母親

俺が家に着く直前で雨は豪雨に変わった。


そんな中、上着も荷物も自転車も何も持たずに帰ってきた俺を見て、母さんに何か言われた気はした。


でも、家に着くと服を脱いで軽く身体を拭き、肌着を着替えると布団に潜り込んだ。


何も考えたくなかったんだと思う。


気がつくと朝になっていた。


キッチンの方から味噌汁のいい香りがした。自分の部屋を出ると母さんが朝ご飯を作っていた。


「おはよう、悟。あんた、昨日お風呂入ってないでしょ?お風呂沸いてるから入って来ちゃいな」


「ああ、ありがとう」


もともと、竹を割ったような性格の母だが、あまりにあっさりしていた。


昨日のことを聞かれなくてホッとした。


……


シャワーを浴びていると、昨日のことが鮮明に蘇ってきた。


ひらきとの約束、中上への暴言、暴力。そして、正樹部長との口論。


心に山積みにしていた真っ黒な感情を吐き出したことで、少し冷静になったのかもしれない。


無関係の第三者に暴力を振るった事実を認識して自己嫌悪に陥る。


あんなの……ただの八つ当たりじゃないか。


どんな顔をして学校へ行けばいい。どこかに逃げてしまいたい。


外が寒いのか風呂場はホワイトアウトしたみたいに真っ白になった。


風呂に浸かると身体が芯から温まってきて、少しだけ前向きな事を考えられるのでは……と思ったが、やっぱりそうはならなかった。


ひらきとの約束を果たさなければならないし、正樹部長と中上、マスターにも謝らないといけないよな。


贖罪という名の呪詛を繰り返すことで、心の枷はじわじわと、だが確実に重さを増していった。


贖罪するべき相手がいなくなる頃にはすっかり学校へ行く気力がなくなっていた。


学校をサボろうか……


そんな言葉が頭をよぎり始めた頃に母さんがドア越しに声をかけてきた。


「そろそろ、風呂でないと学校に間に合わなくなるわよ」


「……今、出るよ」


そうだよな。行かないわけにはいかないよな。


急いで風呂を上がって身体を拭く。髪をセットして、服を着替えた。


気が重い。


でも、そんな様子を見せるわけにはいかないので、ダイニングに向かった。


ダイニングのテーブルに置かれた朝食はご飯、玉子焼き、焼鮭、漬物、そして味噌汁というオーソドックスなものだった。


でも、いつもよりちょっと豪華だ。


普通はおかずは一品だけだし、……母さんはもしかしたら俺に気を使っているのかもしれない。


炊きたてのご飯をほうばり、焼鮭を一口入れる。綺麗なオレンジ色をした身は脂が乗っていてまろやか、それでいて程良く塩味がついていた。


銀鮭……かな?本当に少し豪華な食事のようだ。味噌汁も俺の好きな赤出汁の味噌汁というチョイスも嬉しかった。


「美味しいかい?」


「あ、ああ……美味しいよ」


素直にそう思った。


「あんたの後ろに昨日船場さんの所に置いてきたコートとバッグが置いてあるからね」


はっとして、母さんを見ると真っ直ぐにこちらを見ていた。


ゴクリと唾を飲む。


「何か言うべきことがあるんじゃないのかい?」


「……お、俺は」


言葉が出なかった。


何を言うべきなんだろう?


何も思いつかない。


いや、急に核心をつかれて頭が真っ白になった。


な、なんでもいいから言い訳をしないと。


「いや、昨日疲れてて忘れ物を……」


「そんな嘘が私に通じると思っているのかい?」


そうだ、母さんに嘘は通じないのだ。


「あんたの声、ヌメッとしとるね。嘘の感触だわ」


……話せば、嘘や虚勢、真実も曖昧な情報も全て読み取られる。


そう、俺のシナスタジアは母さんからの遺伝なのだ。


母さんが深呼吸をする。


全身がざわっとした。次の瞬間だった。


「このボケがっ!人様に迷惑かけて、何すっとぼけてるんじゃ。飯食ったらさっさっと謝りにいかんかい、この大馬鹿者!!」


怒りの声は大きさに比例して、ハンマーで殴られたような鈍痛を伴う。


「ぐゎあああぁあ」


「くっそ、痛ぇ〜!!」


当たり前だが、母さんも自分の声でダメージを受ける。


お互いに鈍痛で僅かな時間身動きが取れなくなった。


復活した母さんがゼェゼェ言いながら俺に問いかける。


「父さんの格言。108番目!」


……108番目。


「……生きてりゃ大体なんとかなる」


母さんは頷いた。


「暫くしたら立ち直るかと思って放っといたあたしも悪いが、いつまでもうじうじうしとってからに!」


「あんたも……りえちゃんも生きてる。大体なんとか……なる!」


そういうと立ち上がり、おもむろに近づいてきた。


バシッ。


一瞬息が出来なくなるくらい強い力で背中を引っ叩かれた。


「学校へ行っといで!ちゃんと謝るべき人に頭を下げといで!」


「はい……行ってきます」


嵐のようだった。


母さんはいつもそうだ。勢いだけで間違いを正してくる。


説教している本人もダメージを受けるし、やり方は無茶苦茶だし、配慮をしてるんだか、してないんだかわからない。


でも、……呪詛で固めた心の枷がいつの間にか軽くなっていた。


そうだ、皆に謝らなきゃ。


コートを羽織って、カバンを手に取ると玄関で母さんの方を振り返る。


「行って……きます」


「いってらっしゃい!気をつけてね」


ドアを開けると陽の光が目に飛び込んできた。


空は嘘みたいに晴れていた。

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