」

 高山は三雲の話を聞いて、腕組みをすると、考え込んでしまった。

――この人、本当に作家になった方がいいかも知れないな。俺よりもよほど怪奇小説を書けるような気がする――

 と考えていた。

 すると、そんなことを考えていることに気づいたのか、

「僕の発想の半分は、綿貫先生の受け売りなんですが、でも、綿貫先生も僕と時々話をしてくださって、その時に、僕の意見は貴重だって言ってくれているんですよ。ありがたいことだと思います」

 と、しみじみ三雲は語った。

「綿貫氏の作品は、まだ読んだことはないんですが、どんな感じなんでしょうね?」

「高山さんと似た発想があるんじゃないかって思うんですよ。それは高山さんと話をしている時に、綿貫先生ならどういうだろう? って思うことがあるんですが、きっと同じことをいうような気がしてですね。それに、綿貫先生と高山さんは出される話題は似ているんですよね」

 という三雲の話に、高山は一度綿貫という人物に会ってみたいという思いに駆られていた。

 三雲が自分の担当から離れて、時々こうやって他で会って話をするようになると、三雲の後ろに誰かの存在を感じられるようになったのに気づいていたが、その相手は綿貫以外には考えられない。そこまで分かっていながら、綿貫という人間の人物像が浮かんでこないのはどうしてなのか、ずっと疑問を抱いていた。

 それでも、今まで三雲が綿貫氏の話をすることはあまりなかった。同じ作家仲間ではあるが、いくらそれまで自分の担当だったとはいえ、彼の担当編集者に相談している高山。そして、相談されても、実際には仕事で力を入れなければいけない相手が別の作家であるということに引け目を感じている三雲。お互いに変に気を遣っているのだろう。

「天国と地獄そのものがパラレルワールドだって三雲さんはおっしゃいましたが、僕はちょっと違った発想を持っているんですよ」

「それはどういう発想ですか?」

「天国と地獄、それが一セットになってパラレルワールドを形成しているという発想ですね」

「それは、宇宙的な発想ですね?」

 三雲はまたしても、いきなりおかしなことを言い始めた。

 元々三雲は論理だてた話し方が得意だったのだが、その中でいきなり突起した発想を口にすることがあった。そのことを指摘すると、

「俺に何かが下りてきているんだよ」

 と言って笑っていたが、まんざら冗談でもないようだった。

――神が舞い降りたとでも言いたいのだろうか?

 と思ったこともあったが、その前のことを聞いてみると、

「前に考えてきたことが急になくなってしまったようになって、別の発想が急に生まれるんだよ。だから、話をしていく中で思い出しながらになることもあるんだよ」

 と言っていたが、なるほど確かにそれまで話をしていたことの辻褄が合わなかったり、こちらに何かを確かめながら話をしていることもあったりする。それが、この時なのだろう。

「ところで、考えていたことがなくなるのが先なのか、それとも、別の発想が生まれるのが先なのか、それとも、まったく同時なのか、そのどれなんでしょうね?」

「考えていたことがなくなるのが最初のようなんです。自分の中で、相まみれない発想が存在しえないと思っているので、別の発想が先に生まれてくることはないと思うんですよ。そして、まったく同時に行われるという発想もないような気がします。自分の中で、その危険性を分かっているような気がするからですね」

「危険性ですか?」

「ええ、もし同時に行おうとするなら、少しでも間違えば、頭の中から記憶すべてが消えてしまうような気がするんですよ。根拠も何もない発想なんですけどね」

 と、その時の話を思い出していた。

「宇宙的な発想というのは、少し大げさでしたね。単純に頭の中に浮かんできたのは、二重惑星のイメージだったんですよ」

「恒星のまわりを、二つの惑星がくるくる回転しながら、回っているという発想ですか?」

「ええ、恒星から見て、裏になったり表になったりしながらですね。地球などは自転しているので、時間帯によって裏になったり表になったりするんでしょうが、二重惑星の場合は、どちらかの星が、裏だったり表だったりするんですよ。しかも、その星単体では、裏表の概念がないような気がするんです。だから、二重惑星などというおかしな造りになっているんじゃないかってですね」

「それをパラレルワールドの中の天国と地獄に当て嵌められるんですか?」

「宇宙的には難しいかも知れませんが、二重惑星という発想自体は、決して無理なことではないと思っています」

「箱の中を開けてみると、中にはまた箱が存在しているという発想だったり、自分の前後に鏡を置いて、自分がどのように写っていくのかという発想は、無限を考える上で必要な発想だと思いますが、パラレルワールドにも同じような発想があってもいいんじゃないかって思うんです」

「でも、天国と地獄の発想には当てはまらない気がします。いくらパラレルワールドが存在するかも知れないと思ってもですね」

 三雲はそこまで言うと、少し考え込んでしまった。

「それが、三雲さんが話した『天国と地獄自体がパラレルワールドのようなもの』という発想なんでしょうね。つまりは、パラレルワールドというものが限られたものであっても関係ないということなんじゃないかって、僕は思いましたね」

