思い出 出会い

───十一年前───


 その頃、俺はようやく大学の入学金ローンを払い終えた。それは同時に、長く続くように思えた大学生活が終わりに向かいつつあるということでもあった。気付けば俺は毎日を忙しく動き回ろうとしていた。動いていればその間だけは、俺を吸い込もうとする未来の存在が少しだけ遠くなった。

 俺がその日寒空の下、レイキャビークの石畳を踏んでいたのもそういう訳だった。どこかに行くために歩いてるのではなく、歩くためにどこかに行っていたのだ。

 幸い、レイキャビークの街は歩いていて退屈することが無かった。いかにも北欧らしくカラフルな原色で塗られた家々は、まるで巨大なカップケーキみたいだった。霧と暮しの匂いは混じり合い、瑞々しい朝を俺の鼻に届けた。

 ふと、一軒の古本屋が目に入った。その店は灰色で、地味で目立たなかった。通行人の盲点にいとも簡単に潜り込んでしまう類の店だ。

 でも、それを見た時、俺は確かに何かがぴったり合わさる音を聞いた。俺はまるでそうすることが自然なように、見えない糸に絡め取られたように、その古本屋に入った。


 店に入って、俺は息を呑んだ。そこは本屋の素晴らしい部分だけを煮詰めたような空間だった。

 埃っぽい店内、高い天井、重い本棚。ずらりと並ぶ背表紙からは、紙とインクのひそひそ話が聴こえてくるかのようだ。熟成したセピア色の匂いが、柔らかく、暖かな光を投げかけている。

 俺は足音を立てないようそろそろと歩いた。大きな音を立てればこの空間が崩壊するような気がしたのだ。そんな張り詰めた厳粛な雰囲気が、ここの空気には混じっていた。

 次の瞬間までは。

 まず、「あっ」という声が聴こえた。そして声のした方を見ようとした時には、俺はもう尻餅をついていた。どさどさと何かが落ちる音が静寂に終わりを告げる。

 「ごめんなさいっ、」見ると、俺と同年代ぐらいの女性が同じ様に尻餅をついていた。栗色のカールした髪が印象的な女性だ。どうやら本棚の角で出会い頭にぶつかったらしい。

 「すみません……。」

 俺は呟きながら立ち上がった。床にはついさっき彼女が持っていたのであろう本が、ちょっとした砦を築いていた。俺は本を拾うのを手伝った。どれも有名な小説ばかりだった。

 一通り拾い終わった時だった。彼女が突然口を開いた。

 「あなた、本はよく読む?」

 「え?」

 俺は質問の意図を考えた。アイスランドの人々はよく本を読む。暗い極夜を少しでもハッピーに過ごすためだ。俺も本をよく読むが、それが人と比べ多いかと言われれば微妙なところだ。

 「……人並みだと思う。」

 「もしよかったら、私にオススメの本を何冊か紹介してもらえないかしら。私はほとんど本を読んだ事が無いの。何を読んだらいいか分からなくて、適当に選んでたらこんな量になっちゃったのよ。」

 「構わないけど、俺は君の事を何も知らない。君が何を好きなのかすら分からない。」

 「それでいいの。先入観なんて邪魔にしかならないんだから。」

 それが俺とクレアの出会いだった。


 この日から俺は毎日のように例の古本屋へ通った。雰囲気が好きなのもあったが、白状するなら彼女にまた会えるのではという思いもあった。

 彼女は不定期にやって来た。毎日来るかと思いきや、何ヶ月も姿を見せない事もあった。俺はだんだんクレアに会えない期間がもどかしくなった。彼女も同じだったようで、俺らはやがて本屋の外でも会うようになっていった。

 彼女は船の操縦が素晴らしく上手かった。俺らはよく小さな船を借りて、海に出た。

 好きという感情は莫大なエネルギーを孕んでいる。自分でも驚くべき事だと思うが、それまで舵に触れた事さえ無かった俺は、みるみるうちに船の操縦を覚えていった。

 クレアは俺に海を与え、俺はクレアに本を与える。そんな関係が気が付けば日常になっていた。二つの世界が一つに重なっていく美しさを、俺は体験し、観測していた……。

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航海先に発つ 彁山棗 @yansaco

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