スープを飲みに行った話

志村麦穂

スープを飲みに行った話

 その日は金曜で、取引先との付き合いで食事へ連れて行ってもらったときのことだった。私は関西支社の出向が長引いて、気付けば半月、一年と。ほとんど単身赴任といって差し支えない状態だった。碌に返事を返さなくなった妻からの通知が来た画面を暗くして、そこに映った木屋町の明りに眼を細めた。

 一件目は品と恰幅のいい上役との会食で、自分では敷居をまたげそうにない祇園の料亭で、付け合わせに天つゆもマヨネーズも出さない天ぷらだった。ひと揚げで一枚飛んでいくのではないかという心配で、味わう暇もありはしなかった。会食が終わると気を利かせてくれた相手方が、気兼ねなく飲めるチェーンの居酒屋を二件目に入れてくれていた。

 朝方の、カラスに食い散らかされた生ごみ臭のする猥雑な空気が喉から流れ込み、人生の格を側溝に吐いた痰と同等に引き下げてくれる雑味なナマ。疑問や理不尽、給与額の上下、安い頭、退屈に金、生活。それらすべてが呑んでは消える白い泡。記憶と共に弾けて無価値になるこの瞬間にこそ生の実感がある。

 お互い何を話したかも忘れて、ネクタイとベルトが十分に緩み切ったころ時間は日を跨ぐ。この頃は時間の感覚も曖昧で、昼と夜はカクテルのように混ざり合い、三年前と昨日の区別もつかない。月日はスケジュールを開いた時にだけ現れる勤勉な幻で、伸縮自在の時計の針は理容室で長さを整えてもらっていた。

「じゃあ、〆にスープいきましょうか」

「スープ、ですか?」

「最近じゃあ、スープバーというのがあるそうじゃないですか」

 相手方の阪田という男が、我々を先導して革靴を擦り出した。阪田は我々が共同で行っている企画の責任者という立場で、腹も顔も脂ぎった四十過ぎ。打ち合わせや現場に顔を出したことはないが、こうした会食や全体の音頭をとる場面では現れる。激励という名の空虚な長話を披露するほかに仕事はないが、最終決定を下す上役との潤滑油である。その点で言えば現場で酷使される優秀な社員よりも貴重な存在だといえた。多少の無理や融通を通す場面には必要な人材だ。阪田に気分よく回させることも仕事の一つには違いない。

 阪田はこなれた足取りで、不規則に小路を折れ曲がる。さすがにこの時間ともなると呑み屋と風俗のほかはシャッターを下ろしている。木屋町からおおよそ西へ進み、河原町通りを越えて新京極あたりまでやってきたところで、阪田はアーケードに並んだ店舗の隙間にある御堂へと入って行く。地蔵の並ぶ堂内を横目に、明らかな私有地を迷いなく突き進んでいく。さすがに地元人で、近道なのだろうと酔いのまわった頭では疑問にも思わない。

「ここらへんはお寺さんが多いでしょう? 江戸のころは、河原町ゆうたら処刑場やったらしいですね。鴨川も洛外との境で、魔界なんちゅうスポットもありますわな」

 今でこそ華やかな繁華街だが、京の都には不穏な怪談が転がっている。なんて話は少し年のいった上司と呑むときなんかにはよく聞かされる。こちらがよそ者だと知れば、なおのこと話題として持ち出しやすいのだろう。共通点の薄っぺらい趣味の話をされるよりはマシではあった。私は野球やギャンブルに興味がなく、ゴルフも付き合い以上の経験はない。酒は飲むだけでこだわりはなく、話せるようなことはひとつもない。

 学生時代はつまらないとなじられることも多かったが、黙って相槌だけ打っていれば不思議と聞き上手に間違えられることもあった。予想以上に気に入られることがあり、会食や付き合いの呑み会は、退屈を除いてそれほど苦ではない。仕事と割り切れるだけ、ひたすら共感と同調を求められる学生時分の呑み会よりは無駄を感じなくて済んでいた。

「本当にこの道ですか?」

 眼前に現れた地下へと続く階段を前に、ようやっと多少頭が冴えてきた。看板もなにも表に掲げられていない古ぼけた煉瓦のアーチ。階段はすり減り、ラーメン屋の床並みに滑りやすい。階下には寝起きの二日酔いたちを鮨詰めにでもしてあるのか、吹き上げる生ぬるい風は酷い臭いだ。

