二十五・出自(一)

 王が不在の今、王太子であるルドカの身分は、兎国とこく内で最も高い。

 その乳母めのとであり、近侍として尚食しょうしょく(飲食物や薬の管理を担う尚食局の長官)の官位を持つ寧珠ねいじゅもまた、出自はどうあれ、現内朝で影響力のある臣下の一人だ。


 齢三十九。ルドカの乳母を拝命した時には二十四歳で、既に三人の息子の母だった。四人目として産まれるはずだった娘が死産となり、気も狂わんばかりに嘆いていると噂を聞いて、ルドカの母が哀れに思い、公主こうしゅの乳母に任命したのだ。


 とはいえ、彼女の実家である名門商家、てい氏の一族は、元々王侯貴族と関わりの深い商売をしていた。王后おうこうと同時期に出産を予定していた寧珠は、そうでなくとも乳母の候補に挙がっていただろう。


 至極順当な選出だったにも関わらず、王后の情の厚さを印象付ける逸話として庶民に広く知られているのは、今にして思えば、稗官はいかんの常套手段だったに違いない。


 公主の乳母に任命されたことで、以降十五年間、寧珠は夫にも子にもろくに会わないまま、内朝での生活を強いられることになった。

 考えてみれば胸の痛む話だが、普段意識することがないのは、ひとえに寧珠が誠心誠意ルドカに仕えて、そのような翳りを見せることが一切ないからだ。

 彼女の夫は、藍明らんめいが口にした通り、西域との手広い交易を成功させることで名を挙げた、新興商家のさい氏の宗主である。


 その西域で、藍明はかつて、奴隷として過ごしていたらしい。

 火事で焼け出され、体の前面を覆うほどのひどい火傷を負いながらも、運良く神医しんいに巡り合い、生き永らえることができたのだ、と。

 それこそ芝居の筋書きかと一蹴したくなるような話だが、その神医とやらが実在することを、他ならぬ寧珠が保証するというのだ。


 もう、なるようになれ。


 王太子宮の前庭を満たす葡萄色の薄闇の中に、頭を垂れる寧珠の姿を透かし見ながら、ルドカは緊張しつつも、半ば捨て鉢な気分だった。

 自分が中心になって進んでいるはずなのに、実際は自分で進んでいない。

 輿こしに担がれている感覚。

 それが嫌だから、城門から宮殿までの長い道のりも、歩く方を好むというのに。


「ルドカ様、お帰りなさいまし……!」

 数歩の距離を置いて、もう待ちきれぬと言わんばかりに、寧珠が嬉しげな声を出した。暗がりでもにこやかな笑みを浮かべているとわかる。


夕餉ゆうげは支度できております。もちろん橙冬糕とうとうこうも、この寧珠が腕によりをかけて、しっかりお作りいたしましたとも。ただねえ、もう三月ですから、冬瓜とうがんがさすがにしなびておりまして。甘く煮込めば変わりないとはいえ、やはり素材の新鮮なうちに味わっていただきとうございますから、この次はぜひ夏にご所望を」


「寧珠。苦労をかけたな。先触れがいったと思うが、芸妓げいぎを連れ帰った」

 あえて硬い言葉で、ルドカは遮った。

 周囲の空気がさっと変わる。あるじの領分に戻った安心感で、紅玲こうれいでさえ緊張を緩めていたが、気配を察し、再び指先にまで神経を巡らせるのがわかった。


 寧珠も戸惑ってはいない。一瞬、忌々しげに藍明を睨んだ気がして、ルドカは内心で「やはり」と思う。和やかな雰囲気でルドカを丸め込み、藍明のことは完全に無視したまま、離れにでも放り込んで忘れさせようと思っていたのだろう。


 卑賎な者に対するこれまでの寧珠の態度を思えば、当然の成り行きだ。だが、藍明の言葉の真意を確かめるためには、真正面から対峙させる必要がある。


三弦さんげんの名手だ。藍明という。哀れな命運が目に余り、連れ帰ることにした。今後は王太子宮付きの芸妓とするゆえ、過不足ない待遇を与えよ」


「……もちろん、お言葉には従いとうございます。ですが」

 もはや無視しきれぬと覚悟したものか、寧珠は中空に目を留めてまなじりを裂いた。


「その者は、旅芸人とのこと! どんなに調べ尽くしたところで、曇りなき出自を確認できましょうか! わたくしは乳母であり、近侍でございます。御身をけがす兆しのあるものは、たとえ芥子けし粒の影であろうと、払い除けるが真の職分と肝に銘じてお仕えしてまいりました。それを小蠅の煩わしさと厭われ御自ら断ち切られると仰るのであらば、一命に替えましてもご諫言かんげんいたしますのが忠臣の誉れ。この首筋に刃を押し当て死装束を着て参りますので今しばらくお時間を」


 覚悟はしていたがすごい剣幕だ。たちまちルドカは圧倒され、せっかく纏った硬い衣があっという間に吹き飛ばされかけた。なんとかその場に踏ん張ったまま、会話の主導権を握り返そうと口舌の隙を探る。


「わ、わかった。寧珠、落ち着いて。真心は十分に伝わった。つまり、その出自に関して、藍明から申し開きがあるというから……」

「畏れながら、殿下。塞尚食に直接申し上げてもよろしいでしょうか」

 背後からの控えめな声を聞き、正直助かったという気持ちで、ルドカは頷いた。

「許す」


「では、単刀直入に申し上げます。塞尚食、わたしくは元々、卑賎の生まれではございません。今や滅びし緑泉オアシス都市・葉沙莱ハサライの首長家の末娘にございます」


 さすが旅芸人というべきか、取り立てて張り上げてもいないのに、藍明の声は連弩れんどのごとき寧珠の長広舌を軽やかにすり抜けた。

 その都市名を聞いた途端、寧珠は息を呑んでぴたりと口を閉ざす。


「ハサライ……」

 そうつぶやく顔から、明らかに毒気が抜けていく。

 ルドカにとっても、それは懐かしい都市名だった。

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