2 サピア・ウォーフの仮説

 アマゾン熱帯雨林に居住するさまざまな先住民族のひとつとして、〈ピダハン族〉と呼ばれる人たちがいる。


 400人にも満たない少数民族である彼らは固有言語である〈ピダハン語〉を操る。この言語は我々の常識からするとにわかには信じがたいいくつかの特徴を(あるいは欠落を)備えている。例えばピダハン語には、〈右や左〉を表す語彙がない。個別の〈色〉を示す語彙もない。〈過去形〉や〈未来形〉といった文法構造もない。我々が当たり前に思い、その区別があることが当然と考えているいくつかの概念について、彼らはそれを識別するための言葉を持たない。


 そして何より重要なことに、ピダハン語には〈数〉がない。


 細部に立ち入らず、ごく大雑把にいってしまえば、ピダハン語には〈1〉と〈2〉を意味する言葉はある。そのふたつは区別される。そしてそれより多いなにがしかの量に対しては、〈たくさん〉という言葉を持っている。そして、以上。彼らが量について持つ言葉は、わずかにこのみっつだけ。〈1、2、たくさん〉。それが彼らの持つ〈数〉のすべてとなる。

 そして彼らが持たないのは〈数〉の語彙だけではない。その〈概念〉についても、彼らは持ち合わせてはいないのだ。


 どういうことかといえば、彼らは〈たくさん〉のなかの数を区別しない。たとえば7と8というふたつの量的差異を彼らは区別しない(あるいはできない)。そのことは実験でも確認されている。

 具体的には、まず7つの乾電池を並べて見せる。そのあとで、同じ数の乾電池を被験者の手で並べてもらう。そんな単純な試験にも、彼らは驚くほど悩み、苦戦をし、そしてしばし回答を間違える。彼らは同じ実験でも〈3個〉までの数であれば、ほぼ確実に正答する。しかしそれを超えると、あからさまに正答率が落ちる。7と8、あるいは3と4でさえ、彼らにとっては違いを感じ取ることが難しい。彼らは7を示す語彙を持たないだけでなく、それが意味する概念さえも、普段着のようにごくありふれたものとしては持ち合わせていないのだ。


 そんなはずはない、と誰かがいうだろう。

 仮に7という言葉がなかったとしても、その概念まで持たないことになるとは到底思えない。7という言葉に頼らずとも、人間には当たり前の理性として、いわゆる〈7的感覚〉を備えていると考えるほうが自然に思える、と。

 気持ちはわかる。そう感じるのが当たり前だ。でもそれは、きっと〈偏見〉なのだ。


 〈7〉という概念を、〈7〉という数字を用いずに説明することは可能だろうか?


 曜日の数だ、と誰かがいうかもしれない。たしかにそうだ、間違っていない。でもそれは、説明というよりは言い換えに近い。じゃあ曜日の数とはなんだろう、と切り替えされたらけっきょくうまく答えることはできない。〈7的感覚〉を、分析的に記述しているとは言い難い。

 〈7〉という数を、数字を使わず〈分析的に記述〉すること。ふだんまるで意識しないことだが、いわれてみるとそれはたしかに難しい。簡単にできるような気がするのに、いくら考えてみてもうまいやり方が思いつかない。そう、実はそれはひどく難しいことなのだ。当たり前のように理解していると確信しているのに、それを分析的に表現することは、我々が想像する以上に、実際には困難なことなのだ。


 でも、考えてみるとこれはかなり奇妙だ。分析的に理解できていないものごとを、我々はどうして〈当たり前のように〉理解していると感じるのだろう? その概念を、苦労なく取り出すことができるのだろう?


 【7】という〈言葉〉のおかげなのだ。

 我々は【7】という言葉によって、〈7的感覚〉を明示的に把握することができているのだ。


 言語学のテーマに〈サピア・ウォーフの仮説〉というものがある。

 批判を承知でごく噛み砕いて説明すれば、【ある人の〈認識〉や〈思考〉というものは、その人自身が道具として使用する〈言語〉に強く影響される】ということになる。


 身近な具体例をあげよう。〈青い〉という言葉がある。特定の色を表す言葉だ。どんな色? ブルー、海や空の色、ラピスラズリの色、特定の人種の瞳の色、紫陽花の色、コンロの強火の炎の色。そうイメージする。少なくとも、現代日本の我々にとっては。

 でもかつて、この言葉はそれ以外の色のことも含んでいた。〈青菜〉とか〈青虫〉という言葉がある。でもこれらの色はブルーではない。グリーンだ。そう、古い時代には〈あおい〉という言葉はむしろ〈緑色〉のことを指していた。〈青色〉〈緑色〉という言葉で区別をするようになるまでは、これらの意味合いはおなじ〈あおい〉で統合されていた。

 もちろん当時の人たちが海の色と青虫の色をおなじものとして見ていた、とはいわない。生物学的に見れば可視光線の波長の違いは彼らにだって明確だったはずだ。でもそこに存在する〈違いの感覚〉は、現代日本の我々が持つものよりも小さかったかもしれない。少なくとも、それらを区別する必要性はあまり強くは感じていなかった。だからこそ、長いあいだおなじ〈あおい〉という言葉で済ませることができたのだろう。


 ピダハン族にとっての〈7〉と〈8〉も、おそらくはそういうことなのだ。


 それらはおなじ〈たくさん〉であり、強いてそれを細かく分類する必要を感じていないのだ。たぶん彼らの生活する、小規模なアマゾンの社会においては。

 〈たくさん〉という感覚こそがむしろ自然なものであり、【7】という特別な用語を用意することでしか、〈7的感覚〉を身につけることはできない。そんなふうに考えることもできる。そのようにして捉えたとき、我々がふだん当たり前のようにごく自然に存在していると感じる〈数〉という概念の、見方自体が大きく変わる。あまりに強く支配されていた、その〈偏見〉を再考する機会が与えられる。〈数〉はきっと、当たり前に存在する自然由来の概念などではない。


 〈数〉は人工物なのだ。

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