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 夜半、月が南に輝く頃、カタリナはふと目を覚ました。

 隣にはフアナが寝ている。横になってそれぞれ語り合っているうち、二人ともすっかり寝落ちてしまったらしい。彼女を起こさないようにカタリナはベッドを抜け出す。カタリナに彼女と朝まで同衾する気はなかった。出来ないといった方が正しい。左頬の傷を埋めるパテは一日しか持たない。どんなに離れがたくとも、自室に帰って湯浴みして、〝フェリペ〟からカタリナ自分に戻る。……そうでもしないと、このところ、カタリナは自らが抱える歪みに発狂してしまいそうだった。

 フアナに変わったところはない。強いていうなら、喪服を着ない代わり、手袋を外すよう求めたことか。カタリナは特別それを不審に思わなかった。そもそも手袋を嵌めていたのは、この両手に鎮座する火傷痕を隠すためでしかない。カタリナには許されるこの傷も、フェリペには存在しえない瑕疵である。フェリペへ完全に成り代わるには、どこまでも邪魔なシミだった。それを曝け出してフアナがそれを咎めないのには、彼女の中で、何らかの折り合いがついたのだろう。カタリナにはその思考回路が読めなかったが、フアナは未だ、自分を『フェリペ』だと信じ切っているようである。

 カタリナは使用人用の大浴場へ向かう。深夜も深夜なだけあって、そこに人の影はない。空間は孤独だった。誰も居ない浴室の、その壁に取り付けられた鏡の前、カタリナはしばらくそこに佇む。フェリペの顔に女の胴体が付いていた。湯を頭から浴びる。……亜麻色の髪をザンバラに切った、フアナの侍女が現れる。

 フェリペに成り代わろう、そのフリをしようと考えたのは、ほんのよこしまな思いつきに過ぎない。まあ、思いつきと呼ぶには、当て擦りが多分に含まれていたが。単純な話、現状からの変化を望んだ荒療治だった。傷心の彼女にフェリペとして姿を見せたなら、何かしら関係に変局が起こるかもしれない。事実フアナは良い方向に変わった。夏至という彼女にとって最も大切な日に行動を起こしたのは、我ながら悪趣味だったと思う。フェリペが別人と気づいたら、フアナは、いよいよ心を失っていたかもしれない。カタリナは、どうか自分と気づかないでくれ、そう願っていた。目論見は順調に働いた。『前世は兄妹だったのかもね』とフェリペに言い寄ったこの容姿も、上手い具合に作用した。カタリナは存分に、身も心もフェリペになりきっていた。この見目でフアナに愛を捧げれば、彼女は顔を赤く染め、恥ずかしがりながら、いじらしくそれに答えてくれる。ああ、可哀想な男、フェリペ・サラザール! 貴様に向けられる愛はもうどこにもない。思慕も恋情も哀惜の意ですら、このカタリナ・オルティスが横奪した。右手にフアナを、左手に優越を抱いて、カタリナは高笑いするのだ。

 けれどそのうちにカタリナは気づいた。フアナが自身に向ける愛は、その実フェリペに宛てられたものということを。そして、カタリナという個人には与えられていないことを。フアナはカタリナを通してフェリペを見透かしている。どころか、内なるカタリナの人格を一切無視して、その表面のフェリペのみを甘受している。こいつフェリペじゃない、わたしカタリナを見て――とは、口が裂けても言えなかった。元より、カタリナを殺して成り立っている関係だ。今更フェリペが偽物と判明したなら、ましてそれが侍女の演技と知ったら、フアナはどうなってしまうのか。怒り狂って殺される? かつてのフアナだったらその可能性はあり得た。その選択肢はカタリナにとっても至上である。好いた女に刺し殺される、これほど幸福な人生の終わりはない。しかし現在の彼女にそのような激情は残されていないように思えた。ようやく取り戻したフアナの情緒世界は、薄氷の上に辛うじて成り立つ城郭だ。次にカタリナがその氷を踏み抜いたなら、それは湖底の暗黒の中に呑まれて、二度と立ち直ることはないだろう。

 だからカタリナはより慎重になる。フアナへフェリペを求めるだけ注ぐのは、そうした理由から、彼女を想ってのことだった。少なくともこの侍女は自身にそう言い聞かせていた。でないと、己の本心を偽りの姿で語る自分は一体何がしたい? カタリナのままでは言えないからと、一番嫌いな男の外皮を利用して……利用? そうだったならどれほどよかったか! だってそれならフェリペの面でつらつらと告白した後、堂々とネタバラシをすればいい。それが出来ないのは、カタリナでは到底フアナに受け入れてもらえないという自覚があったからだ。結局カタリナは、フェリペに勝てない。勝った気になるために、一生懸命フェリペの演技をしている。それで、現実の自分自身を騙そうとしている。

その詐欺は日増しに達者になっていた。近頃は危うくも本当に騙されかけるのだ。わたしは最初からフェリペとして生まれたのではないかと……けれどそうやってフェリペに肉薄すればするほど、内心の断裂は耐え難いものになっていった。わたしを見て、わたしを好きと言って、わたしを愛して! ――カタリナが死んでいく。

 侍女は湯船に浸かった。

最近の疲れは酷くカタリナを蝕んでいた。否、フェリペでいる間は、どこまでも体は軽いのだ。全てが劇場の舞台の上、眼前の事物は非日常の存在に思えて、あらゆることが儚い戯れのようだった。問題はその舞台を降りた後だ。カタリナという一個人の現実に直面して、途方もない絶望に立ち竦んでしまう。ずっと『フェリペ』で居られたら。いや、出来ることなら今すぐこの役を投げ捨ててしまいたい。あまりに長い間『フェリペ』を被り続けたら、そのうち、耐え切れなくなった『カタリナ』が偽りの人格を食い破って現れそうな気がした。だけどそれは本当にカタリナなのか? 現在のカタリナは、少なくとも外面はフェリペにかなり近しい。左頬の傷の有無が両者を分ける唯一の違いだった。両手の火傷はとっくにフェリペと同化してしまった。そうなれば、カタリナが『カタリナ』と思って発言したことも、フアナは『フェリペ』と捉えるのではないか? いや、既にそうなっているのでは? だって、『カタリナ』では伝えられない本心を、『フェリペ』に託して語ってしまっている……。

「わたしは――わたしって、誰?」

 カタリナは頬の左に指を滑らせた。

 傷があった。

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