恋の終わり

幸泉愚香

恋の終わり



「だって、わたしたちは、愛し合って結婚したわけじゃないでしょ?」



 彼女は娘が居る前でそう言い放った。休日の夜のこと。


 娘はその言葉を理解はしていないが、いつもとは違う空気感に気圧されているようで顔を凍り付かせている。娘の前ではこうならないことを心がけていたのに、そんな僕の気遣いごと彼女は台無しにしてしまった。


 そのまま彼女は無表情を貼り付けたまま自室へと戻っていく。僕は彼女が消えるのを待ってから溜め息吐いた。どうしてこうなるのだろう。



「ぱぱ……」



 娘は小さく呟いてしゃがんでいる僕の顔を覗き込む。そして腕を伸ばし、小さい手を僕に向けてひらひらさせる。これは抱っこをせがむ合図だ。掬い上げるように抱き上げ一緒にソファへと沈み込む。そうしてからも娘は真剣に僕の顔を見ている。こんないつも見ていてそろそろ飽きが近い顔を覗いて何か面白いことでもあるのだろうか。僕はそんな視線から逃れるように前を向いた。


 改めて見ると広い家だなあ。彼女が設計して彼女のお金で建てられたのだけれど、3人暮らしにしては随分と部屋数が多い。後々誰かに一部屋ずつ貸す気で居るのだろうか。厭だよ、朝起きて部屋を出たら同じタイミングで出てきた他人に、今日私の星座の運勢駄目みたいなんですぅ、などと気まずさを隠せない会話をして、そのまま同じ食卓に並んで大皿を取り合うなんて。


 彼女もそうだけれど、僕は人というものと出来るだけ関わりたくない人種なんだ。それと家賃収入とを天秤に掛けて、後者を取るほど生活的に厳しくはなっていない。だからこそ、この家の広さには毎回疑問に思う。


 僕は矮小な人間なので慎ましいものを好み、大きいものや豪華なものを見ると大変恐縮してしまうんだ。未だにこう遊ばせている広い空間があるとそわそわしてしまう。何かで埋めてしまわなければという強迫観念に駆られる。余白の美なんて知ったこっちゃない。だから父さんにセンスがないと見放されてしまうんだ。哀しいなあ。センスのない人間とセンスのある人間はやはり馬が合わないのだろうか。この辺は努力じゃどうしようもないからなあ、本当にヤになっちゃうな。


 娘の背中を撫でながら考える。どうすれば仲良くなれるのだろうか。子どものためにも、上辺だけでも円満な家族を演じる必要はあるんだ。その為には彼女の協力が不可欠だけれど、今のを見るにその気はないだろう。僕は普通に好きで結婚したのにどうしてこうなったんだ。


 娘を寝かしつけた後も考える。離婚という文字が何度か出掛かっては、手を振ってその言葉を払う。どうも煮詰まってしまっているので外に出ることにした。


 部屋着にフェイクファーのコートを肩に引っ掛け防寒対策をしたのち家を出る。寒さより先に隣の家のイルミネーションに目を引かれた。トナカイとサンタが仲よさそうに点滅している。


 そういえばそういう季節だったなあ。最近外に出なかったので気付かなかった。


 娘と彼女のプレゼントを一瞬考えかけたが、目下の急務をまず片付けなくてはいけないので、公園の方に向き直り地面を見ながら歩く。アスファルトにもキラキラが映っていたので意味はなかった。くそう。


 公園に着くといつもの癖で自販機の前まで来てしまう。そこでココアとブラックを買うんだ。そうしてベンチで待つ彼女に二つを差し出して選んで貰う。あぶれた方を僕が貰う。


 僕は基本的には苦いものが嫌いなんだよね。彼女はどっちも好きだからこうやって二択を作ってあげなくてはいけない。彼女がブラックを選んでも半分飲んだところで交換させられる。ココアを飲んだ後のブラックはそれはそれはビターなんだ。うぇっ。と回想している間に両手には二つの缶。両方飲むわけもいかないので、冷める前に帰らなくてはならない。


 はぁ、と白む息を吐いて帰路に就く。




                  *




 僕と彼女が出会ったのは子どもの頃。知り合いの子どもをしばらく預かるということで僕にも紹介した。


 むすっとした顔で僕を見ようともせず、父さんに連れられていた。自己紹介も僕だけが一方的にやって、やっぱりむっつりしている彼女は何も言ってくれない。僕は苦笑しながら父さんに言われた通り相手をした。


