3

 夏の宵は、フアナの最も好きな時間だった。

 一年で一番高く太陽が昇るこの日の夕暮れ、フアナの姿は庭にあった。真昼の陽光に黒の喪服はあまりにも暑すぎるが、空の色も紫紺に染まりつつあるこの時刻ならその限りでもない。とある新入りの召使いを侍らせ、百日紅の下に腰を落ち着かせる。

 花はようやく咲き始めた頃だった。

「あの人はいつ来るかしら?」

「お嬢様……申し上げにくいのですが、旦那様は、その」

 まだ公爵家に勤めて一年と経っていないこの下女は、何と声をかけてやるべきか戸惑った。年嵩の従僕たちがほとんど匙を投げているのに対し、彼女はまだ若く、そして誰よりも心優しかったのだ。そばかすの多い顔を曇らせて、言葉に詰まる。

「夏至はね、あの人と結ばれた記念の日。毎年あの人とお祝いの食事をしていたのよ。こうやって、百日紅を見ながら」

「そうだったのですか」

 純真な召使いは困惑しつつも素直に聞き入れた。もっとも彼女の先輩であれば、フアナのそれは妄想とすぐに理解しただろう。フェリペの愛情は、フアナが二十歳を迎えた五年前より底を尽きていた。彼女が木の下で来ない夫を待つのは毎年の光景としても、二人が仲睦まじく会話を交わすことはまずありえないのだ。

「でもあの人はいつもいつも外出してばかり……今日もそう。朝から姿が見当たらないし、あまりに帰りが遅いようだと、流石に困るのだけど」

 なるほど、主人が朝から浮ついた様子だったのは、これが原因だったらしい。召使いは珍しく会話の通じた日中のフアナを思い返していた。彼女はその優れた美貌に上機嫌な微笑みを浮かべて、あれやこれやと家事の指示を出していた。自分に近い従者たちを誘い、豪勢な昼食会まで開く始末だ。昨日までと異なり活力みなぎるその姿には、誰しも我が目を疑った。

 ……そう記憶を振り返ってふと、召使いは首を傾げる。何かが欠けているような印象を感じてはいたのだが、そういえば確かに、普段からフアナに寄りそう存在が見当たらない。皆が諦め放置していたフアナを、甲斐甲斐しく世話をするあの人が。

「……あ」

 召使いは顔を上げる。草を踏みしめる足音がした。その方を見れば、すらりとした背の高い姿がそこに佇んでいる。召使いは一瞬肝を冷やした――黄泉の国からフェリペの亡霊が蘇ったと思ったのだ。それくらい、影は死んだ男に似ていた。顔は見えない。深くなる黄昏時の闇が、百日紅の葉と花の向こうの人物を覆い隠している。

 その者は突然に言葉を発した。

「待たせて申し訳ない、フアナ」

 フアナは弾かれたように背後を振り向いた。同時に枝が揺れて、木陰からその全てが詳らかになる。

 果たしてそれは、本当に、不気味なほど……〝フェリペ〟だった。

「あ、あなた……?」

「そうだよ。だ」

「本当に、あなたなの……?」

「おや、疑うのかい? 君は薄情だなぁ」

「だって……、だって、旦那様!」

「はは、冗談だよ。フアナ、遅くなってすまない」フェリペの見てくれをした何者かは、腰をかがめ、フアナの頬に触れる。「今日は俺と君の大切な日だ。一緒にお祝いしよう」

 フアナは感極まったあまり力が抜けてしまったようだ。黒曜石の瞳をキラキラと輝かせて、涙の幕を緞帳のようにたっぷり張って、口をはくはくと開閉している。紅潮した顔はよく出来たフェリペの贋作をじっと見つめていた。隣にいた召使いも思わず絶句するほど、それは彼本人としか言いようがない。

