第六話 トイレのまな板

「はぁっ、はぁっ、はぁっ、……っ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……」



 虹ヶ丘小学校の通学路にもなっている上下二車線の大通り。その脇、ガードレールで仕切られた、小学生四、五人は並んで歩ける歩道を男子小学生――アサギが荒い呼吸で走っていく。


 彼の通う駅前の塾から、約10分間、ほぼ立ち止まらずに走ってきた。


 じめじめした梅雨時の夜の空気がまとわりつき、皮膚呼吸ができず冬のマラソンより息苦しい。


 運動会のリレー選手に選ばれるくらい足は速いほうだが、長距離走るほどの体力は無く。

 それでも依然として学校へ忘れ物を取りに行くと言ったまま電話の繋がらない咲のことが気になり、幸か不幸か人通りは少なく信号待ちも遭わなかったために走り切ってしまった。


 閉ざされた状態を初めて目にする正門の前でようやく止まり、両手を膝について乱れた呼吸を横隔膜いっぱいに使って整える。


 少し落ち着き視線を上げれば、立ちはだかるのはアサギの背より少し高いくらいの、横に伸びたレールを滑車でスライドする形の門。


 ここからどうしたものかと、眺めて試案する。

(よじ登るか……?)

 一度そう考えたが、それはまずいと改める。


 人気が少ないとはいえ、正門は通りに面しているため人目に付きやすい。不法侵入だなんだと騒がれても困る。


(他に門があったはずだ。確か、転校初日に親父と母さんが正面と間違えて入った門……)


 くだらない二か月前の記憶に顔を歪ませながら一歩踏み出し右を向いたところで、アサギは足を止める。

 遠く、グラウンドを挟んだ対岸、校舎の右端に明かりが灯っているのが視界に入った。


(誰かいるのか……)


 位置からして、おそらく職員室。


 咲は忘れ物を取りに行くと言っていたのだから、あんなところに電気が点くはずがなかった。

 忍び込んで電気をつけること自体あり得ないことだが、もし万が一にも灯すとすれば四階にある四年一組の教室だ。

 となると……誰か、居るのか。居るとすれば教師だろう。


 見つかったら面倒なことになりそうだから、うまく撒くしかない。

 もう見つかっていて叱られているから電話が繋がらなかった、なんてオチは勘弁だが、呼び出し音すら鳴らないのだから、違うと思いたい。

 電源が切られているのでなければ……。


 そこまで考え、ふと思い立つ。

 電気が点いているのなら、もしや……、と門に手をかける。

 音の立たないようにゆっくりと横へ滑らせると、車輪が回った。



「開いてる……」



 思いがけず、学校の敷地内へ入ることに成功した。

 がらんとしたグラウンドは人目に付きやすいため、大周りになるが灯りの点っていない校庭の左側を、敷地の淵に沿って速足で進む。


 暗い校舎は不気味で仕方ないが、咲と早く合流して教師に見つかる前に脱出する。


 校舎の前まで来ると、腰を屈めそろりそろりと忍び寄る。人の気配はない。

 玄関まで辿り着くと、ドアにそっと手を掛ける……。


 玄関も、また、開いていた。

 咲がどこにいるかは分からないが、ひとまずは目的地である四階の教室に行くため階段に向かう。

 静まり返った不気味な暗い廊下を、灯りの漏れているのとは逆方向、西側にスマホのライトをかざしながら進む。


 ついでに咲に発信したがやはり応答は無かった。

 幾つもの教室を素通り、あとはトイレを越えれば階段だ。



「おい!!」



 いきなり声がして、びくぅ!と跳ねるアサギ。

 振り返ると、教師には見えない、高校生くらいの女性が座っていた。

 地面にではない。座っているのに目線がアサギと同じなのだ。

 スカートが長いのをいいことに、ガニ股に足を開いてしゃがんでいるのだが、浮いている……。



「⁉」


「あぁん? 誰だお前? 理科男じゃねぇな。あいつどこ行きやがった⁉」



 アサギは声を出せないほど驚いていたが、理性を全開にして様子を窺う。

 浮いている以外は普通の人間に見えた。


 明るい茶色のソバージュ髪は胸元まであり、紫の生地に金色で刺繡の入った丈の長い男物の学生服――長ランの前ボタン全てを外して着崩している。

 テレビなんかで見たことのある、暴走族風の女性。


 学ランの下は何も着ておらず、胸にサラシを巻いている。血色の悪い半ば透けた肌とおへそがかわいらしいが、そんなことを口にしたら殴り掛かってきそうな雰囲気を纏っている。


 長い睫毛に濃いめのアイシャドウの大きな瞳と、ぷっくり艶やかなおちょぼ口、オレンジがかったチークは血色の悪い肌によく映えている。

 美人――少なくとも、アサギの好みだった。

 細く切れ長の眉毛は吊り上がり気味で、乱暴な口調と相まって険しい表情を印象付ける。



「あいつはどこだって聞いてんだよ!」


「あいつ……?」


「理科男だよ! 理科室の野郎! 体の半分皮の無い奴!」



 皮が半分無い……とは人体模型のことだろうか。



「それなら、四階の理科準備室にいると思うけど……」


「四階だぁ? いつも一階の廊下をウロウロしてやがんのに! ははぁ、あの野郎、あたしとの決闘にびびってやがんのか! おい、お前! 四階まで案内しろ」


「へっ……?」


「あたいは一人じゃここから動けねぇんだ。ここに縛られちまってる。けど、オマエに憑りつけば動けるのさ」



 憑りつく……?

 アサギの血の気が引いた。自然と一歩後ずさる



「安心しろ、何も悪いことはしねぇよ。ただの移動手段だ」


「な、なんのために……?」


「レースするんだよ! どっちが速いか勝負してんだ! あいつに今日こそ勝ぁつ!」



 暴走族女は握りこぶしを下から突き上げる。幽霊っぽいが、ずいぶん威勢がいい。



「あたいはぁ、ココで「トイレの花子」なんて呼ばれてんだ。クッソだせぇ。聞いたことあんだろ? アァ?」


「ええ、まぁ……」


「誰が言い始めたのか知らねぇけどよぉ、いい迷惑だぜ。でな、本名はマナイ=田ノ飢タノウエってぇんだ。マナイでいいぜ」


「まな板……?」



 サラシできつく巻かれた胸元に目をやり、顔を赤くするアサギ。本来の膨らみは分からないが、見る限り平らに近い。



「な……っ⁉ ち、チラチラ見るんじゃねーよっ! まな板じゃねぇ! ちゃんとあるんだよ! 揺れるとあの野郎との勝負に鬱陶しいからサラシで潰してんだ!」



 両腕で自身の体を抱きしめるマナイも真っ赤になる。



(何も言ってないのに……)


「エロガキが……くっそ調子狂うぜ……。だからガキは嫌いなんだよ」



 未だ赤みの引かない顔をしたまま、マナイはアサギの右肩あたりに移動する。



「理科男のやつが速えんだ……。あたいはあいつに今日こそ勝つんだ……」



 隣にいるアサギにさえ届くかどうかのごくごく小さな声で、マナイはそう呟いた。


 憑りつかれてしまったらしいが何の変化も感じないアサギは、階段を上り始める。

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