第4話 悪人すら助ける者が善人だとは限らない
その日は、シャイルにとって人生で最悪と言ってもいい日だった。何しろ、あと少しで命を落とすところだったのだから。
ボルト獣帝国マカロン公爵領の領都マカロニを目指して、のんびりと幌馬車が走っている。北を見れば果てなき草原、南を見れば広大な森という街道を。馬車の主であるシャイルは、ようやく商品の仕入れが終わり、好事家連中にいくらで売れるかと狸の皮算用を楽しんでいた。
モンスターに襲われたのは、そんな時のことだった。
それ自体は珍しいことではない、街道を使っていれば間々あることだ。
問題は、それがどんなモンスターかということだ。
「グルルルルルルルル――」
シャイルは自分の目を疑った。
何かが急に街道脇の森から飛び出してきたと思ったら、それは大きな赤黒い熊で、しかも自分達に向かって唸っているのだ。
アングリーベアー。
立ち上がると体長五メートルを超える討伐難易度C級のモンスターである。
領都近隣の森では、ヌシであってもおかしくない化け物。よほど運が悪くなければ街道で出会うはずのない、本来なら森深くにいるはずのモンスターだった。
だが、シャイルは決して一人ではなかった。
街道には危険が二つもある。一つはもちろんモンスターだが、盗賊という危険もある。命を守るためだ、決して安くない金を払い、護衛を数人雇っていた。
護衛達が命がけで足止めしている間に、馬に鞭打って馬車を走らせれば、少なくともシャイルは助かる。
そうなるはず――だったのだが、護衛の連中はあっという間にいなくなっていた。
逃げたわけではない。それならまだマシだった。シャイルも気兼ねなく囮にできるからだ。
現実はもっと悪かった。
護衛達は何を血迷ったか、余裕しゃくしゃくという表情で、アングリーベアーに向かって行ったのだ。なお、完全に油断していたため立ち向かったわけではない。。
そして、呆気なく全員返り討ちに。おそらく、討伐難易度D級のハングリーベアーと勘違いしたのだろう。色が全然違うというのに、シャイル以外誰一人気付かなかったようだが。
いや少し待ってほしい。商人の護衛といえば冒険者だが、果たしてそんな間違いを犯すだろうか?
冒険者はプロだ。しかも、護衛依頼を請けられるのは、一人前と認められるC級からである。冒険者がモンスターを見間違えるなどあり得ないし、そもそもC級相手に呆気なく返り討ちに遭うこともあり得ない。
つまり、シャイルが雇った護衛は冒険者ではなかったのだ。
では、なぜシャイルは冒険者ではない護衛を雇ったのか。もちろん、理由がある。実は、シャイルはいわゆる奴隷商人であり、しかもあまり良い奴隷商人ではなく、違法奴隷を扱う奴隷商人だった。
違法奴隷というのは、その辺にいる村娘だとか町娘だとか、孤児だとか乞食だとか、あとは盗賊に攫われた者だとかが、契約魔法で無理矢理隷属させられた奴隷のことだ。
解放が約束されている上に、待遇まで保障されている借金奴隷だとか、基本的に解放されないが、購入者によっては良い待遇が望める軽犯罪奴隷だとか、死ぬまで重労働が課される重犯罪奴隷だとかとは、違う。
そもそも認識されていない奴隷、いないことになっている奴隷、そして何があっても誰も気にしない奴隷だ。もちろん、法に反した奴隷である。
そんな違法奴隷を扱う以上、冒険者を雇った日には、あっという間に処刑台行きが確定する。
では、どういう者を護衛にするのかだが、大金持ちは私兵、金に余裕のある者は傭兵、そしてシャイルのようにまだまだ金に余裕のない者は盗賊だった。
そう、盗賊である。
仕入れ先付近の盗賊とは仕入れに関して契約し、そして仕入れ先と販売先の間にいる盗賊を護衛として雇う。
これが金のない違法奴隷商人のやり口だった。
まあ、そのせいで、護衛が足止めもせずに全滅という事態になったわけだが。
シャイルは必死だった。