「無意識にそう思っているのかも知れないですね。だから、高山さんの考えに対して、二重惑星なんて発想を思い浮かべて、自分の発想の中の矛盾をついてしまっていることになると気付かなかったのかも知れない」

「我々の発想は、交わることのない平行線をたどるような気がするんですが、発想はきっととどまるところを知らないような気がするんですよ。今こうやって話をしてきて、自分の感じていた時間と、実際の時間、違っていませんか?」

「確かに言われる通り、自分の考えている時間に比べて、かなり経っているように思えますね。まるで浦島太郎になったような感覚だっていえば、大げさかな?」

「それだけ一つのことに集中しているからなのかも知れませんね」

 そう言って、高山は微笑んでいた。

 すると、三雲が今度は思い出したように、口を開いた。

「そういえば、この間、高山さんから聞いた天国と地獄の夢の話が頭にあったからなのかも知れませんが、僕も同じように天国と地獄の夢を見たんですよ」

 その表情は、さっきまでの「聞き手」ではなく、完全に立場が逆転したかのように、自分が主導権を握ろうとしているかのようだった。三雲本人としては、

――我に返った――

 と思っているのかも知れない。

「ほう、それは面白い。ぜひお聞かせ願いたいものですね」

 表情は柔らかだったが、眉間がヒクヒクと痙攣していたのを、三雲は見逃さなかった。今までの三雲だったら、そんな挑戦的な表情を相手にされたら、引き下がるタイプだったはずなのに、その時は、話をしなければ気が治まらないと言った気分だったに違いない。

 マスターは、そんな三雲に少し不安感を感じていたが、その様子では、

――止めても無駄だ――

 と感じたことから、黙って見守るしかなかった。

 高山の表現や、眉間の痙攣のように、相手から見て挑戦的に見えるかも知れないが、高山本人としては、そこまで挑戦的ではなかった。話の展開では挑戦的になるかも知れないとは思いながらも、最初はまだまだ精神的に穏やかだった。

「マスター、ワインを貰おうか」

 普段は水割り専門だと思っていた三雲が、ワインを注文した。

「ワインを飲むと、結構饒舌になれるんですよ。僕はいつも聞き手に徹することが多いので、水割りを飲んで相手の話に集中するようにしていたんですけど、ワインを飲むと、自分がこれから話そうとすることを、整理できる気がするんですよね。作家の先生方にも、同じようなこだわりというのがあるような気がするんですよ」

「そうですね。僕は童話を書いている時、たまにお酒を飲むことがあるんですが、その時は焼酎のお湯割りが多いですね。身体の中から暖かくなって、顔の辺りまで熱くなるんですよ。でも、頭にまではその熱さが上っていかない。だから、却って頭が冷やされる感じで、いい発想が生まれてくるんですよ。特に書いている時に、次の言葉もどんどん出てくる。酔っ払いすぎなければ、焼酎が一番いいですね」

「綿貫先生は、ウイスキーだって言っていましたね。やっぱり作家の先生によって違うもんなんですね」

 その話を聞いて、マスターもニッコリと笑った。

 いきなり夢の話から入るわけではなく、お酒の話を前置きにすることで、話が最初から軟らかくなり、自分が抱いていた危惧は、思い過ごしに過ぎないのではないかと感じたからだった。

「ところで、三雲さんは天国と地獄について、何か思うところが昔からあったんですか?」

「別にあったわけではないと思います。ただ、綿貫先生の担当をするようになって、怪奇ホラーに接するようになると、どうしても、天国と地獄の発想とは避けて通れないような気はしていたんですよ。そんな時、高山さんが天国と地獄の夢を見たという話をしたので、僕なりに興味を持って聞いていたんですね」

「僕の話が参考になりましたか?」

「前に聞いた高山さんからの話では、プロローグと言っていたわりには、結構先までイメージできたんですよ。話を聞いているうちに勝手に自分の頭が動いたとでもいうべきでしょうか。不思議なものですよね。高山さんの話に出てきた、天国と地獄に行く前、つまり死んでから、どちらかの道に行く前にどこかの研究所のようなところに行かされるという発想は、実は綿貫先生からも聞いたことがあったんですよ。綿貫先生は、発想だけは浮かぶんだけど、どうしても小説として文章化し、ストーリーを進めることができないと言って、苦笑していました。僕は、どうしてできないのかというのを素朴に感じていたんですが、やっぱり、夢に見たりして、夢の中とはいえ、リアルに感じることがなければ、文章にするということはできないじゃないかって思ったんです」

「なるほど、確かにそれはいえますね。まったくの空想で書ける小説というのは、案外限られているのかも知れません。フィクションと言っても、どんなに小さくてもいいので、そこにはリアル感というものがなければ、文章にはできないものなんだよ。それを考えるからなのか、僕はノンフィクションを書こうとは絶対に思わないんだ」

