第9話 王子と公爵

 「♪Der Hölle Rache kocht in meinem Herzen. Tod und Verzweiflung. Tod und Verzweiflung flammet um mich her♪」


 自室のパフォーマンス場で、アカサは舞台で私のわからない言語で歌っている。


 約束の日が来て、私とイヴァンが例のコンサートに来た。場所は東5区に位置するアカサの自宅だ。イヴァンの家と同じように、都市とは少し遠いところにあるが、周りに他の住宅もたくさんある。林太郎の家もその一つだ。半分以上の客人は同時にお隣さんだ。


 そして、今日の参加者はどうやら音楽以外の共通趣味を持っている。


 それは、19世紀か18世紀のコスプレだ。


 最初はドレスコードがあると思ったが、違った。私とイヴァン以外の人々はみんな自分の意志でヨーロッパ貴族みたいな服装をしているらしい。


 ごめん、言うのが忘れたと林太郎がこころよく謝ったが、言ったら私たちが不参加の可能性が高いため、わざと言わなかったの、絶対。


 イヴァンはいつものスリーピーススーツだからまだしも、私は普通よりちょっと正式なブラウスにジンズで来たから、どう見てもタイムスリップしたばかりの人間に見えた。事実もそうだったけど。


 結局アカサから服を借りた。アカサは男装女子だから、当然私も男装をした。最初、イヴァンはこういうのに乗らないタイプだと思ったが、意外とあっさり着替えた。


 そこでわかった。


 なるほど、みんなの平均値以上の顔は何を着ても美男美女だから、何を着るのがまったく気にしないのだ。もちろん今ミヨもこの美しい光景には馴染んでいるけど、それでもいささか劣等感を感じた。


 歌っているアカサを見て、

 

 (だから「王子」なんだ)


 確かに女の声だけど、その凛々とした姿はとてもかっこよかった。


 アカサが今歌っているのは有名なオペラ『魔笛まてき』の中の一曲だとわかっているが、名前までは知らない。歌詞の意味も当然わからないが、迫力のある音色とメロディーが心の中でシンクロしている。


 いろんな意味ですごいなあと思う。


 クラシックを聞くと絶対寝てしまうと思ったが、今は眠気どころが、感情がとてもたかぶっている。


 これはたぶん私が生まれてはじめて聞いたオペラの生演奏だ。そして、オペラに対する知識はゼロの私でさえ、アカサの実力のすごさを理解した。


 鳥肌が立つ。


 「すごい……」思わず絶賛の言葉をこぼした。


 「でしょう!何回聞いても飽きないし、もっともっと聞きたい」隣で座っている林太郎が私を賛成して、アカサが褒められたことに対して、満足そうな顔をしている。

 

 この曲の伴奏は林太郎じゃないから、観客席にいる。


 「ところが、何か歌っているか知ってる?」


 「知らない」


 「最初のあれはね、『地獄の復讐心ふくしゅうしんが私を沸き立っていて、死亡と絶望が私の周りで燃えさかる』って意味だよ。このシーンでは、夜の女王が自分の娘に我が敵を殺せ!——さもないと我が娘ではないみたいなことを歌っているよ」


 「へぇ……なんか重っ……」


 一旦歌詞の意味がわかれば、歌に対するイメージが一気変わった。迫力があるだけではなく、何ともいえない闇も伝わってきた。


 「この物語はね、複雑で結構ぐちゃぐちゃな物語だが、最後王子と姫が一緒になったから、よくハッピーエンドと思われたんだ」


 「じゃ、ハッピーエンドではないの?」


 適度に返事をしたが、私は正直物語の詳細に興味がない。ただ音楽を聞いているのだ。もし何か気になっているのかというと、アカサはすでに別の演目に移ったのに、林太郎はまだ『魔笛』のことを引きずっていることだ。


 今日の再会で知った。林太郎はどうやら学者のようだ。さぞいろいろこだわりがあるだろう。


 「解釈によっては、実はとんでもない悲劇の可能性もある」


 難しいことを言っている。林太郎と比べてあまり教養のない私はこれくらいの感想しか持っていない。返事に困ると思ったら、林太郎は普段のニコニコ顔に戻って、自らそう言った。


 「ごめん、ついつまらないこと喋っちゃった。俺はね、実は大学で『魔笛』に関するレポートを書いたことがある。まあ、アカサに影響されて、当時すっかり音楽の歴史や古典作品にハマっていたのよ」


 「そうなんだ」私は心なしの笑顔を返した。


 「あっ、やっと俺の出番だ」


 ちょうどいいタイミングで、林太郎は舞台に上がった。私はやっとその謎の空気から解放された。


 ——31世紀の見学だと思って、ね?