 玩具だとかゲームだとか同じ年頃の子が喜びそうな物を差し出しても彼女は反応を示さない。白い壁を見つめて中空で手を動かしている。変な子だなと思ったけれど、特別不気味に思ったり避けたりはしなかった。ただ未知との遭遇的な好奇心はあったのかも知れない。あと任された責任。僕はそんな彼女の白い横顔を見ていると、とても絵になりそうだったのでスケッチブックを取り出して勝手に写生させて貰った。


 僕がこうやってスケッチするときは、最初に対象を見続けて、目や脳に焼き付けて、そこから一切見ずに描くことに集中する。対象を見ながら描いても動物ならいつの間にか動いたりするし、止まっている物であっても自分の視線によって多少狂ってしまって逆に上手くいかない。だからこうやって落ち着いているうちに、先に脳内で写実的に描いてしまうんだ。それを多少アレンジを加えながら現実に生み出す。頭で考えたことを噛み砕いて口に出す会話のプロセスに似ている気がする。これも一種の芸術なのだろうか。


 そうやっている間に絵は完成した。彼女の儚げさを全面に押し出した作品となった。


 顔を上げると僕と同じように完成した絵を見ている彼女に気がついた。


「これ、わたし……?」と初めて彼女の声を聞いた。


 僕が頷くと彼女はスケッチブックを取り上げ、食い入るように見ている。その顔は真剣そのもので咎めることは出来なかった。


「わたしが……居る……」と次に顔を上げると嬉しそうに笑っていた。


 僕は先生になった気分で彼女に絵を教えた。と言っても筆やパレットの使い方ぐらいで技術的なことは教えることは出来ない。それでも初歩的なことを教えるとすぐに絵を描き始めた。


 最初と言うことで落書きみたいな絵になるだろうな、と見守っていると早くも形になっていた。しかも何も見本がないところから生み出せている。彼女には自分が頭に描いたものを特に苦労なく表現できる素質があったんだ。


「すごいじゃないか!」僕は素直にそう言った。


「そ、そう……わたし、すごい?」と何度も訊いてきた。


 僕は彼女の凄さを大人にも知って欲しくて、急いで父さんにその絵を見せた。すると目を見開いた後、彼女をアトリエに連れて行った。


 僕も少し前はあんな風に父さんと一緒にあそこで教えて貰いながら描いていた。でも最近はまったくない。少し羨ましく思いながら見送る。そこで自分の気持ちに、あれ? と思う。


 教えて貰えていた頃も僕は特に楽しいとは思わなかった。描いているときは後ろで父さんに見張られ、父さんの思った通りに筆を運ばなければ、そこから檄を飛ばされ、まるで自分が失敗したかのように悔しそうに地団駄を踏む。あまりに酷いときは添削修正の為に持っている筆を投げつけられる。その後はいつも、父さんは僕に怯えたような目をくれる。目元にべっとりインクが付いた僕を見て。お陰で僕の目玉は少しだけれど赤く着色されている。


 僕の代替である彼女も同じ目に遭ってしまうのではないかと心配になり、2週間後、父さんの更に後ろからこっそり見学することにした。しかし杞憂に終わる。


 父さんは彼女の描く絵にまったく口を出さない。それどころか満足したように頷いている。僕も恐る恐る覗いてみると、絶望した。


 僕はこれでも学校でやっているような絵のコンクールなどは大概一番上の賞を取っていてそれなりの自信があった。そんな僕が図に乗らないように父さんは発破を掛けているんだろうと思っていたんだ。彼女の絵を見るまでは。


 抽象画などの無対象絵画は別にして、絵の善し悪しなんてものは素描さえ整っていれば大抵良く見える。後はセンスと見る人の好みによって変わってくる。だからデッサンの練習ばかりをさせられてきた。素人を騙すにはこれで十分だから賞が取れたんだ。


 しかし彼女の場合は端々に破綻が混ぜ込まれている。つまりデッサンが狂っているのだ。そうなると普通、そのアンバランスさで人を不安にさせるものなのだが、なんの引っかかりもなく嚥下できてしまう。


 これはどういうことなのだろうかと注意深く見てみる。すると絵にどんどん引き込まれていく。僕が評論家を気取って、あれこれ思考を働かせているのを、何故か絵の中にいる僕が嘲笑っている。