「それは高山さんの作家としてのこだわりなんでしょうね」

「そうだよ。最近では、今書いている童話に関しても、これが本当に自分の書きたいものだったのかって、いつも自問自答を繰り返している。そんな時に見た天国と地獄の夢、僕にとっては、センセーショナルな出会いであり、今後の自分の人生のターニングポイントではないかって思っているんですよ」

 と高山が言うと、

「それは、誰もが感じていることなのかも知れませんね。でも、それは自分が目標にしていることを段階を追って、少しずつ達成してきたことで、頭の中が飽和状態になってきたからではないでしょうか? それだけを目標にしてきたのならそれだけその思いは強く、達成できてもいないのに、達成されたと錯覚し、目標を見失いということは結構あることなんじゃないかって思います」

 高山の言葉に答えを返したのは、三雲を制するようにして口を挟んだマスターだった。

 もしこの話を先に三雲がしていれば、角が立つとマスターは思ったのかも知れない。第三者で、今までずっと影のようにしていたマスターだからこそ話せる内容だったのではないだろうか。

 そのおかげで、高山の童話作家に対しての愚痴は、それ以上語られることはなかった。人によっては、

「愚痴くらい言わせてやってもいいんじゃないか」

 という人もいるだろうが、高山のような性格の人は、普段から愚痴を言うような人ではないので、一度自分から愚痴をもらしてしまうと、そこから先は湯水のように出てくるに違いない。

「さすが作家だ」

 と思うほどにボキャブラリーは豊富であり、同じことであっても、言い回しを変えることで、くどさを和らげることができることで、愚痴をいう時間が余計に長くなってしまうことだろう。

 それを思うとマスターの機転は実に絶妙のタイミングで発せられた。瞬間湯沸かし器的なところのある高山の熱湯を、実にうまく冷やしたのだ。三雲と高山の間にしこりを残すことなく冷まさせることができるのは、マスター以外にはいないであろう。そういう意味では、二人がこのバーを交流の場に選んだのは、最高の選択だったのだ。

 少しの間、会話が途切れた。しかし、それは会話がないからでもなく、空気が重たいからではない。単純に一度熱くなりかけた空気を冷ますために必要な時間で、そこには息苦しさはなかった。普通に時間はすぎていく。

 どれくらいの時間が経ったのだろうか。酒の量もさほど増えることもなく、チビリチビリと呑んでいたが、

「夢の中に最初に出てきた光景は、石塀に囲まれた舗装されていない空き地のようなところだったんだ」

 ゆっくりと、そして重々しく三雲が話し始めた。まるでこれから怪奇話が始まるような雰囲気に、マスターも高山も固唾を呑んでいた。

 三雲は続ける。

「その場所には、最初自分だけだと思っていたのだが、途中から人が現れた。それはどこかの門から入ってきたわけではなく、瞬きをする間に、一人ずつ現れるんだ」

「その場所は、他には本当に何もない場所だったの?」

 と、高山が訊ねた。

「いや、最初は本当に何もなかったんだけど、人が現れるのと同じで、何回かの瞬きの間に少しずつ現れてくる。人の方がたくさん現れるんだけど、出現してくるものにまったく共通性のないことから、自分が夢を見ているんじゃないかって思ったんだ」

「えっ、人が現れたからではなく?」

「ああ、人が現れることよりも、唐突に考えてもいないものが急に現れる方がセンセーショナルだった。だから、その時に夢を見ていると感じても、別に不思議なことではなかったんだ」

 三雲の口調は、さっきまでの聞き手用の敬語ではない。自分が主導権を握って話をしている時は、思い出しながらだからなのか、口調は高圧的な感じだった。

 もっとも、こんな話を敬語でされても、リアリティに欠けるというものだ。自分と同じような気持ちで話しているのだろうと感じた高山だった。

 三雲は続けた。

「その人たちは一言も口を利かない。目の前にあるおもちゃで楽しそうに遊んでいるんだ。おもちゃで遊んでいるからと言って、子供というわけではない。中には白髪の髭を生やした爺さんもいたくらいだ。彼らはお互いに近くに誰かがいるということを認識しているのかどうか、僕には分からなかった」

「皆、別々に登場しているんだったら、三雲さんは夢の中で、瞬きする間に別の次元を除いているのかも知れないよ」

 と高山がいうと、

「でも、それだったら、たくさんの人を見ることはないんじゃないか? 一人の人を見て、次の瞬きで違う人が現れたのなら、前に見た人は消えているはずだろう? 目の前の人はどんどん増えていくんだよ」

