下世話ないつも通りの飲み会の話
「……はい、試験終了の時間です。後ろの席の人は解答用紙を前に送ってください」
教授の言葉を受けて講義室内に弛緩した空気が流れる。最後尾に座っていた僕は前の席に用紙を渡すと、凝り固まった首をほぐすように回した。ちらりと隣を見ると、組んだ腕を前に伸ばしていた西園寺が視線に気がついて話しかけてくる。
「やれやれ、やっと終わったね。どうだった?」
とりあえず内容に沿って用紙を埋めたが、論述試験の感触なんて分かりようもない。資料の持込みができる試験だから採点は厳しくつけている可能性もあるし。
「ありえそうだね。去年新垣先輩が受けた時の話だと、講義はサボって試験だけ受けた新垣先輩は単位を取れて、講義に真面目に参加して資料を新垣先輩に融通した御上先輩は単位落としたらしいから」
御上先輩……。ああ、二年の。よく知らない先輩だが、時々笑みを浮かべていても目が笑っていなくて怖かった印象がある。
「ああ、新垣先輩も怖くてしばらく目が合わせられなかったって言ってたな。というか君、まだ先輩の顔を覚えきれてないのか」
先月まで同期の名前が怪しかった西園寺には言われたくない。
……とにかく、これで試験も全て終了だ。
大学に行くよりもパチンコに行くことを優先する優秀な大学生、北条が僕らに泣きついてきたのは前期試験開始の一週間前のことだ。
元より僕らを頼る気満々であった北条だが、友達のよしみで、なんて頼み方だったら僕は容赦無く断るつもりだった。だが、いつも金の無い北条にしては珍しいことに飲み会の費用を持つことを条件にしてきたので、それに免じて了承した次第である。
ちょうどよく解答用紙を回収し終えた教授から解散の合図が出たので手早く机の上を片付けて席を立つ。
「いつもは関係ないみたいなこと言ってるくせに、なんだかんだナツのことが気になるんだね。ナツの頼みを真っ先に請け負っていたし、良い兆候だよ」
同じく席を立った西園寺がにやけた表情で揶揄ってくるが、あの時早く承諾しなければどうなっていたやら。
「そりゃあ、巨乳は綺麗に土下座できるのかという人類史上の命題が解決していたはずだよ。もちろん全裸で。まったく惜しいことをした」
口惜しそうな表情を浮かべる西園寺に僕は呆れるしかない。
北条は僕たちに試験の助力を頼む際、飲み会費用の件とともにできることならなんでもする、なんて調子の良いことをのたまいやがったのである。その時の西園寺の反応に嫌な予感がしてすぐに頷いたのだが、やはりよからぬことを企んでいたらしい。
というか西園寺だって自前のものがあるのだから、そんなもの自分で確かめればいいだろうに。
「もっとでかいものが近くにあるんだからそっちのが良いに決まってるだろう?自分でやったらわかりづらいし」
しょうもない会話をしながら、一足先に全試験を終了させた北条と東雲が待つ休憩用ラウンジへ向かう。講義終わりの時間ということで人通りが多かったが、ふたりをすぐに見つけることができたので合流は早かった。
椅子の背もたれに身を任せ、天を仰いでいる北条の胸部が激しく自己主張していたからだ。
男女問わず行き交う学生の視線が問答無用で吸い寄せられていて、非常に目立っていたのである。
どうにも北条自身は自分の容姿が目立っていることに疎い節があるので、周囲の目なぞ気にしちゃいないのだろう。相変わらず防御力の低い女である。
一緒のテーブルに座っていた東雲がこちらに気がついて手を上げる。
「やあ、ふたりともお疲れ様」
「お疲れ~……」
北条も反応は返してくるものの、天井を見つめたまま微動だにしない。試験をとりあえず乗り越えて精も根も尽き果てたらしいのはわかるが、さっさと姿勢をただして欲しい。
「そっちもお疲れ。ナツは完全に燃え尽きたみたいだね」
