三蔵を食べたい

みかみ

第1話 三蔵を食べたい

 薄い胡服こふくをまとっただけの全身にぶつかってくる雪粒の冷たさ。それに加え、若い女の悲鳴にも似た暴風雪の音に、心まで凍てつきそうになる。


 今、沙羅しゃらが頼れるのは視覚だけだった。故に、微かな変化も見逃してはならない。


 黒目がちの瞳をふちどる長い睫毛に、容赦なく雪が降り積もる。沙羅はそれを、何度もこすって落とした。

 白い砂漠のような雪景色に、目を凝らす。

 積雪の表面を探せば探すほど、十代の終わりにさしかかる白面が険しくなった。


 十里先の煙の香を嗅ぎわける自慢の鼻は、今は利かない。側頭部に結ったお団子が解けそうなほどの強風に、全ての匂いがかっ攫われてしまうからだ。


 耳も利かない。普段ならば容易に耳に届いてくるあの男の血潮の音を、吹雪がかき消すからだ。


 刻一刻と、限界が迫っている。


 人間は弱い。雪崩にのまれれば、空気を確保していたとしても半時(一時間)、もつかどうか。


「馬鹿な奴ら! いくら早く峠超えしたいからって、こんな日に動くなんて」


 吐き捨てた言葉には、生死を分ける判断を誤ったキャラバン隊に対する、苛立ちがこもっていた。


 数日の日照の後、唐の高僧を連れた旅の一行は、まさかの大吹雪に見舞われた。


 本来なら吹雪いてきた時点で、昨夜の陣営まで後退するべきだったのだ。しかし、氷を寝床にする厳しい雪山超えが続く中で、重い凍傷を患う者が続出。牛馬も弱り、気が焦っていたのだろう。隊は前進した。そして、雪崩に巻き込まれたのだ。


 滑ったのは表層の雪ではなかった。重く固まった底の層から一気に、津波の如き雪崩がキャラバンを襲ったのだ。


 飲み込まれたのは、馬三頭と、人間が二人。その二人とは、高昌トルファンから随行する沙弥しゃみ(正式な僧侶になる前の雑用係)と、キャラバン隊が守り従う、唐の高僧、玄奘げんじょうだった。


「おーい!」


 他の仲間や、難を逃れたキャラバンと同じように、沙羅は、雪崩に飲み込まれた二人を探した。

 自分の仲間である三バカも、『おっしょさーん!』と呼びながら必死に捜索しているに違いない、と思いながら。


 沙羅は三人のように、玄奘を『おっしょさん』とは呼ばない。弟子でないからだ。そしてこれからも多分、自分は彼を『師匠』とは呼ばないだろうと確信している。


「おっしょさーん! どこだよぉー! いたら返事してくれよー! いないなら居ないって言ってくれぇー!」


 涙まじりの叫び声が、西の方角から微かに聞こえた。黒豚の化け物のものだとすぐに分った。


 ―― あのアホは緊急事態でもアホね。知ってたけど。


 沙羅は小さく舌打ちすると、両手を口にあてて再び大声で呼んだ。


「おーい! どこにいるのー!」


 しかしその呼び声も、風の音にかき消された。吹雪は強くなる一方だ。


 後ろに垂らした長い黒髪が前に吹き流され、視界が遮られた。

 ただでさえぼやけている視界が、余計に悪くなる。苛立った沙羅は、唸って髪を払い戻した。


 ふと、前方に茶色い塊が動いた気がした。目を細めてよく見ると、雪崩に巻き込まれた馬の一頭だと判別できた。


 沙羅は急いで駆け寄ると、両手で雪を掻いてどかせた。


 胴体の八割ほど掘り出せた所で、手綱を引いて立たせた。しかし、馬は嘶きを上げると、また横に倒れ込んでしまった。

 不審に思って足元に目をやると、馬の前脚あたりの積雪が、真っ赤に染まっていた。

 左官(左前脚の下の方)に開放骨折。血に濡れた茶色い毛並みを、骨の白色が内側から貫いていた。


 これでは、もう歩けまい。息があるのは残酷なだけだった。


 沙羅は瞼を伏せてため息をつくと、馬の頭の方へ移動し、跪いた。自分の胴周りより太い首を両手で抱え上げ、しっとり濡れた首筋を優しく叩く。


「よしよし。よく頑張った」


 ふっ、ふっ、ふっ、というハミ(馬の口に含ませ手綱の力を伝える馬具)の奥から吐き出される荒い息使いは、『痛い』と『怖い』と訴えていた。吹き付ける雪つぶてを瞬時に溶かしてしまえるほどの温かな首筋は、大木のように固く緊張していた。

 