 尤も、この場にいた召使いは誠実さを持ち合わせていた――だからついうっかり、真実を口走りそうになる。

「なぜ、カ――」何故カタリナ様が、フェリペ様の真似を。

 カタリナはこれを睥睨して封殺した。虎ですらきっと息を呑む、恐ろしく冷酷な目線だった。畏れに喉がきゅうと締まって、続く台詞は音にならない。

「向こうのテラスに食事を用意してある。一緒に食べよう」

「あ、あなた……」

「はは、いつまでそこに座っている気かい? 百日紅なら、食事をしながらでも十分見られる」

「いえ、そうではないの……。驚きのあまり、腰が抜けてしまって」

「なんだ。そんなことか」

 カタリナの、黒手袋に包まれた右手が差し出される。フアナは羞恥に顔を赤くしながら、迷わずその手を取った。

 善良な召使いは、カタリナがとんでもない執着心でフアナを奪い去るその始終を、ただ唖然として眺めていた。彼女にはカタリナの行動原理が全くわからない。最愛の人を自殺という形で喪ったフアナを、彼になりすますことで励まそうとしたのか? それにしたって、フアナの手を握りしめたり、彼女を見つめるその視線は、あまりに……あまりに熱烈じゃないか。

 カタリナの腕がフアナの腰に回る。驚きのあまり逃げそうになる彼女を、カタリナは――〝フェリペ〟は、笑って捕まえる。亜麻色の髪が動作に伴って激しく乱れた。

 召使いはおや、と思う。

 カタリナには左頬に刺創の痕があって、この新入りを含む同僚たちは、勝手に彼女のトレードマークと認識していた。それくらいよく目立つ傷だったのだ。新入りはこの傷が出来た所以を知らなかったが、せっかく綺麗な顔をしているのに、神様は残酷なことをなさるものだと思っていた。それが今見る限り、カタリナの顔に見当たらない。白粉でも上に塗って隠したらしい。

 それもそうかと、離れていく二人の背を見送りながら、召使いは一人で頷いていた。せっかくああまでフェリペと瓜二つなのに、頬の傷を見咎められたら、魅惑の魔法も解けてしまう。それはフアナにとってきっと不幸だろう。召使いは久方ぶりにフアナの笑うところを見た。

 ……しかし妙な引っかかりを覚えるのはなぜなのか。心中、形のない不安を抱えながら、けれど召使いはその場を立ち去ることを選んだ。召使いは主人の幸福を何よりも願っている。一時の幸せの邪魔をするほど、捻くれた性格ではない。





 しかしそれは本当に『幸せ』だったのだろう? 脳内に快楽物質を無理矢理流し込んで、そうと錯覚しているだけではないだろうか? 麻薬のような偽物によって。

 というのも、その日以来、カタリナはフェリペの恰好でフアナの前に姿を現した。赤を基調とした衣装、黒い手袋、傷を覆う白粉。フアナは大喜びしている。それまでの憂鬱が嘘のように元気になって、往時の穏やかな才女の姿を取り戻している。例えば日中、フアナの部屋を覗いてみよう。トランプ遊びに興じたり、二人で小難しい本を読み合ったり、そしてそれについて討論したり、情緒豊かなフアナの姿が見て取れる。フアナの隣でカタリナは、愛らしい彼女を眺め、愛らしいと言わんばかりに目を細める。それで時折、カタリナは、フアナに愛を囁いた。彼女はフェリペと結婚して何年も経つのに、反応は全く初々しい。生娘のように頬を赤らめる。

 屋敷の従者たちは、倒錯した二人の関係を黙認していた。カタリナが熱っぽくフアナを口説く様は、明らかに普通ではない。が、フアナにそれを気づくようなところはなかった。フェリペが死んで以降、ずっと塞ぎこんでいたフアナである。多少カタリナの行動に異常なところがあっても、それがお嬢様の笑顔に繋がるならと、咎めることなく受け入れていた。