「まあ、夏希もここのところ課題に試験対策に大忙しだったから。待ってる間ずっとこんな感じだったから注目されてしょうがなかったよ」
「なるほど。それはけしからん。うん、けしからん……」
北条の胸から目を逸らさずに相槌を打つ西園寺に東雲が苦笑する。当の北条はふたりの話を聞いているのか聞いていないのか、虚な目をして天井を見つめたまま弛緩していたが、大きく伸びをすると体勢を戻して会話に参加する。
「さあて、試験も何とか終わったし、さっさと帰ってぱあっとやりましょ!今日は飲まなきゃやってらんないわ!」
それは駄目だったやつが言う台詞じゃないだろうか。
「……たぶん大丈夫だと思ってはいるのよ。たぶん」
あまりにも不穏な言い草に思わず突っ込むと、北条はついっと目を逸らしながら小さな声で弁解する。
ううん。普段の行いだとか、生活態度だとかを見ていると不安しかない。まあ、どうせまだ一年目の前半だ。しくじったらしくじったで、後期から心を入れ替えて頑張れば卒業できないことはないだろう。
「知ってるかい?うちのサークルは留年が多いから卒業までに平均して五年かかるらしいよ。文芸サークル部員なんてだいたいボクらと同じ文学部だから、この数字は学部の平均卒業年数と言って差し支えないんじゃないかな」
「流石に全体がそうだとは思いたくないけど……。夏希以外の三人が四年で卒業すると考えたら……、八年かあ」
五年目からは僕たちのフォローが無くなると考えたらないでもない数字じゃないだろうか。
「その計算は流石に酷くない!?留年なんかしたら家からたたき出されるし、そんなことになる前に真面目になるって!」
本当かなあ。
まあ、駄目な時は北条がホームレスになるだけだし問題なかろう。
「そうなったら真っ先にあんたに寄生してやるからね」
別に僕のせいじゃないのに理不尽では?
「まあまあ、そんな先の話は実際にやらかしてから考えればいいじゃないか。今は目先の飲み会を優先しよう」
「やらかさないってば!」
抗議する北条の言葉を適当に流しながらその場から移動する。そのまま大学を出て山を降りるつもりだったが、東雲が喫煙所への寄り道を主張したためそこからの下山となった。まあわりかしいつものことである。
校舎を出ると、夕方であっても七月末の太陽が容赦なく照りつけている。流れ出る汗に不快感を覚えながら駅前へ向かう。
「こりゃあだめだ……。君、ちょっと先に家に帰って冷房入れておいてくれたまえよ」
「ついでにシャワーも入っておいてよ。どうせ私たちが帰ったら順番待ちになるだろうし」
うんざりした表情の西園寺と、汗をかかない体質故に見た目の変化はなくとも熱を身体に溜め込みやすい東雲の提案に乗っかり先に部屋に戻ることにする。体型上最も汗に弱い北条も先に帰りたいと駄々を捏ね始めたが、出資者が逃げられるはずもなく、西園寺と東雲に引きずられてスーパーへ消えていくのを見送りひとり部屋に急ぐ。
部屋に到着してすぐクーラーをつけると、シャワーを浴びて汗を流してから冷蔵庫の中の残り物で簡単なつまみをでっち上げる。たいしたものは作れないが、小食な僕以外の三人が何気によく食べるのでつまみはあればあるだけいい。
西園寺はお酒の食欲増進効果でたくさん食べるし、北条はカロリー消費が激しい体型で多く食べる。東雲もバイトのために節制した方がいいんじゃないかと思うぐらい食べるが、本人曰く、運動と両立はできているらしい。
雑なつまみを用意している間に三人が買い物袋を抱えて部屋にやってきた。
「ふぁああ。涼し~……。生き返るわあ」
「やれやれ。やっと戻ってこれたか」
「それじゃあ、シャワー借りるよ」
使うのはかまわないからこの場で脱ごうとするんじゃない。
「どうせすぐに脱ぐのに……」
脱ぎ捨てたシャツを回収しながら、心なしか不満げな表情をする東雲。
お前僕が急にこの場で脱ぎだしても同じこと言えんの?