怯える馬にとにかく鞭を打ち、アングリーベアーの脇すれすれを潰す気で走らせた。熊という生き物は逃げるものを追いかける習性があることも知っていたが、役立たず共だけで満足してくれるよう祈りながら鞭を打ち続けた。
ついに馬が倒れてしまった頃に恐る恐る後ろを見ると、そこには何もいなかった。
アングリーベアーが本気で走った場合、馬と同じくらいの速度は出る。そのことも知っていたシャイルは、どうやら運良く助かったらしい、とホッとした。
妙にモンスターの知識がある気もするだろうが、行商人として生き残るためには必要な知識である。
とりあえず馬を休ませ、相当に無茶して走らせた馬車に不具合が出ていないか見回るシャイル。
「「「「ひっ……!」」」」
ついでに馬車の中も見てみると、商品達(すなわち違法奴隷)は誰も彼もが怯えていた。
馬車の中から外は見えない。そんな状態で急に無茶苦茶な速度で走り始めたのだ、当然だろう。わからないということは何よりも怖い。
外に出た護衛達(盗賊)ではなく、シャイルが現れたことで、違法奴隷達は何かあったらしいとすぐに理解しただろう。
だが、シャイルにとって彼らは人ではなく、ただの商品である。何も話す気はない。
幸いにも馬車はまだ持ちそうで、あとは馬さえ回復すれば何とかなりそうだった。
そう判断し、シャイルが御者席に戻ろうとした時、突然、馬が大きくいなないた。
今度は何事だ、と急いで正面側に回ったシャイルが見たのは、血だらけで倒れる馬と、その腹に頭を突っ込む大きなこげ茶色の狼だった。確かめるまでもなく食っている。
しかももう一頭の方(シャイルの馬車は二頭立てだ)は、それより少し小さめの茶色い狼共が奪い合うように食っていた。
前者はグラトニーウルフで、後者はブラウニーウルフという。
またもや討伐難易度C級のモンスターである。こちらもよほど運が悪くなければ街道で出会うはずのない、本来なら森深くにいるはずの化け物だ。しかも、討伐難易度D級を数匹率いている。なお、グラトニーウルフが群れを率いていた場合、討伐難易度はB級になる。
(熊から逃げられたと思ったら今度は狼かよ!?)
今日死ぬ運命かもしれないという予感を必死に振り払うシャイル。
彼は簡単に諦めるような男ではなかった。
シャイルは馬車の中に戻り、片っ端から檻を開けて、商品共をつないでた鎖を外し、とにかく外に出ろとわめきたてた。
当然、狼がいることに何人かが気付く。だが、違法奴隷達は現実をすぐには受け入れられず、呆然と突っ立ったままだ。
そこでシャイルは人間用の鞭を振るい、馬車の床を叩いた。間違いなく人生で最高の音が出ていたことだろう。
違法奴隷達は鞭の音にビクリとして、全員がシャイルを見た。
あとは簡単である。ただ、
「逃げろ! 早く逃げろ!」
と叫ぶだけだ。
哀れに思って命を助けようとしたのだろうか? そう思う者は人間の善意を信じ過ぎていると言わざるを得ない。
シャイルの狙いは違法奴隷達を囮にすることだった。
(商品を失うのは手痛いが、また集めりゃいい。死ぬよりはマシだ)
そしてシャイルにはモンスターの知識もある。
ブラウニーウルフというのは森に生きるモンスターで、そこはグラトニーウルフも同じである。
だからシャイルはわざと森の方を指して「逃げろ」と叫んだ。
違法奴隷達は狼に怯えてパニック寸前だった。だからシャイルが指した方へ馬鹿正直に逃げ出してしまう。すると、馬に夢中になっていた狼も、違法奴隷達を追いかけて森へ戻っていくではないか。
あとは森と反対側、草原の方に逃げるだけだった。
とはいえ狼は鼻が良い。一人だけ獲物が残っていることにも気付いていて、一匹だけ残っている可能性もあった。だが、シャイルにとっては幸いなことに、群れは少数だったらしく、狼は食いかけの馬すら放置していなくなっていた。
こうしてシャイルは、狼からも逃げることに成功したわけだが――彼の災難はまだ続いていた。