 目はあえて合わせなかった。そこまでの肝の太さは、沙羅は持ち合わせていなかった。


 沙羅と同じ体格をした人間の娘であれば、間違いなく非力だ。本来なら、馬の頭部など持ち上げられないだろう。

 しかし、沙羅は妖怪だった。沙羅はその華奢な体幹と細腕の間に、馬の太い首を抱いて一度しっかり固定すると、間をおかず、自分の腹に向かって、一気に腕に力を込めた。


 次の瞬間、馬の首がぼきりと鳴る。


 沙羅は馬が息絶えたのを感じると、へし折った首を、雪の上に横たえた。


 馬に構っていた分、時間をくってしまった。


 沙羅はまた立ち上がると、高僧が雪の下に消えたポイントを探して、視線を巡らせる。


三蔵さんぞう―!」


 見渡しながら、叫んだ。


『人違いでは? 私は、三蔵ではありませんので』


 ふと、初めて会った時の会話が、沙羅の脳裏に蘇った。


 こっちの玄奘はまだ、帝から『三蔵』の僧官を得ていなかった。あっちの玄奘は唐を出立する前に、既に『三蔵法師』となっていたのだが。


 あっちの世界では、天界でも妖魔の間でも『三蔵法師』で通っていたし、外見はあっちもこっちも大差ない。故に、沙羅は呼び名を改めるのに苦労していた。


 悟空達とて同じである。彼らにとって真の師匠は、あっちの三蔵法師であって、こっちの法師ではない。しかし彼らは同じように、玄奘を『おっしょさん』と呼ぶのだ。


 呼び方を変えたところで返事が来るとは思えなかったが、巷でよく使われている呼び名にしてみた。


「尊師!」


 ――いや、尊師は違うか。


 口にしてから、沙羅は首を横に振った。

 沙羅をはじめとする妖魔にとって、宗教の師などは尊ぶに値しない。仏像や経典も同様だ。特に、般若心経は嫌いだった。経典に触れると火傷をするし、読経されると頭痛がするからだ。


「法師! 玄奘法師! お坊様! 坊主!」


 もう何でもいい。要は、声が届きさえすればいい。沙羅は思いつく限り、玄奘に相当する呼び名を並べ立てた。

 そして最後に、


「肉―!」


 と叫んだ。


 その時、凸凹した斜面が一部、わずかに盛り上がったように見えた。

 

 動いた部分を見失わないよう注視しながら、沙羅は斜面を駆け登った。

 足元に視線を落とせないので、途中何度も積雪に足をとられた。時には腿まではまりながら、もがくように進む。


 ようやく目的の場所に辿り着いた沙羅が見つけたものは、菩提樹ぼだいじゅの実で作られた数珠じゅずを掴んだ、手だった。

 聞き慣れた血潮の音が、沙羅の耳に届いた。


 掘り返すと、精悍な顔立ちをした若い僧が現れた。

 玄奘である。気を失っている様子で、冷え切って顔色は青白いが、息があった。


「ご、悟空! 八戒! 悟じょ――」


 とっさに三人を呼ぼうとしたが、ハッとなって口をつぐんだ。


 三蔵法師を食べるなら、今だ。


 沙羅が玄奘に最初にかぶりついた時。つまり、涼州りょうしゅうを出た頃の玄奘法師は、酷い栄養失調と疲労状態だった。故に、血は臭く肉もスカスカのガチガチで、喰えたものではなかったのだ。

 しかし、ゴビ砂漠を越えた後の玄奘は、行く先々で歓迎され、滋養ができた。食べ物や人員も支給されたお陰で、粗食ではあるものの、最低限の水と栄養は足りる生活が続いていた。


 久しぶりに見た玄奘の顔は、最初に会った時に比べて明らかに丸みを帯びており、頬のこけ具合も、幾分マシになっていた。


 天竺てんじく (インド)に辿りつくまで、体を酷使する生活は変わらない。しかし、確実に体内環境は改善されており、激マズの域は脱したはずだと沙羅は確信した。


 今すぐ、こいつをこっそり連れて逃げて、洞窟かどこかに隠れてしまえば、簡単に喰ってしまえる。


 こいつを喰えば、自分だけでも、あっちの世界へ帰る事が出来る。

 この世界は、元いた世界と双子のようだけれど、妖術も満足に使えない不自由な場所だ。

 元の世界は、天界が近い煩わしさはあるが、妖術が使いやすく、身体も軽い。何より、病気の母と妹が待っている。稼ぎ頭の自分がいなくては、二人は生きてゆけない。


 沙羅の心に、甘い囁きが聞こえた。


 もう、食べちゃえ。


 己の声だった。


 これまで協力関係を築いてきた悟空達を裏切る事にはなるが、これまで共闘してきたのは、利害関係が一致していたからに過ぎない。

 あの三人のように、玄奘が天竺に到着するまでの見守り役を、沙羅は天界から仰せつかったわけではない。

 三蔵法師を通じて義兄弟になった三人ように、確固たる絆があるわけでもない。


―― そうよ。大体あたし、これまでよくやったじゃないの。


 沙羅は、こっちの世界に飛ばされてからの苦労を思い出し、自分を褒めてやりたくなった。


 牛魔王ぎゅうまおうの妖術の影響を真っ先に受け、こちらの世界に飛ばされたのは、自分が妖魔として弱い故だ。

 牛魔王率いる妖魔軍団の、『火付け番』などという役職。自分が下っ端の下っ端なのは、自覚している。


 そんな自分が、妖術の殆どを落っことしてきてしまった三バカと共に、牛魔王がこっちの世界に送りこんできた妖魔どもと戦い、こっちの三蔵である玄奘の旅路を助け続けた。逆に、玄奘に助けられた事も多々あるが。