「その時は歓迎するよ」
どの視点からものを言ってるんだよ。脱がないからちょっと嬉しそうな顔するな。はやくシャワー浴びてこい。
一転残念そうな顔をして洗面所へ消えていく東雲を見送り振り返ると、西園寺は荷物を片付けるよりも先に冷蔵庫から発泡酒を取り出して豪快に煽っているし、北条はテレビをつけて最近お気になアニメを垂れ流し始める。その後は怠けずちゃんと飲み会の準備を始めたのだが、優先順位のおかしさにため息しか出ない。
しょうもないトラブルはありつつも、三人が代わる代わるシャワーを浴びるのを待ってから全員でテーブルを囲む。
テーブルは、たばこを吸うためにベランダに居座りがちな東雲とも会話をしやすいよう窓際に寄せるのが我が家での最新飲み会スタイルだ。
「おお~買ってきたおつまみ以外にも色々あるじゃない!」
シャワーの順番が最後だった北条がテーブルの上に並んだ品々を見て目を輝かせる。どうせ惣菜系とか乾き物しか買ってこないだろうと見越して豚しゃぶサラダやら冷や奴やらを出したのだがお眼鏡にかなったらしい。
「ナツが軍資金を出した上に家主がそんな準備をしてたなら、こいつを買ってきて正解だったな」
そう言って西園寺が取り出した数本の酒瓶をテーブルに置いた。
酒瓶のロゴにはプレミアムリッチだとか純金箔入だとか豪勢なことが書いてある。スパークリングとなっているのでワインかと思ったがどうやら日本酒らしい。
「たいして高いものじゃないけど、お祝いっぽいから買ってきたんだ。日本酒だけど味は甘くてアルコール度数が低いらしいから夏希も飲みやすいと思うよ」
「ホント?甘いやつなら試してみようかな〜」
せっかくなので乾杯酒はこれにしようと各員のグラスに注がれる。
うちでの飲み会にとりあえず生は存在しない。僕がビールを飲めないので。
「それじゃあ、我々は成人しているので以下略というわけで、前期試験お疲れ様。乾杯!」
雑に省略された西園寺のいつもの口上と共に酒の入ったグラスを打ち付け、中身をぐいっと呷った。
*
……うん?
酒と和らぎ水をしこたま飲んで尿意を催したのでトイレに入ったところ、見慣れない物を発見した。
我が家のトイレには便器の後ろ側に棚が備え付けられていて、そこにはトイレットペーパーを置いていたのだが、トイレットペーパーの隣にカゴが置かれている。
脱衣カゴみたいな大きさはないが、小物入れというほど小さくはない。
部屋に帰ってすぐ入った時にはこんなものは無かったはず。飲みの準備をしている間にやつらの中の誰かが置いたのだろうか。
トイレに置かれている時点で謎だが、サイズにしてもどんな物を入れるための物なのか想像つかない。
好奇心からカゴの中を覗いてみるとビニール包装された何かが詰められている。物に見覚えはないが、ぱっと見た感じはポケットティッシュに近いだろうか。
それが何か、しばらく考えて合点がいった。
僕以外で誰が置いたかということと、置かれた場所から考察すればなんとなく話は見えてくる。
状況は理解した僕は、酒が入って判断力が鈍っていたこともあり、よせばいいのに家主として三人にきっちり言っておかねばなるまいと考えてしまった。
……後で思い返してみれば、これはとんでもない悪手だった。
用を足してトイレを出てから、テーブルを囲んで良い感じにできあがっている三人に対して抗議した。
「……んぐ。そうは言ってもね。ボクたちとしてもこの部屋に連泊したりするのに、生理用品も常備していないのはいただけない。花も恥じらう乙女としては人の部屋を鮮血で汚すわけにはいかないよ」
乙女はそんなこと堂々と主張しねえよ。
口に含んでいたスルメを冷酒で流し込んでから恥じらうでもなく平然と主張してみせる西園寺に突っ込みを入れる。既に日本酒とビール缶を何本か空けているはずなのだが、まったく堪えた様子はない。相変わらずザルなやつである。
「というか、下着の洗濯とかお願いしてるのに今更じゃない?汚れ物って意味では目に見える分もっと直接的だと思うけど」
隣で聞いていた東雲が口を挟んでくる。こいつも飲んでいる割に表情が変わらないが、顔に出ないだけでアルコール耐性は普通……らしい。
素面みたいな顔でエグいことを言うな。汚れ物とか生々し過ぎるわ。そんなもん同世代の男に洗濯させるんじゃねえ。
「デリケートな部分を覆ってるんだから汚れて当然じゃないか。生々しいなんて事はない。それに、これは配慮だよ。君に洗濯を任せることでボクたちはいつでもオカズに使ってもらって構わないという意思を示しているのさ」
使わない。
……ん?もしかしてお前らそれが宿代になると思ってる?
