第4話

「僕の恋人は、随分、可愛らしい人だと思わないかい。石矢いしや君」

 いつになく、上機嫌である。二人で、白砂の湖畔に立つ。海のように、打ち寄せる波。湖上には、観光用フェリー。湖水にせまる山の端。

「何だ、知らなかったの。坂木さかき君」

 こいつ、馬鹿なのかと思われていることだろう。今回の旅の課題図書。『パッチ・アダムスと夢の病院』。

「だってね、色気のある誘い方をしろと言ったら、この本を赤面しながら渡してきたのだよ」

 ふっと、息を吐く。

「そう言えば、くれさんの父親は、研究者でもあったっけ…」

 含み笑いする。すると、背後から足音が近付く。四木しきタロウと少女。楽器のケースを肩にかけている。そして、ロビーで会った少女。手の中には、文庫本。

「この本、まだ借りていていい?」

「いいよ。あげる。でも、捨てないでね」

 少女は、頷いた。

「実は、今の月岡つきおか学園になったのは、パッチ・アダムスのその本の思想によるものなのだよ。月岡というのは、私の娘、あおいの母親だね。あの子がかつて過ごした場所で、今は碧の父親が医師として働いているが。月岡は、元々、女児のための長期療養施設だった。それは、感染症による隔離のためだったり、意志薄弱な娘を性的悪戯から守るためだったり、あるいは死を待つだけだったりした。要するに、サナトリウムだね。だから、パッチ・アダムスの思想は画期的だった。その本を読めば解るが、夢の病院とは、学校でもあり、居場所そのものでもある。そうして、いつしか、月岡はギフテッドと呼ばれる少女たちの楽園となった」

 少女は、月岡の生徒なのだろう。俯いて、唇を噛んでいる。顔を上げて、四木タロウの服の裾を掴む。

「これ、弾いてちょうだい」

 腕を伸ばして、『白夜を旅する人々』の下になっていた本を見せる。『いちご同盟』。

「ああ…」

 私は、得心した。確かに、コンサート会場でリクエストするには、勇気のいる曲だ。「亡き王女のためのパヴァーヌ」。四木タロウは、ヴァイオリンを取り出す。重い旋律に、夢見るような少女。暗さと明るさが反転する。行ってしまう。私は、いや、我々は理解していた。

「私、フェリーに乗ってくるね!」

 少女は、弾むように歩いていった。

 馬鹿みたいに立ち尽くす男性陣。

「あの子、きっと…。いいのかな…」

 石矢君が、ぽつりと呟く。

「いいさ。お別れは、済ましたから」

 くるりと踵を返す四木タロウ。病児のためのコンサート。きっと、今までも、送ってやることがあったはずだ。

「ここが良いのはね、沈んだら浮かび上がらないところだよ。きっと、湖の奥深く、綺麗な蝋燭の身体になることだろうね」

 私との出会いが、あの本との出会いが、あの子の救いになってくれたらいいと強く願った。


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