 そんなのが絵を見るということなの? それで楽しいの? 昔はどういう気持ちで見ていた?思い出してご覧? ほら、こっちにおいで。――手を差し伸べられた。


 そうして考える力を根こそぎ剥がれて、純粋に絵を楽しむ心を植え付けてくる。半ば強制的に。


 口から苦い味が湧いてくる。足が震えてとても立っていられなくなった。それでも彼女を見る。


 彼女はとても嬉しそうに描いている。それはそうだろうな、あんな絵が描けてしまうなんて楽しくて仕方ないよな。


 父さんが笑っている。それはそうだろうな、あんな才能を見つけられたなんて誇らしくて仕方がないだろうに。


 こうして1人絶望に打ちひしがれている僕は実に惨めだよね。僕が唯一、人以上にできることは全然大したことがなくて特別自慢できることでもなくて、思い上がりだったと、平凡な人間だと悟らせられた。そうすると急に恥ずかしくなって部屋から這って抜け出す。


 積み上げてきた自信は悉く崩される。なんとなく賽の河原を思い出していた。


 僕が必死に練習してようやく積み上がったものを顔が見えない誰かが壊す。彼女ではない、彼女は最後に救いの手を差し伸べる地蔵菩薩なんだ。無駄なことは止めなさい、という言葉を添えて救ってくれる。こうして僕は解放された。


 そんな僕を置き去りにして彼女は成長し続けた。元の家に帰ってからも足繁くアトリエに通い、父さんに経験を教わっている。それが終わった後は毎回僕の部屋に来た。


 嬉しそうに描き上がった絵を見せてくる。僕はそれになんとなく相槌を打ちながらゲームをやっている。すると彼女ももう一つのコントローラーを手に取り、2人用ゲームにカセットを入れ替えられてプレイする。


 彼女はゲームがとても下手くそだった。負ける度に怒りだしてまたやらされる。勝つまでやらされる。ゲーム以外にも勉強も不得意みたいで毎回僕に教えを請うてくる。運動も駄目なようで何かと理由を付けて体育を見学していると話した。料理も駄目だ。僕が料理を作っているのを真似して始めたようだけれど、分量が適当すぎて毎回塩っ辛い。絵を描いているときのあの繊細さは一体どこに行ったんだろう。とにかく彼女は絵以外はてんで駄目なんだ。


 人付き合いだって苦手なんだ。僕と父さんには普通に接することができるのに、他人となると最初にあった頃のように一切その人のことを見ない。彼女は他人を観察すらせず、良いところも悪いところを見ずに、人との関わりを遮断してしまう傾向にある。過去に何かあったとかは聞いていない。ただ彼女は興味があることしか見えないのだろう。


 僕は彼女の興味があった絵を描いていたから見つかったんだ。こうして描かなくなった僕は次第に彼女の眸から消えるんだろう。僕の心情的には一刻も早くそうなって欲しいんだけれど、惜しいという気持ちもある。


 彼女の才能は本物だ。既にプロも参加する賞レースで上位の成績を収めて、その絵には値段が付いた。きっと彼女はどんどん高見へ登っていくだろう。僕はそんな人物と知り合いなんだ。


 あと、彼女はとても美しい。色素が薄いため肌が白く、髪は栗色でそして長く、前髪から覗かせる眸は切れ長。表情は乏しいけれど、そこがなんだか彫刻のようで神々しく感じる。


 なんというか彼女と居ると僕の醜いところが暴かれていく気がするよ。常識的に着なくてはいけないものを身ぐるみ剥がされて、赤裸々となった僕は、今やその辺に落ちている襤褸切れでなんとか凌いでいる状態なんだ。それなのに彼女は気にせず側に居る。訳が分からない。


 そんな彼女は高校を卒業する間際に、TVで紹介され、その容貌と絵に注目が集まった。僕はそんな中で彼女自身の要望もあり、マネージャーになったんだ。


 元々狭い人間関係で生きてきた彼女なのだが更に狭め、人と関わる打ち合わせなどをすべて僕に任せた。メディアに露出する時はどうしようもないので顔を顰めて挑む。彼女が自立して1人暮らししている家に一緒に住まうことにもなり、前より長く同じ時間を過ごすことになった。


 料理が出来ない彼女に変わって食事の用意をしたり、掃除洗濯とほとんど主夫みたいなことをしている。僕が風邪でダウンしたときは、デリバリーも満足に頼めず結局何も食べず絵に没頭したらしい。正直僕に頼りすぎである。


 不思議なことにここまでべったりだとそれが好ましく思えてくるらしく、子どもの時にあった蟠りはいつの間にか溶け、ついでに心までも溶かされてしまった。と言うよりか蟠りの正体は『恋慕』だったのかも知れない。