「え?違うの?ハルちゃんからそれだけ許容できれば入り浸り放題って聞いたんだけど」
僕の疑問に、酔いに顔を赤らめふにゃふにゃになっていた北条が反応する。他二人が表情も変えずに酒を飲むタイプ故にペースやら酔い具合やらが全く読めないので、分かりやすく酔っ払ってくれる北条がいなければ僕は気が狂っていたかもしれない。
というか、そんなわけ無いだろうが。むしろそんな条件呑んでんじゃねえよ。
「冗談よ冗談!あんたがそんな条件で許可出してるとは思ってないって!」
そう言って北条はけらけらと笑うが、実際に僕に提案した実績のある西園寺はにこりともしていない。
「けどまあ、実際に使われたとしてもちゃんと洗濯してくれるなら許容範囲じゃないかな。きれいに返してくれれば実害無いし」
「え~。頭に被ったりとかされるとゴムが伸びちゃわない?」
被らない。
いったいどんな使い方を想定してるんだよ。
「そうねえ。例えば、被ったりこすったり、後は嗅いだりとか……」
「自分で穿いたり、口に含んだりとかもできるね。意外と使い道あるなあ」
「うわあ、口に入れるのは流石にやめて欲しいわねえ」
好き勝手に盛り上がり始める北条と東雲。自分の下着の使い道でよくもまあここまで話を弾ませられるものだ。
「そうは言っても、実際ブラのサイズを確認するぐらいはやってるんだろう?正直に言ってみたらどうだい?」
にやにやといやらしく笑いながら西園寺が聞いてくる。
こいつ、あえて答えづらいことを聞きやがって……。しかしこういう時に日和って曖昧に濁したり誤魔化すのは悪手だ。弱いところを見せれば嵩にかかって弄ってくるに違いない。
だからこそこういう時は臆面もなく肯定してみせるほうがいい。
だいたい、シャツぐらいならともかく普段見慣れない下着類はそういう手がかりがないとどれが誰のものか判別できないのだ。まあひとり極端なサイズで分かりやすいやつもいるが。
「またまた、そんな言い訳みたいなこと言わなくていいじゃないか。女の下着に興味を持つなんて健康的な証拠じゃないか。ボクは時々、ひょっとして君は枯れてるんじゃないかと危惧していたけど、いらぬ心配だったとわかって安心したよ」
しかし
いや、こいつの場合酒が入っていなくとも同じ言動をしていただろうけれど。そしておそらく否定してみせてもまた違った煽られ方をしたに違いない。
そんな心配されるいわれはない、と僕が反論するよりも先に、何故か北条から声が上がる。
「ああ、それは大丈夫よ」
「やけに断定的だね。何か理由でもあるの?」
意外そうな表情で問う東雲に北条が自信満々に語り始める。
「この前泊まった時、寝ぼけてこいつが寝てるベッドに潜りこんだことがあるんだけど、ついうちで使ってる抱き枕に抱きつく感じでがばっといったら、こいつの股間に良い感じに膝を入れちゃって……。そん時膝に感じた固さは紛れもなくヤツね」
「なるほど。自制心の塊みたいな君でも、夏希に抱きつかれたら正直にならざるを得なかったんだね……」
あの時はほとんど朝だったからただの生理現象だし、僕は普通に寝てたんだよ!むしろ痛みでたたき起こされたわ!