狼が違法奴隷達を全員噛み殺していつ戻ってくるか戦々恐々としながら、大事な金を急いで袋に詰め、草原に駆け出したその時、
「グルルルルルルルル――」
つい最近聞いた覚えのある唸り声が聞こえたからだ。
まさかと思い、来た道の方を見ると、大きな赤黒い熊がこっちに向かって走ってきていた。
アングリーベアーとの再会だった。
こうなってしまうともうどうしようもない。護衛達、馬、違法奴隷達、全部失っている。もう囮にできるものはない。あとは自分の足で逃げるしかなかった。
シャイルはそれでも諦めない。
草原を走った。
とにかく走った。
そして、すぐに転んだ。
何しろ馬車を走らせてばかりの毎日だ、日頃の運動不足が祟ったのだろう。
必死に起き上がった時にはもう遅い。背中に衝撃を受け、前方に吹っ飛ぶ。
もちろん、熊に一撃もらったからだが、大事な金の入った袋を背中に担いでいたのが幸いして、袋が破れただけで済んだ。
とはいえ、そんな小さな幸運も、大きな不運の前には意味がない。
勢い余って前転したシャイルが目を開けた時には、熊の凶悪な顔がすぐ目の前に迫っていた。
「ひいいいいぃぃ!」
情けない悲鳴を上げるシャイル。金でモンスターから命を買えるわけもないのに、最後に残った大事な金の入った袋を顔の前に盾みたいに掲げて、目をギュッとつぶった。
「――
ザインがシャイルを助けたのは、まさしくこの瞬間のことだった。
シャイルは死ななかった。
痛みが訪れないことを不思議に思い、恐る恐る目を開けると、熊はなぜか金の入った袋を噛んでいて、そのまま完全に止まっていた。
どういうことかと袋を置き、ゆっくりと身を起こすと、そこには熊の頭しかない。五メートルを超える体の方は、首から血を噴き出しながら倒れていた。
何が起きたかわからずポカンとするしかないシャイル。ザインが近づいても、シャイルはポカンとしたままだった。
ザインは相変わらず、ぱっと見、乞食にしか見えないボロ布をまとっていた。一応、下着は着ているものの、物価の高い皇都では一番安い古着を買うので精一杯だったからだ。とはいえ、どこか清潔感もあるため、乞食ではないことは誰もがすぐにわかるだろう。
金色の双眸がシャイルを映す。
「無事か?」
「ぇ、ぁ……」
人間というのは、本気で恐怖した直後には、とっさに声は出ないものである。
ザインは何も言わず待った。
「……ふぅ、ふぅ……あぁ、無事だ。大事な大事な金もな」
シャイルがようやく冗談交じりにそう言うと、ザインはただ「そうか」と頷いて、熊の頭を拾った。
「ふむ……まあまあの大物だな。これも多少は金になるか……」
どうやら、このアングリーベアーを旅費に変えるつもりのようだ。
「マジで助かったぜ、旦那。危うく死ぬとこだった。……ああ、あっしの名はシャイル。しがない商人でさ」
「ザインザード・ブラッドハイド。冒険者だ」
ザインはただ名乗られたから名乗り返しただけだったが、シャイルにとっては違う。
冒険者。
そう聞こえた瞬間、運の悪さはまだ終わっていなかったか、と天を仰ぎたくなっていた。
だが、落ち着いて考えると、護衛という名の盗賊も、商品という名の違法奴隷もシャイルは失っている。
違法奴隷商人だとバレる可能性は全くない。
だからか、こんなのん気な質問もできた。
「家名をお持ちとは、もしや貴族様か何かで?」
「いや、ブラッドハイド家は貴族ではない」
ザインの名前のうち、「ブラッドハイド」が家名だとわかる者がようやく誕生した瞬間だった。いや、これはラプラスとかクリスが悪い気もするが。
シャイルには全く聞き覚えのない家名だったが、とにもかくにもブラッドハイドの旦那に命を救われたわけだな、と一人納得し、普段はさして祈ってもいない神に感謝した。
少しの間だけだったが。
何しろ、これでザインに泣いてすがって領都マカロニまで一緒に行ってもらえれば、確実に助かると思い、ホッとして周りをよく見ると――なぜか違法奴隷達がいるのだ。
そう、囮にしたはずの違法奴隷達が。
