第5話 ゆかりの部屋

 玄関からゆかりの部屋まで、何歩だろう。そう思うくらいに遠い。

「勉強するから誰も来ないでね、気が散るのが嫌だからって、だから誰も来ないよ」

 長い廊下を歩きながら、ゆかりが明るく言った。

 用事があるときは、お手伝いさんを内線で呼ぶとか。初めてゆかりの家に来たとき、びっくりした。

「ゆかりの部屋が南側でよかった。南側の窓を開けておかないと、キューピッド様が来ないんだって」

 絵美がネットで調べてきた知識をゆかりに話している。

「さすがに学校じゃできないもんね」

 ゆかりは絵美と話しながら盛り上がっている。

 絵美とゆかりはどこまで信じているんだろう?

 ゆかりの部屋のドアを開けた。

 千紗がいた。椅子に座ったまま、うつむいている。

 絵美が、「千紗、なんだか元気ないね?」と千紗の背中を軽くたたく。

「そんなことないよ」と、千紗は言ってるけど、顔色はよくない。

「ふうん、千紗は怖いんだ?」

 ゆかりがひやかすように言う。

「ううん。そんなんじゃないよ。お母さんの具合が心配なだけだよ」

 千紗は慌てて答える。

 千紗の目が、私を見ていると気付いた。

 どうしてそんなに見るの?

 私は、千紗と目をあわすことができない。

「どうする? 先に始める?」

 絵美がその場を仕切ろうとする。

 いつもは、ゆかりがそういう役回りなんだけど、今回一番張り切ってるのは絵美のようだ。

「そうね。ジュースはそこの冷蔵庫に入れておいて」

 ゆかりの部屋には、小型の冷蔵庫が備え付けられている。私はジュースを冷蔵庫に入れていく。

 絵美はバッグの中からクリアファイルを取り出し、そこから一枚の紙をテーブルの上に置いた。

「鉛筆は?」

「新しいのを削っておいたよ」

 ゆかりと絵美が、顔を見合わせながら話している。

「もう、始めちゃう?」

 ゆかりが、みんなの顔を順番に見ていく。首を横には振れない感じだ。

「じゃあ、座って。はじめるよ」

 絵美の言葉に、私は生唾を飲み込んだ。

「ちょっと寒くなるけど、少しだけ窓を開けるよ」

 絵美が南側の窓を開けた。

「お父さんの書斎にこっそり入って、パソコンで調べたの。残業だってわかってたからよかったけど、どきどきしちゃった」

 絵美はゆかりの方を見て誇らしげに言った。ゆかりの為だと言うのを強調しているようだったけど、ゆかりはその言葉に返事しないでいた。そのせいか、絵美は少しだけ悔しそうな顔をしている。

「寒かったら、ベッドの上にストール出してるよ。ハルと千紗、大丈夫?」

 絵美はフード付きのあたたかそうなジャケットを、ゆかりは体にフィットしたボアブルゾンを着ている。

 私と千紗は、遠慮なくストールを借りた。

「じゃあ、始めよっか」と、ゆかりが仕切る。

 絵美が最初に鉛筆を握る。ゆかりも絵美の手の上から鉛筆を握った。

「ほら、ハルと千紗も」

 ゆかりは、私と千紗の顔を交互に見る。

 私は、ゆかりの手の上から鉛筆を握る。千紗は目を誰とも合わそうとしてないけれど、手だけ差し出して握った。

「じゃ、始めるね」

 それから絵美は、キューピッド様を呼び出す呪文の言葉を唱えた。

 ゆかりの反対の手が少し震えていた。平気そうな顔をしているけれど、実はゆかりも怖いんだと知り、なんだか安心した。

 

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