生暖かい目でこちらを見る東雲に訂正を入れるが、被害者のはずの僕がこんな説明をさせられることに理不尽さを感じる。
「おいおいおいおいおい!同衾イベントなんて、そんな楽しそうな話があったなんて聞いてないぞ!ボクだってナツと同衾なんてしたことないのに!!」
そんな会話の流れと関係ないところに反応して西園寺が騒ぎ始める。
「それは春香が普段からセクハラまがいの行動をしているのが悪いんじゃないかな……」
「馬鹿な!ボクがいつそんなことをしたっていうんだい!?」
「確かに露骨にセクハラっぽいことはされてないけど、酔ってる時のハルちゃんのボディタッチは電車で痴漢してくるおっさんぐらいいやらしさを感じるのよねえ」
「わかる」
うんうんと頷き合う北条と東雲。確かに傍から見ていてもおかしな手つきしてるなと思っていたが……。
そんな女とよくぞ友達やっていられるものだ。
「そ、そんな……。……ん?ナツ、痴漢とかされたことあるのかい?」
僕たちの会話に慄いていた西園寺が、余計なところに食い付いた。そういうところが悪いのだと思うが、言ったところで改善されるとは思えない。
「大学入ってから何回かね~。大体触られた時に思わず声が出ちゃって、すぐに辞められるか近くの人が捕まえてくれるんだけど」
「ふ、ふ~ん、声を?ど、どこを触られてどんな声を出しちゃったのかナ?」
同性の西園寺が言ってここまでキモいなら、男が言ったら間違いなく事案だろうなと思っていると、北条は意外にも素直に答える。
「まあ、大体満員の電車の中だから触られるのは太ももとかお尻かなあ。触られた瞬間マジでゾクッとするからさ。ひゃあ!とか、ぎゃあ!とか声出しちゃって」
とても口には出せないが色気のない声である。
西園寺も同じことを思ったのか微妙そうな顔だ。
「私も大学に通うようになってからよく電車に乗るようになったけど、まだ痴漢された事はないなあ」
北条の経験談を聞いて東雲が口を開く。見た目が良いからといってそうそう痴漢なんかされるものではないだろう。大学入って数ヶ月で何回も経験ある北条が異常なのだ。
「ボクも高校時代に何回かはあるけど、そんな頻繁にはされなかったなあ」
「それでも何回かはあるんだね」
「家から遠い私学だったから電車に乗ってる時間も長かったし、三年で数回だから大したことでもないよ。やはり世の男性もナツの身体には抗いがたい魅力を感じているということだね……」
そのキモい言い方なんとかならない?
このまま痴漢トークなんぞで盛り上がられると唯一の男子たる僕が気まずいだけなので、大分逸れていた会話の軌道修正を試みる。
とにかく、我が家に生理用品だとかを常備するぐらい長居しようとするんじゃない。
「え〜。あたし、夏休みになったらこの部屋にこもってアニメ一気見しようと思ってんだけど」
僕の言葉を聞きつけて北条が抗議の声を上げる。
そんなものは家で見ろ家で。わざわざここで見る必要は全くないだろうが。
「そのアニメ、全部で百話以上あるのよ。プラス外伝も出てるから全部見終えるのに一週間以上は確実にかかるわ。そんな延々とアニメ見てたらママにどやされるじゃない」
知らねえよそんな都合……。
「私も友達と遊んだりこっちで予定がある時に泊まらせて欲しいんだけど……」
僕たちのやり取りを見て東雲が手を上げる。
まあ、ちょっとぐらいなら考えないでもないが……。いつの予定なんだ、それは。
僕の問いに東雲はスマホを手に取る。
「ええと……。八月の二日と三日は他所で泊まりだからいいとして。六日と八日と九日と……」
待て待て待て!予定多過ぎだろう!
なんでそんなにここに来る予定が生えてくるんだ。
「流石に休暇後半は未定だけどね。同じゼミの友達とか、学部の友達とか高校の友達とか、方々で約束してたから。後は詩織とも会う予定だよ」
詩織……?