シャイルの血の気が引く。
彼らの誰か一人でも「無理矢理奴隷にされた」とザインに訴えれば、シャイルは晴れて処刑台行きだ。もしくはその場で首をはねられる。
いったい、これはどういうことなのか。
実は、ザインは先ほどまで街道沿いで休憩していたのだが、森へ逃げ込んだ違法奴隷達が狼に追いかけられているうちに、偶然にもそこへ飛び出てしまい、そのうちの一人が助けを求めたのだ。
そして、旅費を稼ぐためにもと、襲いかかってきた狼を返り討ちにし、何でこんなところにみすぼらしい子どもばかり十数人もいるのかと周囲を見て回っていたら、シャイルが熊に襲われているところに出くわしたのだった。
なお、ザインに違法奴隷達を助けたつもりはない。助けを求めてきた一人を助けただけで、他の違法奴隷達までいるのは勝手についてきただけと思っている。
まあ、危険な目に遭ったばかりなのだ、狼の群れを呆気なく殺す者がいれば、そばにいたがるのは当然だろう。
(ついでとはいえ、あっしみたいなおっさんまで助けてくれるとは……どうやらこの旦那はずいぶんと「お人好し」らしい。違法奴隷商人だとバレても、一度助けた命を奪うようなことはすまい)
と、内心ニヤつくシャイルだが……やっぱりその日は運が悪かった。
「さて……貴様は確か、シャイルだったな」
「へ、へい、旦那!」
「貴様が違法奴隷商人であることはわかっている」
続いた言葉にシャイルはビクッとなった。
「俺がどこかの衛兵にそのことを告げ、こいつらの誰か一人でもそれを証言すれば、貴様は終わりなわけだ」
さらに続いた言葉にビクビクッとなった。
だが、ザインはお人好しのはず、命までは取られまい――そう思っていたため、
「そこでだ……代わりにそいつを寄こせ。それで黙っていてやる」
ザインがそう言ったことに、シャイルは非常に驚いた。
全員解放しろと言われなかったことも――ザインが指しているのが狐系獣人の少女だったことも。
少女は確かに見目は良かった。良かったというか、珍しかった。
何しろ髪も肌も真っ白で瞳は真っ赤。一般的な狐系獣人は金髪金眼であり、その中では間違いなく目立つ。言わずもがな、いわゆるアルビノである。
「ふぇ……う、ウチ?」
一方で、選ばれた当の少女はとまどっていた。突然のご指名だ、無理もない。
シャイルも不思議でならなかった。どうしてザインはその少女を選ぶのか。もっと言えば、その少女だけを。
繰り返すが、アルビノの少女の容姿は決して悪くない。むしろ違法奴隷達の中では良い方だ。
だが、違法奴隷達の中にはエルフの少女もいた。
そう、エルフである。誰も彼も見目麗しいことで有名なあのエルフだ。
他にも見目の良い者は二、三人いた。命を助けたのだ、見目の良い者は全員寄こせ、と要求してもおかしくはなかった。
だが、ザインはアルビノの少女だけを指名した。
もちろん、シャイルに否やはない。確かに高値で売れそうな「商品」の一つだが、アルビノの少女はただの拾い物だった。命には変えられない。
だから即承諾した。
契約魔法で主人をザインに変えるだけ。これくらいは違法奴隷商人には必須の技術だ。
「……これでよしと。……えっと……じゃあ旦那、すぐに他の奴隷は解放するんで……」
「ん? なぜだ?」
「へ……? そのガキ以外は要らないんじゃ……?」
「ああ、無論、要らん。が、なぜ解放する必要がある?」
ザインの言っていることをようやく理解した時、シャイルはニヤニヤ笑いと嫌な汗が止まらなくなった。
ザインは決して「お人好し」ではない。
むしろ、シャイルと同じ「悪人」だった。
ザインはこう言いたかったのである。「その狐系獣人の少女を寄こせ。あとは今まで通り違法奴隷として扱っていい」と。
アルビノの少女は、シャイルに対する人質――脅迫ネタでもあるわけだ。
「へ、へへっ、何でえ何でえ、旦那もこっち側だったか。いやあ良かった良かった、これで破産する心配もなくなった」