 夏は盛りを迎えていた。じっとりとした暑さの中で、百日紅は無数の花を咲かせている。

「暑くないのかい」フェリペの見てくれをしたカタリナは、部屋の窓際にいるフアナに話しかけた。「いくら夏物の服と言っても、黒の熱は身体に堪えるだろう」

「あなたのためなら、どんな暑さや苦しみも我慢できるわ」

「はは、君にそんなことを言わせてしまうとは。俺は恨まれても仕方ない」

「あなたを恨む人なんているかしら」

「いるよ。君のすぐそばに」カタリナはフアナの隣に並んだ。

「百日紅が満開だな」

「そうね」

 先程からフアナはそれを眺めているようだった。黒髪が微かな風にそよぐ。細く白い指が乱れた毛束を耳に掛ける。そのとりとめのない仕草に、カタリナの目は自然と綻んだ。

「……君には黒が似合わないな」

「いきなり、どうしたの?」フアナは苦笑と共に隣を振り返る。

「君には俺と同じ赤か、それかいっそ白が似合う。薄手のレース地のね」

「でも私……、私、あの人のために、一生喪に服すって決めたのよ」

 彼女はそこで言い淀んだ。『幸せ』な世界が一瞬、蜃気楼のように揺らめいた気がする。

「あの人がいない今、私の人生なんて余り物も同然」

「へえ、そう、あの人。あの人って一体誰のことだい?」

「え?」

 指摘されてフアナは混乱する。当たり前に信仰していた『あの人』とは、はてさて誰を示している?

 畳みかけるようカタリナは言葉を重ねる。

「よくよく考えれば奇妙なことじゃないか。その喪服は誰を追悼するものかい?」

「それは、あなたを……」

「俺はここにいる」カタリナは窓枠に手をついた。「俺はこうやって生きているけど?」

「そうね、それは確かに……でも、あれ、どうして……?」

 傍らでフアナの聡明な理性が主張していた。――今認識する限りの『現実』は、果たして真に現実か? ここにある『現実』は、もうもうと焚かれた煙幕に、誰かが映した幻影ではなかろうか?

 けれども疑念は煙に巻かれる。

「存在しない死者のために、喪に服すほど滑稽なことはないだろう。違うかい? そんな無彩色など脱ぎ捨ててしまえ」

「けど……」

「何を躊躇っているのかな」

 ほとんど威圧になっていることに、カタリナは気づいていない。

 フアナは眉間に困惑の影を作って、その視線を彼女から逸らす。

「ちょっと、ほら、俺を見て」

「あっ」

 未亡人の手首が亡霊の黒手袋に捕らわれる。それでもフアナは顔を背けようとするから、手袋のもう片方がその頬に伸びた。男性よりずっと華奢な手が顎を鷲掴みにし、フアナとカタリナの視線がかち合った。

「よく見なよ。俺はここにいる」

「そう、ね。そうみたい」

「何かおかしいところある?」

「おかしなところ……」

 睫毛に飾られた黒い目は、呼吸に合わせゆっくり瞬いた。じっと、カタリナの瞳孔を覗き込む。

 今日の空の色みたい、とフアナは思った。高く突き抜ける夏空の青。妻になってほしいと乞われたあの日も、長くこうやって彼に見惚みとれていた気がする。それで、呆けているうちに、この目は笑みに細められたのだ。ああ、よく覚えている、彼の瞳は晴れ渡る冬空の白縹だった――

「…………!」

 息が詰まった。

 靄が消え失せて、フアナの眼前にありありとした現実が立ち上がる。

 しかしその瞠目が気取られる前、フェリペの偽物はパッと手を離した。フアナはよろめいてその場に座り込む。彼女は全く気付いてなかったが、部屋に従僕が昼食を運んできたのだ。部屋の中央にはテーブルがあって、彼らはそこに料理を整え始めた。カタリナは「手伝うよ」と服の裾を翻し、フアナの傍を離れる。

 彼女は人知れず安堵を感じていた。

(……安堵? どうして安堵を?)