 思わず前回林太郎の意味深な発言を思い出した。彼は何か言いたいのか?もし本気で私を何かを伝えたいのなら、別の方法でやるほうがいい。少なくとも今のままじゃダメだ。


 ところが、しばらく楽しそうにアカサの伴奏をやっている林太郎を観客席から観察したら、だんだん自分の気のせいだと思った。


 なぜかというと、林太郎の目にはアカサしかいないんだ。


 まるで世界は自分とアカサしかないみたいに、客人のことを構わずに最初から最後までずっと熱い視線でアカサの姿を注目している。


 そのわかりやすさは何かを隠しているようには到底とうてい見えない。


 演出がすべて終わった後、客人はみんな庭と繋がる別室に移動して食事パーティーをしている。


 アカサはアンドロイドということを考えて、そこにはもちろんアンドロイド向けの食べ物も用意している。


 イヴァンはさぞ喜ぶだろう。


 でも私は正直それを好まないのだ。その理由は、どの〈味〉も微妙に本物とずれているからだ。やはり知らないものを再現するのが難しいことだ。


 だから、食事の摂取せっしゅではなく、私は代わりに噂話を摂取するのだ。それこそ私の大好物だ。さいわいで、ここは当事者の家族と知人ばかり集まっているから、情報収集しやすいのだ。


 ちょうど隣のたちが林太郎とアカサの演出から二人の私生活の話に移る途中なので、私もちっと混ぜさせていただいた。


 「あの二人やはり息が合ったわ」


 「何せ20年以上ずっと一緒だったからね」


 「林太郎ってさあ、子供の時からずっとアカサと結婚したいって言ってるの、それはまあ、可愛らしい」


 (やっぱそういうことだね)その目付き、本気だったもんね。


 「でアカサもいつも真顔でアンドロイドだから入籍できないって言い返すからね」


 「そうそう、すると林太郎が泣き出してね、オホホホホ……」


 貴婦人たちだけではない、私もその二人の小さい頃を考えると思わず微笑んでいる。他人の恋愛話を聞くことほど心が満たされることはない。


 ——えっ、ちょっ!


 急にとんでもないことを意識しちゃった私はイヴァンのもとに戻って、まず出した言葉は、


 「人間とアンドロイドは入籍できないの?!!」


 「そうですよ」イヴァンは予測通り楽しくデザートを堪能している。


 「じゃ林太郎とアカサは結婚できないじゃない」


 「できませんね」イヴァンは冷淡な言葉を言っているが、デザートを味わうから表情が柔らかいんだ。


 「そんな……」


 視界がモノクロになった。


 私がこの世界で三番目受け入れられないことは推しカップルが一緒にいられないことだ。ちなみに一番は○キブリの存在で二番は魔法を失うこと。


 「それを落ち込んでどうするんですか?」イヴァンはまた別の種類のデザートを口に入れた。


 「だって、両想いの幼馴染でしょ!どう考えても一緒にいるべきだ」


 「一、片思いかもしれません。二、幼馴染ではない、アカサはアンドロイドなのでずっと大人のままですから」

 

 イヴァンは顔色一つも変わらないまま、他人のロマンを一瞬壊すのだ。


 「あっそ……わかった。そうだよ。私がお節介だよ……」


 「いや、わたしはそこまでいいませんから」


 「イヴァンはきっとわからないだろ。この気持ちは……きっと他人事と思っただろ」


 「他人事ですから」イヴァンは即答して、お茶を一口啜すすった。「でも別に結婚しなくても一緒にいられるでしょう」


 イヴァンの言葉を聞いたら、視界は再びカラフルになった。


 「そうだ!別に結婚しなくても、二人が頑張ったら何でも乗り越えるんだから」


 「本当に、何はしゃいでいます?」いつもの呆れた顔ではなく、まるで面白いことでも見たかのように、イヴァンは笑った。


 鼻で笑うのではない、軽く嘲笑あざわらうのでもない、もうちょっと無防備で本心のこもった笑顔だ。呆れたのは私のほうだ。


 「じゃ、魔法を取り戻すこととあの二人が結婚できることは、どっち選びますか?」


 「両方選びます」じっとイヴァンを見ていると、目が合った。イヴァンの顔にはまたその笑顔の名残なごりが残っている。


 「そうですか」イヴァンも私をじっと見詰めた。


 この時間は今の私にとって最も魔法らしいことだった。


 ところが、イヴァンの持ちかけた二つの選択肢は、どちらか一つしか選べないことを知ったのは、もう後の話だ。

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