「じゃあ、三雲さんが瞬きする間に、その時に見た人も一緒に次の次元に連れていっているんじゃないかな?」

「面白い考えだね。実は僕もその発想をしてみたんだけど、それを証明するすべがなかったんだよ」

「夢だと思っているのに、証明するすべなんて必要なのかな?」

「僕は必要だと思っている。そうじゃないと、夢の続きを見ることができなくなって、そのまま目が覚めてしまうんじゃないかって思うからなんだ」

「そう思いたくないということは、それだけ夢から覚めてほしくないと感じているからなんだろうね」

「その通りです。中途半端なところで目を覚ましたくないという思いは僕だけではないと思うし、中途半端なところで目が覚めるのは、いつものことであって、最後まで見ることができなかったことを悔しく思っているのだから、目を覚ましたくないという思いは、当然のことなんじゃないかな?」

 これが三雲の考え方だった。

 しかし、この思いは大なり小なり、誰にでもあることなのかも知れない。少なくとも、今ここにいるマスターと高山は、三雲と同じ意見だった。

「何度目かに人が出てきたのを見て、やっと人の共通点が分かったんです。その人たちは皆白い服を着ていて、まるで死に装束に見えたんだけど、それでそこが天国か地獄の入り口ではないかと思ったんだけど、その人たちが着ているものが死に装束ではないと気づいた時、彼らが病人であると分かったんです」

「ということは、その人たちが着ていたのは、病院で着る服だということなのかい?」

「ええ、そうです。その服も、微妙に色が違っている。白い色だとばかり思っていたんですが、中には青い色であったり、ピンク系の色だったりするんですよ」

「男の人が青い色で、女の人がピンク色ということなのかい?」

「いや、そうじゃないんだ。男がピンクを着ている人もいるし、女が青を着ている人もいる」

「目の錯覚では?」

「そんなことはない。大体自分が見ている夢で、目の錯覚というのもおかしなことでしょう?」

「確かにそうですね。じゃあ、何だったんだい?」

「それが分かると、彼らが病人だって分かったんですよ。結論からいうと、青いものを見ている人は記憶喪失で、ピンク色の人は精神障害の人だったんです」

「なるほど、だからさっき、おもちゃで遊んでいる人がいたということだね?」

「そうです。その場面は夢でもなければ、正気な人間は長い時間いることは無理がある場所なんです。その場所は開放されているように見えるけど、完全に隔離されている場所だったんです」

「そんな場所を、僕も創造したことがあったな」

 とマスターが口を挟んだ。

「実は、私は高校生の時、文芸部で小説を書いていたことがあったんです。その時に、神経科の病棟を小説にして書いたことがありました。もちろん、ボツになりましたけどね」

「それはそんなにリアルなものだったんですか?」

「そんなことはなかったんですが、学校がクリスチャンの学校だったので、そのあたりは厳しかったですね」

「宗教が絡むとしょうがないですよね」

「ええ、そのおかげで、文章を書くのを止めてしまったんですが、もしあの時続けていれば、お二人とは、違った立場でお会いしていたかも知れませんね」

 と言って、マスターは笑った。

 マスターも同じような発想を抱いていたというのを聞いた時、

――夢がその人の潜在意識を映し出すのだとすれば、人の潜在意識というのは、自分の精神的な奥底に秘めた本来の自分とは違う自分が、潜在意識の中にいるということを夢の中で表現したくなるものなのかも知れないな――

 と、高山は感じた。

 マスターが書いたという学生時代の作品を読んでみたい気もしたが、今の自分たちの考えに変な影響を及ぼしたくないという思いから、その考えは断絶しなければいけないと考えた。

 マスターの話を聞きながら、高山が何かを感じていることを三雲は感じながら、自分が見た夢を思い出していると、さらに夢の奥深くまで思い出せるような気がしてきたのだ。

 三雲は、夢を見ている時、

――僕の気が違ってしまったのではないか?

 と感じた。

 だが、これが夢だったことでホッとしたのと同時に、自分以外の人も同じだったらどうしようとも考えていた。

 マスターが話を続けた。

「実は私もその続きのような夢を見たことがあるんです」

 というと、反射的に反応したのが三雲だった。

「えっ、それはどういうことですか?」

「青い服にピンクの服というので思い出したんですが、私も夢の中で、狂気の沙汰のような感覚になる夢を見たのを、今の話を聞いて繋がった気がしたんですが、その時私は夢の中の一人だったんです。青い服を着ていたので、三雲さんの話からすれば、記憶喪失だったのかも知れませんね。何も思い出せない中で、その光景が普通だと思っていました。別に何も疑わない。疑うという感覚すらないような、覇気のない感覚は、目の前に広がっている光景は、すべてが他人事、自分に意思などというものはなかったのではないでしょうか」

 とマスターがいうと、三雲が答えた。

「ええ、まさしくその通り、誰もがまわりを見渡すわけでもなく、ただ目の前にあるものをおもちゃにしているだけ、もし、車が突っ込んできたとしても、避けようとはしないかも知れません」

