11 調香術師の家

 物音のしない家に足を踏み入れた。


 本当にあれから掃除をしてくれたらしい。

 水拭きの匂いと、家具を磨いたワックスの匂いが残っている。

 ローザハウスでは胡桃油と蜜蝋に少しの蒸留酒を加えてワックスを作っていたけれど、この家のレシピは違うようだ。


 正面の扉を入ってすぐ、小さなホールの右側に、二階に上がる階段がある。

 階段の下にひとまず荷物を置いた。

  

「まずは一階」


 一階が工房で、二階が私室だと聞いている。


 入ってすぐの部屋は、どうやら応接間のようだ。

 壁には暖炉、ソファー、椅子、小テーブルがある。

 思った通りだ。木の家具には磨き上げたばかりの艶がある。


 その部屋の奥には扉があって、続きの間があった。

 こちらの部屋の方が、家具の装飾が多い。


「ここも応接間? あー、あっちは従者や護衛の待合室かも」


 そういう付き合いが必要になるということだろう。


 ホールに戻り、今度は正面奥の扉を開けた。


「おおーっ!」


 工房だ。

 だが、カミーユにしては珍しいことに、扉を開けて真っ先に気にしたのは中の様子ではなく、窓の外に広がる青だった。


 正面の窓から海が見える。

 その横にある扉から裏庭に出られるようだ。

 裏庭の向こうも、海に向かって下降するように野原が続くのが見える。

 左側の窓からは、昨日到着した港が見えた。

 

「ほんっと夢の工房じゃない? ここ」


 窓からの眺めには見惚れるばかりだ。

 もっと堪能したいが、アルバンが迎えに来る前に家じゅうの確認を済ませないとならない。


 調香術師の工房には、大がかりな設備は必要としない。

 香りという、空中に漂う繊細なものを扱うので、悪臭や刺激臭から離れるといった、環境には気を遣うが。

 ドリス術師の工房も、調香用の作業机と香料用の戸棚があったぐらいだ。

 この工房はそれに比べるとかなり広い。

 部屋の真ん中に大きな作業机。そして壁際にも作業台が並んでいる。

 仰々しい飾りのついた家具ではないが、使い込まれ、磨かれた作業机に、亡き人の人柄が偲ばれるようだ。

 カミーユは真ん中の作業机を撫でた。


「自分には似合わねえって言いながら家じゅうを手入れして、きっと大切な城だったんだろうな。……それに、これだけ広いスペースがあるってことは、珍しく、私と同じ原料から触りたいタイプだったのかも?」


 その質問をできないことが、本当に残念だ。ぜひ会って話をしてみたかった。

 

 一つ不思議なのは、この部屋には収納がない。

 

「こっち?」


 脇の部屋を覗けば、当たりだ。

 小部屋には、今はすべて空だが、壁一面に戸棚が設えてあった。


「イエス! 並べほうだいっ!」


 カミーユのテンションが上がったのは間違いなかった。



 二階の海側には、寝室と浴室が並んでいる。


「海は東だから、ここでは朝日に起こされるんだね! 夜更かし注意っと」


 家の玄関側はダイニングキッチンと、寝落ちるのにぴったりなソファーが置いてある居間があった。


 カミーユは首をひねった。

 どうも新品のような気がする。


 工房と待合室、それからダイニングの家具は元からあった物だと思うが、ソファーやベッドは新しいように見える。ワックスの匂いもしない。


「ギルドが入れたとか……?」


 少し見て回っただけでも、すぐにも生活できるように整えられていた。

 家具が入っているのはもちろん、各部屋と廊下用に十分な光鉱石。キッチンのストーブには火魔石。浴室と厨房の水魔石。そしてなんと冷蔵庫があって、氷魔石まで備わっていた。


 ありがたいのだ。本当に。

 でも、この街のカミーユに対する期待の表れだと思うと、重い。

 かなり重い。


「応えられるように、頑張るしかないか」


 必要なのは食品。

 仕事道具は持ってきたもので、とりあえずなんとかなりそうだ。

 ローザハウスに残したものをクローヴァーに送ってもらえば、次の花摘みまで香料も間に合うだろう。


「あ、香水瓶やなんかは、早急に数を用意してもらわないと」


 カミーユは荷物からメモを引っ張り出して、必要なものを書き出した。


 家の確認が済むと、カミーユは持ってきた調香道具をすべて工房に並べた。

 今から作業すれば、買い出しのついでにギルドに納められるだろう。


「教会の奉納香に困るほどだとは、思ってもなかったよ」


 プリムローズの様子だと、早い方がいいに決まっていた。




 ◇




 今朝のことだ。



「えっ? 調香術師ギルドがない⁉」


 高等学院と調香術師ギルドに研修開始の連絡をしないとならない。

 プリムローズに場所を尋ねると、ありえないことを聞いたのだ。

 小さな街にギルドがないことはあるだろう。

 でも、ここは辺境伯領の領都だ。調香術師ギルドがないとは思ってもみなかった。


 プリムローズが頷いた。


「十年程前だったかな。ギルド職員の一人が流行り病で亡くなってね。あの時はここだけじゃなく、どこもひどい状況だったけど、他の職員も逃げ出すようにいなくなった。辺境では治療もままならないってさ。それ以来、職員が派遣されることもなく、商業ギルドが代行になったままだね」


 ひどい話だ。


「調香術師もギルド職員も派遣されないなんて。国中を香りで満たすっていう役目はどうしたのか」

「全くだよ。ここは聖なるアルタシルヴァの山々から一番近いっていうのにさ。まあ、そんなわけだ。必要なものがあれば、遠慮なくうちに言ってくれればいい」

 

 要請があってもなぜ調香術師が来たがらないのか、理解できた。

 この土地ではギルドのサポートが得にくいからだ。

 王都の調香術師ギルドは、成手なりてのいないポストにカミーユが就任してちょうどいいぐらいに思うかもしれない。高等学院の研修担当者やリリローザは、ザマアミロとでも思うんじゃないだろうか。


「基本的なことは商業ギルドで代行できるから、心配はいらないよ。カミーユの手紙はうちの許可印付きで、王都の調香術師ギルド本部に送ることになるだろうね。高等学院へは直接手紙を送ってくれてかまわない。……ああ、至急でなければ、定期船で運ぶからね。こちらからは、十日、二十日、三十日の、月三回。どうしても待ち時間は出てしまうけど、その分安い。次は、三日後の三十日だね」

「わかりました。それに載せます。来月から研修開始でしたから、ちょうどいいです」


 プリムローズが申し訳なさそうな顔をした。


「来たばかりですまないが、工房が整ったら依頼したい香水がいくつかある。なかでも大至急なのが、奉納香」


 カミーユが息を呑んだ。


「私が奉納香を担当していいんですか⁉」


 奉納香は、その地域でトップクラスの調香術師が、領主の認可を受けて作成する香水だ。王都では王城が承認する。


「他に担当できる術師がいないよ。今は隣領から買っているけれど、それでも領内の教会すべてを香りで満たすとはいかなくて」


 プリムローズが肩をすくめる。


「そう。そうでしたね……」

 

 そういう状況だからカミーユに研修の機会が回ってきたのだ。

 奉納香の作成なんて、何年も調香術師として精進して、それでもチャンスがあるかわからない。


「やります。がんばります」


 この機会を逃すわけがなかった。

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