文脈から察するに、東雲から見て僕が知っているであろう人物なのだろうが、女性の知人など覚えもない。
「才藤詩織だよ。君と同じ文芸サークル部員でしょ?」
才藤……。ああ、目つきのきついあの……。
そこまで聞いてようやく誰のことを言っているのか思い当たった。佐川君とかが騒いでいる時によく手厳しい突っ込みを入れている人のことだろう。この四人の中でも特別交友関係の広い東雲であるが、まさか文芸サークルにも友人がいるとは思わなんだ。
「この流れさっき大学でもあったな……。先輩の名前は覚えてなくともせめて同期の名前は覚えていて欲しかったね」
「こいつにそんな聞き方しても分かるわけないでしょ?苗字も怪しいのに名前なんて覚えてる訳ないじゃない」
「そういえばそうだったね……。ごめんごめん。もっと配慮するべきだったよ」
東雲が意地悪く笑うでもなく普通な感じで謝ってくるので、揶揄われているのか真面目に謝罪されているのか非常に分かりづらい。どちらにしろ馬鹿にされているような気がしなくもないが、北条の指摘した通りなので反論することもできなかった。
だが西園寺には言われたくない。
とにかく、そんな何日も泊めることはできない。
そもそも、その辺の時期は文芸サークルの合宿があるからこの部屋は閉めることになる。諦めて自分の家に帰れ。
「え~!それは困るわよ!あたし留守番してるから部屋にいさせてよ!」
断る。お前達がいる間も電気代とかはかかるんだぞ。後、自分のいない家に人を置いておくなんて座りが悪すぎる。
「そこをなんとか。多少の宿泊費ぐらい出すし、ベッドの下は覗かないって約束するからさ」
ベッドの下を覗いても何も出てこねえよ。
駄目です。夏休み中は大人しく退去するように。
「嫌!」
嫌じゃない。
僕は脳死で幼稚園児みたいな反抗をする北条に断固とした態度で臨む。
ここでそんな事を許したら四六時中僕の部屋に居座ってただでさえ少ない僕のプライベートが完全に消滅しかねない。
「別にいいじゃないか。どうせ君は友達と遊ぶ予定もないというか、他所で遊ぶ友達すらいないじゃないか。大学の長い夏休みを独り寂しく過ごすよりは、可愛い女の子を取っ替え引っ替え侍らせてる方が健全というものだよ。ボクも合宿の準備はここでしたいし」
取っ替え引っ替えも侍らせもしてない。
西園寺の言う合宿の準備とは合宿中に執筆する小説のプロット作りの事だろう。事前に作った上で合宿初日に大林先生に見せなければならないのだが、案の定まだ準備ができていなかったか。
まあ僕もできていないのだけれど。
西園寺は自分も部屋を使いたいってだけじゃねえか。それこそ自分の家でやれ。
「うちは邪魔が多いから集中できないんだよ」
どうせここにいたら酒飲み始めてろくに作業進めないだろうが。
「だからいいんじゃないか。酒が入ってる方が集中できるのさ、ボクは」
ええ……。
どう考えても西園寺の思い込みである。アルコールに脳を溶かされすぎてアルコールが入って集中力が増すはずないだろうが。
「実際できてるんだからできるんだよ」
そんなわけあるかよ。
そもそもお前等、うちに通いすぎなんだよ。人のこと友達いないとか馬鹿にしちゃあいるが、西園寺と北条だって友達いないじゃないか。
「友達ならいるさ。ここに三人ね」
そんな事言い始めたら僕と北条も条件同じだろうが。この部屋にいるメンツ以外で挙げろ。
「友達は数じゃなくて質だよ。しかし、ついにボクたちのことを友達と認めたね」
友達を質で決めるのも問題だろう。後、余計な揚げ足をとるんじゃない。とにかく今日は許すけど、明日になったらちゃんと帰れよ。
「ううん、強情だなあ」
そりゃあ強情にもなる。
大学に通っている間はなんだかんだ一人になるタイミングがあったが、夏休みともなればこいつらは誰かしらが部屋に居座るだろう。友達と遊ぶ東雲やパチンコに行く北条はともかく、部屋で酒浸りな日々を送りそうな西園寺は四六時中部屋にいてもおかしくはない。