「こちら側というのが何かは知らんが……破産の心配がなくなったのなら何よりだ」
ザイン達がそんなやりとりをしているそばで、違法奴隷達は真っ青な顔をしていた。アルビノの少女はもっと顔色が悪かった。
何しろ、助かったと思えば、結局、前者は違法奴隷のままで、後者は明らかな「悪人」にもらわれるのである。天国から地獄に落ちた気分だろう。
「へっへっへ……しかし、旦那、ホントに他は要らんのかい? エルフもいるってのに」
「何度も言わせるな、要らんものは要らん。ましてエルフなど、目立って仕方がない」
なるほど、とシャイルは思った。
確かにエルフは目立つ。獣帝国ではエルフそのものが珍しい。それが奴隷ならなおさらだ。
一方で、アルビノの少女も目立つと言えば目立つが、それは周りが同じ狐系獣人ならで、色素の薄い獣人として見れば、そこまで珍しいものでもなかった。
だが、それはエルフの少女を選ばなかった理由だ。アルビノの少女だけを選ぶ理由ではない。
もちろん、ザインにはアルビノの少女だけを選ぶ理由がある。
一つ目は、ここで違法奴隷達を解放したとしても、元の場所に帰れるとは限らないからだ。
ザインは今、南方へ向かう旅の途中で、旅費も乏しく、子どもを複数人抱える余裕はない。さらに言えば、違法奴隷達を元の場所に帰すために自身の都合を捻じ曲げる気もなかった。
だから、違法奴隷としてこのまま領都に連れていった方がザインにとっては楽なのである。違法奴隷にとっては最悪だが。
シャイルを助けたことにも意味がある。何せ、違法奴隷達を商品として領都に入れるには、シャイルの奴隷商人という肩書きが必要だからだ。そうしなければ、今度はザインが処刑台送りになるかもしれない。
二つ目は、アルビノは獣人にとって恐怖の象徴だからだ。連れていれば何かと役に立つ、とザインは考えていた。
シャイルにはよくわからない理由だったが、アルビノの少女はかなり動揺した。
「よくここまで育ったものだ」「命がけで親が隠したか」「どうせもう独りきりだろうがな」と言われる度に顔色が悪くなり、
「鏖殺獣王」
そして、ザインがボソッと言った瞬間、ついには土下座した。恐怖で言葉すら発せなくなっていたアルビノの少女の、もう勘弁してくださいという精一杯の意思表示だった。
シャイルはドン引きである。する方にもさせる方にも。
そんなこんなでシャイルの不安は解消されたわけだが、問題がなくなったわけではなかった。
具体的に言うと、違法奴隷達を領都まで運ぶ手段がなかった。馬車は無事だ。だが、馬がいなければどうしようもない。
歩かせるしかないか、とシャイルが頭を悩ませていると、ザインが熊の死体に近づいた。
まさかあんな大きなものを持っていくつもりか、とおののくシャイルだったが、
「
ザインの足下から黒い何かが広がったかと思うと、その中に熊の死体が沈んでいくではないか。もはや度肝を抜かれたとしか言いようのない光景である。
シャイルの見間違いでなければ、その黒い何かは「影」だった。
その時、シャイルはとある疑問の答えに気付いた。ザインは凄腕の魔法師だったのだ。
ザインは武器を何も持っていない。だから、シャイルはどうやって熊の首を落としたのかがずっと不思議だった。だが、闇影魔法には「影空間」や「影収納」といった影の中に物を入れられる魔法がある。ザインが使っているのはそれだと結論付けたのだ。つまり、闇影魔法で熊の首を落としたと思ったのだ。
なお、闇影魔法にそんな高威力な魔法はない。どちらも「異端の影」の力である。しかも、異空間に収納するだけの闇影魔法と違い、「異端の影」の中は時間が停止しているため、腐る心配もなかったりする。
とはいえ、ザインにも熊の死体を人力で運ぶ気はないのは確かだった。
ちなみに、返り討ちにした狼も「異端の影」の中である。
熊を入れ終わったザインは、今度は狼共が食い残した馬に近づいた。