―― このままあいつらと一緒にいたら、最終的には牛魔王との対決まで手助けしなきゃならなくなるんじゃないの? 流石にあたし、死んじゃうわよ。


 ここら辺が潮時ではないだろうか。


 沙羅は、ごくりと唾を呑んだ。

 人肉など、何年ぶりだろう。しかも、菜食を極めた若い僧侶の肉。美味くないわけがない。


 お腹もすいている。喉も乾いている。


 正直、食べたい。ものすごく食べたい。血をすすり、肉を噛みちぎり、内臓を味わい、骨を奥歯で砕きたい。


 牛魔王にかけられた術は、三蔵を食べるか悟空を殺せ、という課題である。

 不死身の悟空を下っ端妖魔である自分が倒すなど、到底無理な話なので、三蔵を食べるしか方法は無かった。


―― あたしがこいつを食べれば、悟空達だってお役御免になるんじゃないの? むしろ願ったり叶ったりじゃない。


 沙羅は、艱難辛苦の旅路を歩み続けてきた目の前の僧侶を、今ここで食べる事に決めた。


 舌舐めずりをしたのは、無意識だった。犬の妖魔である彼女の口から、鋭い犬歯が覗いた。


 死んでしまうと不味くなる。生きているうちに食べなければ。


 沙羅は玄奘の首筋に白い指先を這わせ、動脈を探った。

 肉の下で緩やかに脈打つものを見つけると、花弁のような口を上下に大きく広げ、そこに向かって身をかがめた。


 そして、乳白色の牙が血の気の引いた首筋に届こうとした、その時。


「しゃら?」


 玄奘が目を覚ました。


 沙羅は口を開けたまま、硬直した。


 心臓が強く拍動するとともに、食欲に支配されていた頭が冷めていった。沙羅は悪戯いたずらの最中に見つかった子供のように眼球を上下左右にせわしなく動かしてから、ようやく口を閉じた。


 しかし、自分が喰おうとしていた相手の顔を見る事はできず、首筋を前に身をかがめたまま、動けずにいた。


「また、助けられましたね……」


 沙羅の耳に、掠れた声が届いた。


「私は、大丈夫です。どうか、他に埋もれた者を……お願い、します」


 こっちの三蔵法師らしい、気高い言葉だった。


 沙羅がいた世界の三蔵法師は、志は高くあったものの、妖怪に誘拐されてはめそめそと涙を流しながら悟空の助けを待ち、弟子なしでは飯の用意もままならない、弱い男だった。

 今のように、死を目前にしながら他の者を気遣うなど、あの三蔵にできようか――。


 玄奘を食べたい。この美しい男の血肉を、一滴一欠片たりとも残さず味わい尽くし、自分の糧にしてしまいたい。  

 しかし、体が無くなった後、この男の高潔な精神はどこに行ってしまうのだろう?

 沙羅は考えた。

 血肉とともに、自分の中に取り込まれるのだろうか。それとも荒れ狂う風雪に吹き飛ばされ、消えてしまうのだろうか。つい先程、冥土に送った馬のように、あっけなく。

 どちらにせよ、肉体を失った心は、彼が目指している場所に辿り着く事はできないのだ。

 玄奘三蔵を食べたい。しかし、彼の心が消え失せ、志が潰えるのは我慢ならない。


「……天竺は、あんたにこそ相応しい」


 沙羅は呟くと、深く息を吸い込んだ。

 合わせた襟の下で、胸部が朱色に輝く。


 肺に炎を蓄えた沙羅は、玄奘の口を自分の唇で包み込むと、胸に溜めこんだ熱を、ゆっくりと吹き込んだ。


 玄奘が、与えられた熱気を大きく吸い込んだ。それだけでなく、熱源である沙羅を引き寄せようと、頬や顎に手を伸ばす。


 顎や頬に触れてくる、玄奘の冷え切った手。沙羅は、震えるその手から、『生きたい』という意志を確かに感じ取った。


 沙羅の耳元で、玄奘の持つ数珠の珠が、持ち主の手の震えに合わせてカチカチと音を立てていた。


 温かい空気を体内に送られた玄奘の体は、瞬く間に血色が戻り、手や頬にも赤みがさす。


 沙羅が発する熱で、玄奘を覆う周囲の雪が解け始めた。


 空はまだ荒れ狂っている。


 玄奘の全身がすっかり雪の上に現れた頃、沙羅は天を仰いで再び大きく息を吸い、口をすぼめた。


 そして彼女は、天に向かって炎を吹き上げた。仲間の三人へ合図を送るために。


 風雪ばかりの真っ白な世界に、真っ赤な火柱が細く、しかし力強く、高く高く立ち昇った。


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三蔵を食べたい みかみ @mikamisan

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