 僕は人を好きになったことがなかったので大いに悩んでしまう。振られたら気まずくなることも考えられず、思いっきり告白してみよう、そうしよう、と軽いノリでやってしまった。


 絵の才能を褒めたり、容姿が好きだと言ったりしたような記憶がある。よせやい、恥ずかしい。


 そうして何故かOKを貰い、結婚して、娘が生まれて、もう来年で小学生になる始末。


 以上のことから、僕は彼女のことが好きだということが分かるだろう。疑ってんじゃねーぞ。




                   *




 さて、帰って来たのだけれど彼女はまだ部屋に閉じこもったままだ。彼女の意向で全部屋、トイレやシャワルームに至るまで、鍵が付いていないので、扉を引けば彼女の心とは裏腹に簡単に開いてしまうんだ。非情だけれど入らせて貰おう。


 彼女の部屋はベッドと洋服ダンスだけで生活感は薄い。寝て着替えるだけの部屋と言った感じだ。今日のようによく引きこもるのだけれど、こんな殺風景な部屋で何をしているのだろう。妄想?


 そういえば彼女の趣味を僕は知らない。そういう姿勢が彼女を苛立たせたのだろうか。というか僕も趣味なんかねぇ。趣味がなくたって生きていけると思っているからどうしようもないよね。適当にお菓子を摘まむように、その時々に思いついたことをやったり、本当に何もせずに寝転がって人生を振り返ったり、今後起きる暗い出来事を想像したりしている。だから僕の部屋にはいろんな物が置いてあるけれど、本質的にはこの殺風景な部屋と変わらない。究極、部屋にぽつんと冷蔵庫だけ置いて、その駆動音だけを聞きながら過ごせればそれはどんなに素晴らしいことかと思っている。彼女も同じ考え方だったら良いな。この部屋を見る度にこんなことを思ってしまう。


 僕は膨らんだ布団の上に二つ缶を置いた。その二つを掴むために布団から両手が出てくる。二缶掴んでココアの方を僕に向ける。受け取る僕。開ける僕。飲む僕。それを見ながら飲む彼女。


 丁度半分くらい飲んだのも見計らって、彼女は僕のココアを奪い取って、寂しくなった手にブラックコーヒーを収められる。場所が変わってもやること同じのようだ。


 飲むために上半身を起こしている彼女を見る。布団の中が生き苦しかったのか、顔を真っ赤にしておちょぼ口でちびちび飲んでいた。度数の強い酒を呑んでるみたいだなあ。


 僕はというと苦いので顔を顰めながら飲んでいる。その光景を彼女は横目で見ながら目を潤ませていた。どうしたのだろう、甘すぎたのだろうか。気になって見つめているとココアをぶっかけられた。右目が染みたのでその辺りに掛かってしまったのだろう。何故、かけられたのか見当も付かなかったので抗議の目を彼女に向けてみる。


 加害者はというと、何故か怯えたような目をしている。あ、そうだ父さんもよくこんな目をしたいた。やっぱり師弟だから似るものなのだろうか。彼女は血の繋がっている僕より父さんに似ている。特に生活力がないところとか。


 彼女はついに、わぁん、と泣き出してしまった。彼女は震えながら自分の袖で顔に付着したココアを拭きながら、好き、好き、と口の中が甘くなるようなことを言ってくる。


 一通り口を甘くした後、でも、と言う。あなたは好きじゃないんだ、と続ける。


「だって、わたしは、もう、あなたが好きと言ってくれた綺麗な顔じゃないのよ。ほらちゃんと見てよ。右目のところが爛れているでしょ? 気持ち悪いでしょ? 視力も悪くなってまともに絵も描けなくなったしまったのよ。昔から褒めてくれていたじゃない。あれ、凄く嬉しかったな。だから続けられたの。でも、今はそれさえもなくなった。だから、もう、わたしのことなんか好きじゃないんだ。それを思うと立っていられなくなって、座ろうとするのだけど、どれだけ屈んでもお尻が床に付かないの。そのことに気がつくと、確かに足で踏みしめている床も何だか嘘染みてきて、ずぅーと落下している気分なのよ。どれだけ経っても地面に付かないから死ねないし何も出来ない。ずぅーと、飛び降りた後悔と死の希望と恐怖の中で生かされているの。ねぇ、あとどれだけ落下し続けたら地面にたどり着けるの? 死ぬほど痛くて良いから早く地面に会いたいの。あなたならそれが出来るわ。飛び降りたのはわたしだけど、原因はあなたにあるのよ」