「はは、はじめてのひとは、みぃんなびっくりするんだよねぇ」

 その顔が見たかったんだと、豪放な上戸の笑いを響かせる。

 阪田に続き、にわかに緊張しながら階段を下りていくと、ライブハウスじみた肉厚な防音扉が構えていた。店内は薄暗く、低い天井には鍋から蒸発した水分が濛々と溜まっており息苦しいぐらい。カウンター席のみですれ違いも難儀する狭苦しい広さのなかに、十数人の人間がひしめき合っていた。

 異様な大きさの鍋が中央に鎮座し、山形の芋煮会でみた大鍋を思い出した。客層は脂ぎったサラリーマンから水商売風の年波に草臥れ始めた女、京都では至る所で目にする大学生と幅広い。一様に笑いも喋りもせず、一心に鍋の中身を凝視していた。

 我々もリーマンの肉団子じみた分厚い腹を押しのけて、僅かに開いた席の隙間に身体をねじ込ませる。両脇をみっちりと肉詰めされ、隣客の汗と蒸気で蒸し暑く、不快指数ばかりがあがっていった。

 鬱陶しいぐらいの湯気のなか、木べらでかき混ぜる腕だけがぬっと宙に浮いているかのようだ。カートゥーンの男らしさを強調しすぎた、はち切れそうな前腕に眉を顰める。そうしていると、目の前でぶつ切りにされた具材が放り込まれ、一時的に鍋の沸騰が大人しくなる。靄が晴れるぞ、と覗いた鍋の水面。そこには新しい地獄が鍋の縁いっぱいに広がっていた。

 血の池地獄だ。淀んた灰色の灰汁が廻る溶岩が、重苦しく対流している。

「なんです、これは」

 真っ赤に染まった鍋を睨んで阪田に耳打ちする。うだるような蒸し暑さのなか、激辛は相性最悪だった。熱をもって暑さを制するなんてむさ苦しい思考、都会人のエゴの煮凝りだ。

「はは、そう心配せんでも。びぃ~つですよ、びぃ~つ。ほら、ボルシチなんかもそうでしょう。色素がようけでて真っ赤になるんですわ」

 妙な節回しのせいで、野菜のビーツだと気が付くのに時間を要した。阪田の口車に乗せられているだけで、ゲテモノを食わされるのではないか、という疑念が立ち上がる。胡散臭い飯屋だ。スープバーなんて横文字で名乗るほどしゃれた店じゃない。

 隣の肥えた客が「おぉッ」と吼えて腰を浮かす。肩も腹も接触する狭さでの行為に、舌打ちが出そうだった。客は眼鏡を曇らせ、はぁフはぁフと荒げた息に、獣臭い汗を滴らせる。典型的な不快指数の高い中年リーマン。やけに興奮した様子で、キッチンを覗き込む。つられて視線をやると、まな板の上には赤くゆで上がった赤ん坊が寝かされていた。

 生まれたばかりのようなふやけた脆い肌。生えそろっていない髪はぺったりと頭皮に張りついて、手足を縮こめて丸くなる様は死んだ昆虫を連想させた。今にも泣き出しそうな、赤くぶくぶくしたフォルムに、生理的嫌悪が湧きあがる。

「さ、阪田さん、本物じゃあないでしょう?」

「高麗人参ゆうもんを知りませんか。ありゃ、股が分かれてひとの形をしとるそうでしょう。最近じゃあ、たぁだ野菜を売るもの難しいゆうことで、色々工夫されます。根菜なんかは型にはめると、そのとぉーりに育つんですわ。盆栽なんかと同じことですね。バズ、ゆうんでしょう? 小手先ぃとゆう人もいます。私らなんかは広告事業も関わっとりますから、まずは知ってもらわにゃならんと思うんですわ」

 あれが人参や大根にみえるというのか。母親の胎から取り出したばかりのようではないか。阪田の言葉に眉をひそめている間にも、根菜赤子はぶつ切りにされて、ざぶざぶと血の池鍋に放り込まれた。鳴き声こそあげなかったが、切られた断面からは赤や桃、くすんだ黄土色の汚泥が垂れているようにみえた。

 鍋が煮立ち、とろみのついた重たい泡が膨らんでは弾けるを繰り返す。

「さぁ、食べごろですよぉ」

 椀に注いで渡されるのかと思えば、一抱えもある玉杓子ですくい上げ回し飲みする形式だった。ボタボタとこぼし、唇を脂ぎらせて飲む水商売の年増。口紅がべったりと塗られ、嫌悪感を煽った。隣のも下品に啜りたててスープを飲み乾す。玉杓子は鍋に戻り、血みどろのスープを満たして差し出される。