 胸の動悸が収まらない。何も知らないカタリナは手早くセッティングを済ませて、フアナを昼食の席に呼んでいた。行かなければ。動揺で揺れる視界の内に、〝フェリペ〟の姿が捉えられた。何を怖がることがあろう? 彼は生きている。あの人はここにいる。

 私を愛している。

 フアナはテーブルへ向かい、カタリナの対面に座った。

 昼食はパンと冷製スープ、それにサラダだった。〝フェリペ〟は手袋が汚れるのも厭わず、パンを黒い手のまま掴んでいる。フアナはそれを凝視していた。

「外さないの?」

「何が?」〝彼〟はバゲットに齧りついた。

「その手袋。油分を吸ってシミになってしまうわ」

「ああ、そうだね。食事が終わったら取り換えるよ」

 〝フェリペ〟は上機嫌だった。フアナは胸がざらつくのを覚えていた。

「む、蝿が飛んでいるな。うわ、こっち来るな。あっちいけ」

「窓を開けているから仕方ないわ」

 〝男〟はシッシとその手を払う。しつこい羽虫はブンブンと飛び回り、二人の食事を囃し立てるばかりだ。

「料理に止まったらどうする。不潔だろう」

 フアナは、蝿に執心する〝彼〟を何も言わず眺めていた。蝿は二人の皿が並ぶ隙間、テーブルのむき出しになった谷に舞い降りる。〝フェリペ〟はその瞬間を見逃さない。虫一匹を殺すには恐ろしい殺意で、それを右手で叩き潰した――ガシャン!

 けたたましい音が鳴ったのも無理はない。〝彼〟は周囲の皿を巻き込むのを躊躇わなかった。ゆえにこそすばしこい蝿を捕らえることが出来たのだが、しかしそのせいでスープ皿は大きくひっくり返る。まだ手を付けていなかったフアナのそれが、〝フェリペ〟の手袋やシャツの袖をしとどに濡らす。フアナは眼前で起きた一連の出来事に目を丸くしていた。

「大変だわ。怪我はない?」

「大丈夫。服が濡れただけだよ」〝彼〟は無造作に手袋を脱ぎ捨てた。その動作には無意識だけがある。「ははは、これが熱湯で無くて助かった」

 カタリナとしては、ちょっと口をついて出た、ほんのジョークのつもりだった。過去の火傷で爛れたままの両手を布巾で拭いて、携帯していた替えの手袋をそこに嵌める。そして部屋の外で控えていた使用人を呼んで、こぼれたスープを取り替えさせた。

 〝フェリペ〟としての、完璧な振舞い。

 舞台女優だったなら、間違いなく賞を貰える出来だろう。カタリナの演技は堂に入る域に達していた。内心得意満面になって、カタリナは再び着席する。その顔のまま向かいのフアナを見遣れば、彼女は妙に落ち着き払い、そして静かに座っていた。カトラリーを皿に置き、両手を膝に休め、こちらに薄く微笑んでいる。……気がする。

 逆光で、フアナの表情はカタリナに判然としなかった。

「どうした? に何か言いたいことでも?」

「……そうね。さっき、貴女に言われたことを考えていたの」

「さっき? ああ、もしかして服のこと?」

「そう。やっぱり、貴女の言葉が正しいのかも。もうこの喪服は着ない。明日からは、貴女の言う通り、赤や白のドレスを着ようかしら」

「おや、意外だ。君は強情なところがあるから、俺が何を言っても、てっきり聞き入れないものだと思っていたよ」

「ふふ、そう?」フアナは首を傾げた。下ろしたままの髪が揺れる。「……現実から目を逸らすのは、もうやめようと思ったのよ」

「え?」

 微かな空気の振動を拾えなくて、カタリナはつい聞き返した。

 同じ言葉を繰り返す気はフアナに無かった。その代わり、ささくれのような意地悪を彼女に与える。

「ねえ。私も喪服を脱ぐのだから、貴女もその手袋を取ってくださらない?」

「いきなりなんだい、藪から棒に……」

「貴女が手袋を脱いでくれたら、私もこの黒を捨てるわ」

「意味が分からないな」

「愛に意味なんてないものよ」フアナはカタリナの手に視線を落とした。「けれど誤魔化しが無いものに、誠実は宿るでしょう?」

 カタリナは困惑の目で相手を見た。フアナの真意を測りかねる顔だった。

「君がそういうなら、明日からはそうする、けど……」

「それでいいの」

 世界は目の眩むようなまやかしに溢れている。だが、傷の残りしその手が近くに在る限り、己は現実を忘れないだろう。

 フアナは小さく息を吐く。そして、カタリナに笑いかけた。

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