9節 夜が明くまでに、羽ばたくもの


  全ての物に意味などない—— 雨に打たれて崩れるだけ。大人の言うことを聞き、たくさん勉強をして、礼儀正しく生活する。そして。友と家族を大切にして、隣人を愛し、慈しむ。その全てを守って生きてきた。でも、そんなことに意味などはなかった。世の、正しき人間を称するものに問いたい。


——— 全てが間違っていて、虚無だったらどうするのかと。


 一人の女がいた。誰よりも孤独で、何も持ってない女が。生まれた頃より、女を思う人間はいない。それ故に—— 人にあらず、それは道具だ。人には耐え難い。

 だが、彼女は受け入れた。否、そうせざるを得なかった。選択というのを知らないために。女は学び、働き、感謝し、守り、全てを受け入れ、捧げた。貞操すらも。

 当然のことだった。主は、絶対。常に正しく、強く、厳しく、恐ろしく、冷酷、そして優しかった。だから、慕った。私に価値を与えたから。

 

 でも、それは虚像。作為によって塗り固められた醜い芸術。私を孤独に落とし、そこから掬い上げ刷り込んだ、見せかけの慕情。真実を知った。壊れた。私は壊れかけた。雨に打たれて、消えかけた。

  何とか、保てた。土砂降りの雨の中、傘を差し出したものがいたからだ。見せかけじゃない、芯が歪んでもいない。慈悲の雨除けをくれた人がいた。だから…… もう、濡れないように、今も傘を武器にしている。


10/14 埼玉県某所



「よし、お前に次の指令を与える」


 駅前商店街の古びたデパートの、廃棄された遊園地がある屋上にて、似つかわしくない格好をした二人が会話を交わす。


「おっと、すまない。任務だよな。まったく…… 向こうからは、指令として送られてくる。まったく、こっちは下請けじゃないのにな」

 

 スーツ姿の高水研一は、ネクタイを弄りながら不満をこぼした。年齢通りに、三十代後半という見た目だ。一見、会社員にしか見えない。


「次の任務ですか。一体なんでしょう」


  羽宮ルナは冷静に答えた。上半身は、ボディーに密着するタイプの軽量防護服を、身に纏い、下半身は青のレギンスを履き、黒いコンバットブーツを身につけている。

  羽織った、ジーンズベストの背中には大きな、羽の紋章が刻まれ、それと同じ刻印が、セミロングの髪をかき分けた彼女の左手に、淡い光を走らせる。


「今回は東京で悪魔に関連する件の、調査をしてもらいたい」


 高水は、タブレットを取り出すとルナに、それを見せながら説明を続ける。


「情報によると、下級の悪魔がここ最近、怪しい動きをしている。お前には、それを調査してほしい。人間界に顕現する悪魔たちは、知能が低いため、通常群れる事はない。…… しかしだ、確認された事例だと、三体以上の群れが十回も確認されている。おそらく、群れを指揮する統率者がいるのだろう」


 ルナは高水からタブレットを、受け取り写真や資料を確認した。写真には、人間に集団で襲いかかる悪魔の姿や、高架橋の下に隠れ、日光を避ける悪魔が写されていた。すでに犠牲者が出てることは容易に想像がつく。


「すでに、向こうの人間が二人ほど行方不明になってる。だから、こっちに来たんだろうな。期間は一ヶ月だ。ホテルはとってある。まぁ、そういうわけだから…… やってくれるな? 」