元々はシャイルの馬だったが、狼の食いかけに所有権を主張しても仕方がない。するがままに任せたのだが、ザインは「異端の影」に沈めなかった。
「
影が馬の死体を包んだかと思うと、全身真っ黒な馬の形に変わり、次の瞬間、本物の黒い馬になったではないか。
これには違法奴隷達もポカンである。
「う、馬が生き返った……!? 旦那、ネクロマンサーだったのかい!?」
そう、まさしく馬が生き返ったとしか思えない光景だった。
シャイルがネクロマンシーだと思ったのも無理はない。
「いや、これは影で体を代用しているにすぎん。言わば影武者――ただの偽物だ」
「へっ? 偽物?」
「斬ればわかる。血が出んのでな」
もう一度同じことをするのは面倒だ、と言って証拠を見せなかったが、ザインがそう言う以上、シャイルも違法奴隷達も、そういうものかと納得するしかなかった。
だが、そういう空気が読めない者もいる。特に子どもならなおさらだ。
「お馬さん生き返ったの……? じゃあ、お兄ちゃんも生き返る……? ねえ、生き返らせて……お兄ちゃんも生き返らせてよ!」
最も幼い子どもがザインのボロ布をつかんで叫ぶ。
(せっかく拾った命を捨てるバカなガキもいるんだな)
違法奴隷達は全員が助かったわけではなく、ザインが返り討ちにする前に狼に食い殺された者もいた。その幼い子どもの兄もそのうちの一人だった。
「なぜだ?」
「えっ……?」
「なぜ、貴様のためだけに、貴様の兄の偽物を造らねばならん?」
「だって……だって……!」
幼い子どもには、そんな理屈は関係ない。その後も「お兄ちゃんを生き返らせて」と繰り返したが、ザインは一切取り合わなかった。
理由はわかりきっている。
利がないからだ。
利がないから、アルビノの少女以外は連れていかないし、利がないから、幼い子どもの訴えは無視する。
逆に言えば、利さえあれば、違法奴隷商人のおっさんでも助けるわけだが。
徹底的に実利のみを追求する。
そういう者は善悪を気にしない。
あちら側もこちら側もありはしない。
だから善人だの悪人だので語ってはいけない。
シャイルもそれまでずっと勘違いしていたのだ。
では、そんな実利のみを追求する者を何と呼べばいいのか。
簡単である。
――悪魔。
ザインはまさしく、悪魔のような男だった。
その後、ザインとアルビノの少女がどうなったかをシャイルは知らない。
違法奴隷達をもう一度鎖につなぎ、檻に入れ、幌馬車にザインが創った偽物の馬をつないで、再び街道を走らせた。もちろん、ザインもアルビノの少女も一緒だ。
にもかかわらず、無事に領都の中に入ったら「さよなら」である。
一応、組まないかとも誘ってみたシャイルだったが、案の定、即断られてしまった。
今頃は海沿いの領地でも歩いていることだろう。
これはシャイルが後で知った話だが、狼に追いかけられたあの時、違法奴隷達のほとんどはザインに気付いていなかった。
まあ、そんな状況では、自分が助かることしか考えられないのは当然だ。
ところが、あのアルビノの少女だけがザインに気付き、「助けて!」とすがりついたのだ。
つまり、ザインに直接助けを求めた一人こそが、あのアルビノの少女だった。
案外、ザインがあの少女を選んだのも、そんな危機的状況でも冷静に周囲を把握し、他人に助けを乞えるところを買ったのかもしれない。
となると、シャイルが助けられたのも、大事な金の詰まった袋を盾にしてまで生き延びようとしていたからなのか。
まあ、生き汚ない者ほど長生きするものだ。そういうことにしておこう。
いずれにしても、それ以来、シャイルにとってアルビノの獣人は幸運の象徴になった。いつかザインに再会した時には、集めたアルビノ達を渡すつもりである。
あの時命を助けてもらったお礼です、と言って。
「あっしは悪人だし、旦那は悪魔だが! ハッハッハッハッハ!」
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