「そんなことないよ。ちゃんと好きだよ。でなきゃ、ずっと居ないじゃないか。君に並べた好きな部分はきっかけにしか過ぎないんだ」


「分からない。そんなんじゃ分からないよ」


「君だって、僕のことを好きというとき容姿や行動を論ったりするじゃないか。やれ、格好いいだとか、料理がうまいだとかね。想像して欲しい。逆の立場に立って欲しい。その好きな部分が根こそぎなくなって、君のように顔に火傷を負ったり、味覚障害で不味い料理しか作れなくなって、後は特に気にしない普通な部分と、嫌いな部分だけが残ったら、好きじゃなくなったりするのかい?」



 僕は自分の顔にシーツを巻き付ける。「ほら少なくとも格好良くはないだろう」



「それはないわ。だってあなたであることには変わりないじゃない」



 彼女もシーツを巻き付けたようで、擦れる音が聞こえる。



「そう、変わらないんだ。確かに恋をしたのはその部分かも知れない。そこから君を知って、人間的に好ましいところも、そうでないこともたくさん知っていった。それに加えて一緒に過ごした思い出もある。恋は知ろうとするきっかけなんじゃないかと思う。そうしてすべて知った上で僕らは何もかも認め合うんだ。君はどうかは知らないけれど、僕はとっくにその覚悟はあるよ」


「うそよ。わたしだって自覚しているの。わたしには容姿と絵描きぐらいしか価値がなくて、それ以外はクズだってことを。どうしようもなくて醜くて化け物染みてて、自分ですら愛せない部分を、況してや他人が愛せる訳ないじゃない!」


「僕は出来ると言ったんだ。君はどうなんだい?」


「そんなの簡単よ。だってあなたに嫌いな所なんてないもの。いつだってわたしが勝手に苛立って、嫉妬して、不貞腐れて、怒ってるだけだもん。全部わたしのせいだよ。自分の娘に嫉妬するなんて思ってもみなかった。とにかくわたしは苦手なの。表現することが、とっても苦手!」


「え、だってあんなに感情の籠もった凄まじい絵を描くのに」


「だからわたしには絵しかなかったの。幼い頃のわたしを見たでしょ。何も喋らなくて変な行動をしてたでしょ。あれは頭の中に溢れ続ける感情の処理が出来なくて、放置していたの。だからどれが今感じて芽吹いた感情なのかが分からなくて、哀しいときに笑ってみたりとか、面白いときに怒ってみたりとかとにかくチグハグで可笑しな目で見られてね。だから感情を掬い取ることを止めたの。だからずっと無表情だったのよ。でも、あなたが描いたわたしを見てね。この絵の中に居る私の気持ちが手に取るように分かったの。なんて哀しそうにしているのだろうって」


「あれは、結構誇張して描いたんだけれど、確かにそう感じて絵にしてみたんだよね」


「うん、それでやってみたくなっちゃったの。わたしの複雑な感情を読み取って、描いてくれたあなたに憧れてね。わたしの感情の素は、話すとか表情に出すとか文字にするとかより絵の方が近くて、やっと自分を表現出来るようになって嬉しかったなあ。だから絵で対話しようとあなたによく見せたりもしたわね」


「そうだったんだ。なんだか照れるなあ」


「止めちゃったけど、あなたの絵大好きなのよ?」


「いや、あんな絵を見せられた後に描けるほど肝は据わってないよ」


「そう? あなたの絵に比べたら私の絵なんてクソよ。いつになってもあなたを追っかけてる」


「あはは……てか、今の話を聞いていると絵を描くことが感情表現だから、描けないことでストレスとか溜まってしまわないの? てか、溜まっているからそんなこと考えてしまうんだよ」


「確かに、そうかも知れないわ……。上手く描けなくても根気良く続けるしかないのかしら」


「息を吸うのが厭でも、止めるわけにはいけないからね」


「確かにそんな感じよね。わたしにとって絵は」



 彼女が撓垂れ掛かってくるような感触がする。やっぱり見えないと不便だけれど、そこに居るのが彼女だと思えば不思議と不安はない。



「でも、それ以上に大切なものがあるの」


「呼吸より大切なものってあるのかな」


「地面よ、わたしには翼がないからとっても大切」


「ああ、これからも尻に敷かれることを暗示しているのだろうか」


「何言ってるのよ」



 僕らは服を着た獣となって唇を求め合った。何度も何度も。



「愛してるよ」


「わたしも、愛してる」




 恋の終わり、愛の始まり――

                    (ルネ・マグリット『恋人たち』より)

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