 マスターが続ける。

「そうですね。喜怒哀楽のすべてが欠如した世界があるとすれば、あんな世界なのかも知れないですね」

 今度は高山が口を挟んだ。

「それじゃあ、まるで動物のようじゃないですか」

 というと、今度は三雲が、

「いやいや、動物にもなっていないですよ。本能すら欠如してしまっている世界なので、植物と言った方がいいかも知れない」

 三人は、それぞれにその光景を想像していた。

 三雲とマスターは、立場こそ違っても、同じような夢を見ているので、似たような世界を想像しているのだろうが、高山はまったくの想像なので、二人とはかなり違うのを予想された。

 高山が自分の想像を口にしてみた。

「僕には、その光景の中に、不思議なものが見えるんだけど、話していいかな?」

 というと、二人は頷いて、

「どうぞ、話してみてください」

 高山は、やはり童話作家というだけではなく、怪奇ホラーを書くだけの素質を持っているのではないかということを、三雲に思わせるようなイメージを抱いていたのだ。

「その場所は、正方形の中にある土地で、入り口から入るとすぐに目立つのは、正面の壁に大きなアナログ時計があるんですよ。柱時計から外れたような形をしていて、その巨大な時計は、長針と短針の二本があって、長針の方はグニャッと曲がっているんですよ。それでも時は正確に刻まれているはずのその時計、入り口に立って見た時は、なぜか気が付かなかったんです」

「それだけでかいのに気づかないということですか?」

「ええ、一番目立ちやすいはずなのに、なぜか気にならないということは、最初からそこに巨大な時計があるということは分かっていて、長針が歪んでいるため、見てもあてにならないという感覚なんでしょうね。そのため、入ってからすぐ目の前に意識が集中してしまったので、広い敷地内に、人が点々としていて、それぞれが勝手な行動を取っているという光景を不思議に感じてしまったんだと思います」

「なるほど、何となくイメージできます。私は最初に入った時、時計のことは気になっていました。でも、時計を気にすることでそれまで見えていたものが見えなくなったような気がしたんです。それが何なのか分からないですが、そう思った途端、最初からその世界の住人だったように感じてしまったんです」

 というのが、マスターの意見だった。

「僕の場合は、時計には気づきませんでした。最初に話したように、青い服の人たちとピンクの服の人たちがいて、何をしているのかを考えていると、急に何かに閃いたように、青い服の人が記憶喪失で、ピンク色の服の人が精神障害の人に思えるようになったんです。僕もさっきは、夢に見たことを思い出しながら話をしていたんですが、マスターの話しが自分の中で新たな物語を形成しているようで、ひょっとすると、夢の世界の方が後で、マスターの話を聞いたことで浮かんでくるイメージが最初に感じたことだったのではないかと思うようになりました。それがどのように、どこまで違っているのかまでは、今は分かりません」

 と三雲は言った。

 三雲の話が少し変わってきたような気がしてくると、今度は高山が想像しているイメージに似てきたように思えてきた。三雲の夢の話はまだ途中だった。途中からマスターの話が入ってきたために、中断してしまったわけだが、あのまま三雲の話を最後まで聞いていれば、また違ったイメージが浮かんできたかも知れない。

 しかし、あそこでマスターが口を挟んだことに何か意味があるのかも知れないと高山は思った。

――最後まで三雲の夢の話を聞かせないためのものだったのではないだろうか?

 と高山は考えたのだ。

「僕のイメージは、二人に次第に近づいていく気がしたんですが、一番印象に残っていることがまだ誰の口からも発せられていないような気がします」

 高山がそういうと、

「それを高山さんが言ってくれるんですね?」

 と言ったのは、マスターだった。

 マスターの言い方は、

――俺の口からは言いたくない――

 という雰囲気がありありだったが、三雲を見てみると、完全に無表情だった。

――心ここにあらず――

 とでも言いたいのか、表情から考えていることを読むのは到底無理なことだった。

「じゃあ、言わせてもらおう」

 というと、マスターは固唾を呑んでいて、三雲は無表情のままだった。

「中央から少し外れたところに踊り場があって、そこには丸いものが乗っかっているんです。それは石でできた大きな顔で、その顔は大仏様だったんですよ。つまりはお釈迦様の顔が、生首のように、踊り場の上の台座に乗っているんです。しかも、その顔は斜めに傾いていて、まるで涅槃増の顔のようにも見える。僕がこの空間の中で一番不気味に感じたのは、この顔だったといっても過言ではないです」

 ここまで言うと、その場は凍りついたようになっていた。マスターは驚愕の表情で、顔が固まっていて、三雲は相変わらずの無表情は、その場を凍りつかせるに十分だった。

――何か余計なことを言ってしまったか?