 いつも、返事は決まっている。高水には、情熱と正義感がある。私には無いが、立派な事だとは理解はできる。それに、犠牲者は見過ごせない。だから…… 毎回返事は。


「了解。引き受けます。下級悪魔達の目的を探りながら、やつらを消滅させれば、良いのですね」


「そうだ。それと、統率者を探してくれ。何をやってるにしろ、良からぬことに決まってる。見つけたら報告してくれ、目的を探りたい。わかったな」


「わかりました。すぐに任務に入ります」


「頼んだぞ。くれぐれも無理はするなよ、いつも通りで良い」


「わかってます。必ず、成功させます」


「気をつけろよ。ところで任務に行く前に一つ聞いてもいいか? 」


「もちろんです。なんでしょうか」


「今日は、一応フリーのはずだぞ。なんで、交戦用服を身につけてるんだ」


 高水はルナに対し、私服で来るように指示していた。本来、交戦用服はその名の通り交戦する場合にのみ装備される。

 特に、軽量防護服はボディーラインを際立たせるため、街で着用すると、好奇の視線に晒されることが多い。その上、密着したボディースーツに、ジーンズベストを重ねると、なおさら視線を集めやすい。


「私にとっては、これが私服ですが。何か問題がありますか? 」


「そ、そうか……. いや、良いんだ。…… ただ、その、目立たないか? それ」


「そこに関しては、問題ありません。隠密訓練は十分に受けてありますから。それでは、失礼します」


 高水は足早に任務へ向かう、彼女の背を心配そうに見送った。

 まぁ、羽宮ルナは価値観が少し変わってるからな。あれで良いのかもしれない。でも………… やはり、彼女の過去が尾を引いてるのかもしれない。


 羽宮ルナが生きてきた18年は、一般的なものとはかけ離れている。生まれた時には、すでに両親はいない環境だった。

 彼女は、どこかの資産家に引き取られ、親の顔を知らぬまま、見知らぬ場所での生活を強いられることになった。学校には行かせずに教育という名の過酷な訓練を、無理矢理受けさせられた。その内容は主に戦闘訓練と命令に絶対服従させる訓練。それを精神の奥深くまで教え込まれた、彼女は主人のために、忠実に動く駒になった。


 主にスパイ活動や陰謀に、加担させられた。どこで、どんなことをしたかは資料には無い。おそらく、消されているか、残されていないのだろう。いらなくなったら、いつでも捨てられるように。

 だが、彼女は、その頃気づいてしまった。育てられ、現在は絶対服従させられている主人が、自らの両親を利用し、その後亡き者にしたことを。彼女は主人を裏切り、両親の仇を討ち、住処の籠を燃やし、自由の身になった。

  だが、彼女は存在意義を失った。虚偽で満たされた人生の中から、これまでの全てが無くなり空になった。俺が彼女を、見つけたのはそんな時だ。何日も雨に打たれ続け、消えそうになっていた彼女を保護した。

 

 最初は俺のことを警戒していたし、常に項垂れていた。だから、こっちも何度も、何度も利用する気はないこと、従う必要はないことを伝えた。その後は気を紛らわすために、簡単な仕事を手伝わせた。

 

 彼女の仕事ぶりは、完璧だった。最初は書類の整理のみだったが、最近では調査や解決なども手伝ってもらっている。指令、命令という言葉を嫌うので、任務として頼んでいる。部下としては非常に優秀だ。

 しかし、欠けているものがある。それは、彼女は表情が常に変わらないこと。仕事では、冷静な対応を取れるので、その場面では役に立つが、日常生活においては苦労するだろう。最近では、会話は少し続くようになったが、表情は同じまま。

 

 また、彼女には意思がない。意志も。自らの考えで、何かを行うことができないのだ。

 それが彼女の服装にも、表れているのではないかと、考えてる。彼女は、支給された意外の服は持っていない。必要、最低限以外の行動をどうしてもとれず、常に命令を待ってしまうらしい。戦闘時以外は。

 

 彼女には、特別な出会いが必要だ。これまでの価値観を根底から変えてくれるような、普通とはかけ離れた出会いが。俺にできることは、全部やったつもりだ。だから、あとは託すしかない。その特別なものに。

 そして、そのおかげで、羽宮ルナが表情と意志を取り戻し、初めて自分で羽ばたける日が来ることを、強く願っている。



 

 でも、何だか嫌な予感がする。なにか—— 重大な見落としがあるのか? 俺のほうでも調べてみるか………… 彼女を狂わせたやつのことを。

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