こっちの性別を忘れているんじゃないかというぐらい遠慮のないやつらを相手にしていると、精神というか、理性がごりごりと削られてしまう。
もういっそ色々と開き直った方が気持ちが楽になるような気がしなくもないが、後々に想定される災難を考えれば、下手なことはできない。
人間関係の変化は環境の変化だ。環境を変えるというのはどういった理由にかかわらずいらぬ体力を消耗するものである。そんな疲れることを自分からするのは僕の信条に反する。
今まで培ってきた性分は中々変えることはできないのだ。
なので、夏休み中の穏やかな生活を守るために負けるわけにはいかない。
僕は決意を新たに抗議する面々と相対した。
「ふむ。しかし、ボクとしても合宿にプロットを間に合わせるためになりふり構うわけにはいかない。こんなことはしたくなかったが、強硬手段で行こう……」
やれやれと言わんばかりに首を振ると西園寺は高らかに宣言する。
「一度閉め出されたら部屋に侵入するのは難しい。ここは籠城戦術を取るとしよう。ボクたちはこの部屋から一歩も出ないことにする」
おいおいおいおいおい!
無茶苦茶なことを言い始めた西園寺に僕は思わず声を上げる。
そもそも試験終わりにこの部屋に向かったので、長期にわたって泊まり込む準備など皆無なはずだ。
「スマホがあればプロットの準備ぐらいはできるからね。流石に同じ服を連日着回すことはできないが、なに、どうせ部屋を出ないんだから裸で過ごしたっていいんだ」
よくねえよ。
当たり前のように語る西園寺に僕は突っ込みを入れるが、北条と東雲は阿呆みたいな言葉に理解を示した。
「なるほどね~。あたしもアニメ見るだけなら引きこもってるだけだし」
「私は人と会うから難しいかな……。いや、彼の服を借りればいけるか。背丈もほとんど変わらないからね」
下着はどうするんだ!?
思わずしょうもないツッコミが口を突く。
「下着も借りるよ。ブラは……、まあ友達と会うだけだから無くてもなんとかなるよ」
当然のようにそんなことをのたまう東雲に頭が痛くなってくる。西園寺や北条と出かけるならともかく、ここ以外の場所でそんなことして問題ないと思っているのだろうか。
「どうせ出かけるならブラだけでも買ってくるとかすればいいじゃない。というか、誰かひとりでもこの部屋に常駐すればいいんだから交代で荷物取ってくれば問題なくない?」
「ああ、それもそうだね」
「彼に圧をかけるためにあえて籠城するつもりでいたけど、確かに人前に出るシノに下手なことはさせられないなあ」
僕に圧をかけるためだけに馬鹿みたいなことをするんじゃない!
「しかし、そうでもしないと君は素直に泊まりを認めてくれないだろう?」
そんなことのためにそこまでするなと言ってるんだよ!
「一応、君が粘った時の第二案としてナツとシノに君がプロットを練るのを妨害させるというのもあるんだけれど……」
「よくわからないけどつまり、羽交い締めにして拘束すればいいのね!」
「ふたりがかりで拘束していれば作業はできないだろうね」
「いや、それはそうなんだけどこれは誘惑的なヤツでね……」
あまりにも身体を張りすぎである。
……わかった、わかりましたよ。うちにいてもかまわないからせめてちゃんと生活してくれ……。
白旗をあげた僕に三人はいえーい、とハイタッチ代わりにグラスを打ちつけあう。
毎度のことながら僕の負けだった。こういう脅迫にもなっていない脅しに強情な態度を維持できないのが僕の弱いところである。
……まあ、いいか。
こいつらも夏休みの間ずっとこの部屋に引き篭もるわけではないはず。この後に待ち受ける合宿の辛さに比べれば許容範囲内ということにしよう。
そんな言い訳を自分に聞かせつつ、僕はグラスの中の酒を呷った。
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