 と高山は感じたが、もう後の祭りだった。時間の経過が、この場の凍結を解凍してくれるのを待つしかなかった。

 解凍に導いたのは、三雲だった。

「僕の夢は、今高山さんが言った大仏の生首まで見せてくれなかったんですよ。ひょっとして見ていたのかも知れないけど、肝心なところで目を覚ますのが夢だとすれば、その肝心なところが大仏の生首であり、目が覚めるにしたがって忘れてしまっていったのかも知れませんね」

 三雲の表情は、いつもの様子に戻っていて、三雲が話をし終わる前のどこかで驚愕の表情をしていたマスターの呪縛を解いたのだろう。二人とも何事もなかったかのように振舞っていたが、高山は確かに凍りついた時間を感じていた。高山が感じた凍りついた時間を三雲もマスターも感じたのかどうか分からない。もし、感じていなかったのだとすれば、三人はあの時間、別の空間にいたのではないだろうか。二人の次元の間に挟まったことで、高山は凍りついた世界を見たのかも知れない。

 そう思うと、さっきの凍りついた時間、高山は自分が創造した世界の中に入り込んでいたことに気が付いた。目の前にいる驚愕のマスターも、無表情の三雲も、それぞれ、何も感じることなく、この世界の中で、記憶喪失と精神異常という空気のような存在の中の三人と入れ替わってしまっていた。そして、そんな三人を冷静な目で見ている三人がいて、まるで箱庭に入っている三人と会話をしているように見えた。

「僕は箱庭の中にいて、上から誰かに見られているような気がして、さらに自分を見ている人が、その上の誰かに見られているような気がして、堂々巡りを繰り返しているんですよ」

 三雲はそういうと、

「じゃあ、三雲さんのあの無表情は、その恐怖に声も出なかったということなんでしょうか?」

 と高山が聞いた。

「ええ、その通り、僕は不可思議な現象を目の前にすると、一歩も動けなくなるくせがあるんです。無表情になったというのは、そういうことだったのかも知れません。いつも凍りついたみたいだって、言われているんですよ」

 三雲が凍りついた世界で違和感がなく無表情を貫けたのは、以前からの性格によるところが大きかったのだ。

 今度はマスターがおかしなことを言い出した。

「ひょっとして、皆同じ夢を見ていたんじゃないかな?」

 というマスターの意見に、三雲が答えた。

「それは夢の共有ということですか?」

「そうですね」

「いや、僕は少し違うと思っているんですが、これってそもそも夢だったんでしょうか?」

「どういうことですか?」

「夢ではなく、別の世界に、三人が想像した場所があって、その場所にも僕たち三人がいて、同じことを感じていた。ただ、その感じ方が、この世界とは違っていたので、各々まったく違った印象で覚えていた。それを夢として感じるのは普通であり、それを夢と感じさせる何かの力が働いていたのかも知れません」

「じゃあ、別の世界に僕たち三人がいるんだけど、その世界では違う次元にいることで、一緒にいても、その存在に気づかない。こっちの世界から覗いた時だけ、三人が同じ次元にいるように見えるんじゃないかってことですか?」

「ええ、そうです。だからあちらの世界から、もしこっちが覗けたら、この三人は別の次元にいるように見えるかも知れないですよね。つまりはこの次元のこの世界でなければ、この三人は決して一緒にいることはできないということなんじゃないかって思うんですよ」

「かなり、飛躍した考えですね」

「ええ、でもこの考えを応用すれば、天国と地獄の創造というのは、可能なんじゃないかって思うんです。だから、逆にいえば、天国と地獄というのは、あくまでも創造物であり、人間の頭が作り出したもの。ただ、火のないところに煙は出ないので、それなりに似たような世界をかつて覗いた人がいるんじゃないかって思うんです。ただ、それが今考えられている天国と地獄のようなものとはまったく違っているかも知れないですけどね」

「今考えられている天国と地獄というのは、宗教かかっていますからね」

「だから、本当に天国と地獄があるのであれば、それはもっとリアルで、生々しいものなんじゃないかって思うんですよね」

「さっき夢の中に出てきたという世界。あれも人間が想像したものの中に含まれているのかも知れないですね」

「あれこそが、天国と地獄の原点ではないかと思うんですよ。こうやって話をしているうちに、天国と地獄の概要が浮かんでくるかも知れませんね」

 三雲がそういうと、高山は自分の作品に、ぜひとも天国と地獄を入れたいと思うようになった。その思いは、、

「天国と地獄の夢を見たので、それを話にしてみたい」

 と三雲に語った時のころを思い出させた。

 あの時は、

――忘れてしまいそうなので、文字にして残しておきたい――

 という思いが強く、本当は忘れたくないという思いが一番強かったのだという単純なことを忘れてしまっているような気がした。

 元々は自分の夢の中に出てきた天国と地獄の話が、いつの間にか、三雲の夢に出てきた箱庭のような世界の話になっていた。高山以外の二人がどのようなイメージを持っているのか分からないが、高山の頭の中には、夢で出てきた天国と地獄の夢の狭間が作り出した世界だと思えてならなかったのだ。

 ただ、話を聞いているうちに、少なくとも三雲だけは、この世界が天国と地獄の狭間の世界だと思っているようだ。ただ、同じ天国と地獄と言葉で表現したとしても、感じている世界は、三雲と同じようには思えない。やはり、二人は箱庭の中にいて、真上から三人の男たちに見つめられているようだ。