「ぐっと、ぐっと、いきましょう」

 受け取ったスープには、飲み乾すには大きすぎる具材たちが浮かんでいる。先ほどの根菜赤子など、右手が煮え切らずに形を留めたままだ。直に口を付けるのもためらわれる。到底うまそうには思えない。しかし、右も左も客で肉詰めされた地下空間。ごねて逃げ出すこともできない。妥協案を考えあぐねたあげく、具材のひとつを摘まんで口へと放り込むことにする。火傷しそうな熱量を保持した円い地獄から、鶏卵のゆで卵らしきものを救い出す。

 えいやっと前歯に挟んでひとおもいに噛む。ゆで卵のほろリと崩れる黄身を想像していたら、軟骨のような歯ごたえに加え、舌や口内に触る節がある。慌てて残りの半分を掌に出す。そこには両生類と稚魚のあいの子らしき見た目の生物が、できかけのまま煮られて固まっていた。

「ほぉ、それは当たりですなぁ」

「なんです? ひどい味だ」

 吐き気を堪えながら、しかし吐き出すのはあまりにマナーが悪いと、もっともらしい良心に従って赤い汁で半煮えの幼体を飲み込む。スープも生臭さが先だって、口から鼻を窒息させようとする。酒盗のクセを、悪い方向へ引き延ばし、雑菌塗れで腐敗させてしまったような。とにかく、内臓や腐敗や生臭さ、食べ物で嫌われる生き物臭さが前面に押し出されたスープに堪えるのも必至だった。

「バロットですよ。といっても、アヒルなんかじゃありませんけどねぇ。もっといいものでしょう」

 阪田は私から受け取った玉杓子をぐいっと飲むと、御代わりを要求する。根菜赤子も、何かの生煮え卵も苦もなく咀嚼する。癖の強さを楽しむように、口の中で回し時間をかけて嚥下した。ひとしきり味わうと満足したのか、馴れ馴れしく私の肩に手を置いた。

「いやぁ、飲みましたな。そういえば奥さんがいらっしゃるのでしたねぇ。遅くまで付き合わせてしまい申し訳ない。早く帰って安心させてあげなさい。若いころの不満が、年をとってから爆発したりするもので。はは、まさに人間地雷だ。女のひとはこわぁいですよぉ」

 地下を抜けるとタクシーが付けており、外の空気に息を吹き返した。思い返しても、ひたすら不快な店だった。胃液と血の汁が体内で対流をなし、ぐるぐると機嫌の悪い唸りが胃腸から聞こえる。

「それでは、お疲れさまでした」

 最低限の挨拶だけ交わし、朝方になりつつある夜道に家路を急いだ。

「はは、恨みっこなしでお願いしますよぉ。私らも仕事ですからねぇ」

 別れ際、阪田の残した不可解な台詞は、気持ち悪さにあえぐ私にとってどうでもよいものだった。

 マンションの扉で鍵を探すのももどかしく、夜中にも関わらずインターホンの連打に、着信を鳴らして開けさせようとする。

「チッ、寝てんのか」

 仕方なく鞄をひっくり返し、鍵をみつけて玄関を踏む。

 はじめ、廊下に充満した異臭に、自分の体臭を疑った。あのスープバーから生臭さを引き連れてきてしまったのかと思ったのだ。しかし、匂いの発生源は家のなかにあるらしい。進むごとに瘴気は濃さを増し、事態の異様さに眼が冴える。

「おい、おいッ! いないのか?」

 疑ったのはガス漏れだ。自殺なんて図るはずもないが、大事になれば面倒だ。リビングに続く扉をひらいた先に、あかい、あかい、血の池地獄をみた。

 彼女が腹を抑えて倒れている。股から血を流し、マットレスが黒ずんでいる。うっすらと意識があるらしく、泣き枯らした声で譫言を呟く。

「男の子と、女の子。経過は順調ですよぉ……女の子、の方がねぇ、すこぉし遅いですけれど、すぐにおぉきくなりますからねぇ」

 手に握ったスマホが震える。すぐに止まる。震える。すぐに止まる。震える――。

 画面の着信履歴は数十件。メッセージは百件を超えたあたりで開かなくなった。

 震える。通話を押した。

「もしもし――」

『あ、もしもし? こっちは経過順調よ。もうすぐ予定日だから、はやく帰ってきくれると嬉しいな』

「……ああ」

『愛してるよ』

 数か月ぶりに聞く、妻の声がした。

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スープを飲みに行った話 志村麦穂 @baku-shimura

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