――三人の間には、見えない壁が存在し、その壁を確認できるのは、上から見ている人たちだけではないだろうか――

 と、高山は感じるようになっていた。

「天国と地獄って、実際に言われているよりも、実際にはもっとリアルで生々しいものなんじゃないだろうか?」

 と、高山は呟いた。

 確かに考えていることはその通りなのだが、自分の口が動いてこのことを呟いたという意識はない。その話を聞いて我に返った二人を見て、高山はきょとんとなってしまった。箱庭の上から見ている三人は、その様子を見て、ホッとしているようだった。一体、箱庭の外から見ている人は、何を感じたというのだろう。きっとその答えは、高山の夢の中ですでに出ていたのではないかと感じている高山だった。

「そういえば、以前見た夢の中で、男と女が話をしていたんだけど、二人とも死んでから最初に、大学のような建物のところに行かされたって話をしていたような気がしたんだけど、あれは何だったんだろう?」

 と、高山がいうと、

「それと似たイメージを自分は最近抱いたことがあります。元々のきっかけは、綿貫先生のホラー作品に出てきた話だったんだけど、その作品の時代背景が、昭和初期だったんですよ。まだ戦争前で、世の中は軍国主義一色だったという設定なんですが、そこで、徴兵制で強制的に軍人にさせられる人を洗脳するための施設があったという設定で、それが大学のような建物だったらしいんです」

 と、三雲が言った。

「そこでは何が行われていたんでしょうね?」

「軍人教育養成所という名目だったんですが、実は、人体実験も行われていたようなんです。軍人として戦争に耐えられそうもない人には、人体実験で国のために尽くす。それが当たり前の時代だったんでしょうね」

「それはひどい」

 と、マスターがいうと、

「そうでもないでしょう。人体実験がどれほどのものかは分かりませんが、身体の問題で軍人になれなかった人は、元の生活に戻っても、まわりからは非国民といわれて差別されるんです。まともな生活を送れるわけもなく、それなら、身体を提供することでお国のためになれるならという人もいたようです」

「じゃあ、人体実験で命を落とす人もいたんでしょうね?」

「いたと思います。ただ、これはフィクションで、綿貫先生の想像した架空の話なので、怪奇小説の一部として聞いてもらわないといけないですよ」

「とは言いながら、ここまで結構想像と言いながら、かなりの話をしてきていると思いますので、いまさらこれくらいの話には、感覚が麻痺していると言ってもいいかも知れませんね」

「でも、死んだ人はそのまま荼毘に付されて、遺族には派兵先で亡くなったとでも言っていたのかも知れませんね」

「ええ、まだ本格的な戦争にはなっていませんでしたが、満州や支那では派兵が行われていましたからね」

「今の我々には想像も付かない世界なんでしょうね」

「そういうことです」

「でも、綿貫先生はその中で、その施設が戦後どうなったのかということを書いていました」

「どうなったんですか?」

「進駐軍に接収されたんですが、日本が復興を遂げていく中で、ある企業がそこを買い取ったらしいんです。そこで、死後の世界の研究を密かにしていたというオチだったんですが、どのような研究をしていたのかは、先生はボカしていました。あくまでもこの研究所はメインテーマではなく、メインの話を盛り上げるための脇役のような存在だったんですね。でも、僕はこの建物の存在が気になっていたんです。そんな時に、高山さんから天国と地獄の夢のプロローグの話を聞かされて、あらためて綿貫先生の話を思い出すことになったんです」

「綿貫さんの発想が、僕の夢に繋がってきたのかな?」

「まるでそんな感じのイメージですね」

「高山さんは、それから夢の続きは見ていないんですか?」

「ええ、夢の続きは見ていないんですが、勝手に想像力を膨らませて、いろいろな発想が出てきているところです」

 と高山がいうと、

「それがまずいのかも知れませんね。勝手に現実世界で発想が先走ってしまうことで、潜在意識が混乱しているのかも知れませんよ」

 と言ったのは、マスターだった。

「いやいや、そんなことはないと思いますよ。潜在意識というのは、その程度のことで揺らぐことはないと思います。逆に潜在意識が根底にあるから、いろいろな発想が生まれてくるのかも知れません。きっとその中に潜在意識に限りなく近いものがあるはずです」

 と、三雲が言った。

「それは限りなく近いだけなんですか? 潜在意識そのものではないんですか?」

「違うと思います。もし、そこで潜在意識そのものが思いつくのであれば、他の発想が生まれるはずはないと思うからですね」

「なるほど」

 三雲の意見は、二人を唸らせた。確かに夢の続きというものは見たいと思っても見ることができない。現実世界での意識と潜在意識とでは、交わることのない平行線を描いているのかも知れない。

「でも、高山さんが見たという夢に出てきた建物は、何をするところだったんでしょうね?」

 とマスターが聞くと、

「僕は、その建物は、死んだ人間が必ず最初に行くところで、ここで、天国に行くか地獄に行くかの決定がなされるのではないかと思っているんです。ただ、この夢を見るまでは、決めるのは本人ではなく、あの世の裁判官のような人によって振り分けられるんじゃないかって思っていたんですが、実際には最終的に決めるのは、本人ではないかと思うんですよ」

 と、高山が言った。

「でも、それだったら、皆天国に行きたがりますよね。わざわざ地獄になんか行きたいと思う人はいないはずだからですね」

「そうなんですよね。だから、夢の中で出会った男女が、今の自分には理解できないような話だったんですよ。そのおかげで、夢に見た会話もほとんど覚えていないんですよ」

「でも、それは全体が分かっていて、一部だけだって思っているんですか? ひょっとしたら、覚えているのがすべてなのかも知れませんよ?」

 と三雲に言われた高山は、

「そんなことはないと思うんですよ。もし、あれがすべてだったら、話の辻褄がまったく合っていない。ところどころ忘れているところがあるような気がするんですよ。でも、一つ印象的だったのは、この世にも天国と地獄が存在しているという話をしていたことですね」

「確かに、この世こそ、天国と地獄があるのかも知れないですね。差別が存在すれば、貧富の差も存在する。この世の地獄という言葉、味わっている人がどれほどいるか……」

 そう言いながら、三雲は考え込んでしまった。

 そんな三雲を見て、高山もマスターも考え込んだ。ここまで話をしてきたことで、一時の急速が必要な時間だったのだろう。

 高山は、自分が以前に見た夢を思い出していた。三雲も自分の夢を思い出していた。マスターは、夢を見たわけではないので、二人の話を聞きながら、勝手に想像を膨らませていたのだが、自分が二人が見た夢の中に登場人物としていたように思えてならなかった。

――俺は二人の話の中に入り込んでしまって、抜けられなくなってしまったのか?

 と感じていた。

 しかし、もし抜けられなくなってしまったのであれば、そこから抜けるためには、今は意識していない夢の中の自分を意識する必要がある。発想ではなく、潜在意識の中に埋め込んでしまわないと、本当に抜けられなくなってしまいそうで怖かった。

――まるで夢を見ているようだ――

 そう思うと、本当に夢であってほしいと思うようになった。

 二人ともその日はこの店に来ていなかったという意識をしっかり持つと、さっきまで目の前で話をしていた二人はいなくなっていた。

――やはり夢だったんだろうか?

 と、ハトが豆鉄砲を食らったように意識が飛んでしまっていたが、さっきまで二人がいたと思っていたカウンターのテーブルの上に、一冊の原稿が置かれていた。

「天国と地獄」

 さっきの話そのままのタイトルで書かれた原稿は、密閉された店内で、風もないはずなのに、ゆっくりと捲れようとしていた。

 タイトルの横に名前が書かれていたが、そこには綿貫五郎と書かれていた。

「綿貫五郎? 三雲さんが時々口にしている自分が担当している綿貫先生のことなのかな? ということは、この原稿は、三雲さんが忘れて行ったものに違いない」

 とマスターは感じた。

 原稿の厚さは、結構なもので、長編であることは分かった。

「それにしても、大切な原稿を置き忘れるなんて、三雲さんもどうかしている」

 と思ったが、マスターが見ていた間、三雲が原稿を封筒から取り出すところを見たことがない。

 実際に編集社の担当者が、自分の担当している作家の作品を会社以外で表に出すようなことはしないだろう。裸で置いてあるということ自体、普通では考えられないことだった。

 しかも、本人はそこにはいない。忽然と消えてしまったとしか思えない。昨日、高山と三人でここで会話していたのは間違いない。ただ、会話が終わったところ、そして、二人が帰ったところ、さらには、店を閉めて、時間が経ち、翌日になったという意識はまったくなかったのだ。

――どういうことなんだろう?

 マスターは、今おかしな発想を思い浮かべていた。

――高山さんと三雲さんは、昨日最後に話していた大学のような研究所を探して出かけたのではないか。しかも、探し始めてすぐに見つけることができて、今、二人はその建物の中で自分の居場所を探しているように思えてならない――

 と、感じていた。

 マスターは複雑な心境だった。

 自分が二人の妄想に引き込まれなくてよかったという思いと、生きている間に見ることができるかも知れない死後の世界への興味から、二人に取り残されてしまったという惜別の思いとの二つであった。

 だが、生きている間に死後の世界を見ることなど、できるはずもない。できると思ったとすれば、大学のような建物の存在が自分の中で他人事には思えなかったからではないだろうか。その建物を以前にどこかで見たことがあるという感覚が、マスターの中で残っていたからだ。

――どこで見たんだろう?

 と思っていたが、実はそれはデジャブではなく、逆デジャブだったのだ。

 つまりは、過去に見たことを思い出したわけではなく、未来に見るはずのことを、意識していたことで、頭が混乱していた。バーの背中合わせになったその場所は、高山と三雲が行くことになる大学のような建物だったのだ。

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