二十一・藍明(一)

 ルドカは垂衣たれぎぬの前を開け、藍明らんめいと思しき三弦さんげんの女を肉眼で捉えた。


 薄桃色の前合わせの上衣に包まれた肩は、なだらかで優しい曲線を描いていた。

 白い裾を揺らし、滑るように舞台の左手前へ進んでくる。

 艶やかな黒髪は上半分をかんざしで纏め、下半分を垂らして風にそよがせている。


 陰影の深い舞台上にいてもそれとわかるほど、顔立ちが可憐だった。

 特に目が、零れ落ちそうなほど大きい。睫毛が多くて長い。


 彼女は柱の前の床几しょうぎに腰かけ、しなやかな手つきで三弦を構えた。

 そしてふと、ルドカの方を見た。

 牡丹ぼたんの蕾のような唇が、ふっくらと笑みを零す。


(わっ……)

 心臓が跳ねた。

 最も高値の席にいる客に愛想を投げただけだろう。

 わかっていながら、胸が勝手に高鳴った。

(すっごい美人……!)

 ただ眺めている時よりも、視線を向けて微笑まれた後の方が、ずっとそう感じられる。全体の印象は清楚なのに、あの笑みの色香はなんだ。


 セツの恋人というのが腑に落ちた。

 完全に納得だ。たとえ女性に関心のない男性でも、彼女に微笑まれて胸に寄り添われでもしたら、骨の髄までふやけてしまうだろう。


 いつの間にか他の奏者も配置についていた。右の柱には横笛を構えた男性が、舞台奥には太鼓や鐘、鈴といった鳴り物を携えた三人の男女が。


 口上が終わり、乾いた響きを持つ鐘が激しく打ち鳴らされる。

 楽に合わせて上手の門から、公女役と思しき役者が飛び出してきた。


 藍明の目つきが変わった。

 弦を押さえる指がぐいと骨張り、ばちが目に留まらぬ速さで楽器の胴を抉る。


 鳴り響く不協和音。


 その残響がなくなるまで、藍明も役者も視線を落とし、髪一筋動かさない。

 やがて物悲しい単音が、最初は間遠に、徐々に近く速く、嵐の前触れのように舞台に落ち始める。


 藍明の繊細な指と撥の動きは、役者の手舞や足運びと完全に一致していた。

 主人公と一体になり感情を表している。先ほどまでの可憐さや色香は完全に鳴りを潜め、今や彼女自身が一本の張りつめた弦のようだ。精悍せいかんさを覚えるほどの厳しい眼差しで、触れてはならない硬質さ、秘めた激情を公女と共に体現する。


 いつしかルドカは呼吸を忘れていた。

 苦しくなってようやく、役者や楽曲の流れに合わせて息を吸う。


 横笛の音と共に、相手役の女護衛官が登場した。

 客席から野次と口笛。舞台上で二人が出会う。後方から女性陣の歓声が上がる。

 宮中を表す女官の舞いが戦場の剣舞に変わり、楽の音も雅なものから、軍馬のいななきや剣戟けんげきへと変わっていく。合間に流れる三弦と笛の協奏、秘められた恋情。


 終幕までは、あっという間だった。

 時間にして約半刻(一時間)。

 それでも、まるで瞬きをする間の出来事だったように、ルドカには思えた。


 客席からの喝采を浴び、役者が舞台上で四方八方に礼をする。

 戯台に駆け寄って祝儀を渡そうとする者もおり、舞台下が急にごった返し始めた。横で紅玲こうれいが緊張を走らせ、余韻に浸っていたルドカはそれで我に返った。

 藍明は早くも立ち上がり、役者より先に引き上げようとしている。

 慌ててルドカは身を乗り出した。


「待っ……」

「おひい様、いかがでございましたか! お楽しみいただけたでしょうか!」


 横合いから急に声高く呼びかけられ、肩を跳ねさせて見やると、呼び込みの小男が揉み手をして数歩離れた場所に立っていた。


「お気に召した役者などおりましたら、ご挨拶させますので、どうぞ仰ってくださいまし。高貴な方々の労いが低き身には何よりの励みでして……」


「藍明を」

 機を逃してはならぬとばかり、ルドカは舞台上を手で示して口早に言った。

「三弦の奏者を、ここに呼んで!」

「ルドカ様? なぜ奏者の名をご存知で……」

 両脇で紅玲と杏磁あんじが驚いているが、言い訳をしている余裕はない。


 小男によく通る声で呼びかけられ、楽屋へ戻る直前の藍明が振り向いた。

 役者たちと入れ違いに戻ってくる。戯台の下に群がる人々をちらと見て、三弦を抱えたまま軽やかに床を蹴り、その頭上を飛び越える。


 長い袖や裳裾が風を孕んで膨らみ、天女とはかくや、と誰もが思っただろう。


 人垣を越えて音もなく着地すると、藍明はその場で沈むようにひざまずいた。席を立ったルドカを守るように、紅玲が前に出る。


「紅玲、いいわ。直接話がしたいの」

「ですが」


 どう納得させようかと考えあぐねた時だ。

 紅玲の左側の席にいた人物が不意に立ち上がった。単身で訪れたらしい壮年の男性だ。


 身なりと最前列の席を選んでいることからして、裕福な商家の若旦那といったところだろう。幔幕まんまくが外され客席の周囲が明るくなったせいか、その人影が異様に黒く見え、ルドカはそちらに気を取られた。

 お陰で、懐に何か光るものを忍ばせていることに、いち早く気付けた。


 紅玲も男の動きを察し、正面より左側を警戒できるよう、立ち位置を僅かに変える。男の目は確かに藍明を見ていたが、藍明は跪いて頭を垂れたまま、その視線に気付く様子はない。

 ルドカの脳裏に警鐘が鳴った。瞬間的に様々な思考が飛び交う。


 男が懐に隠し持っているのは短刀だ。なぜか藍明は命を狙われているらしいが、紅玲も娘子軍もルドカを守るためにいる。藍明の身が危機に瀕したところで、助けようとはしないだろう。彼女が跪いているのは、自分がこの場に呼んだせいだ。


 地響きのような唸りが耳に届く。らんめえええ、と男が喉声を低く発している。

 ルドカは紅玲の背をすり抜けて前に飛び出し、護身用にいていた細身の長剣を抜き放った。

 笠の縁が紅玲の肩にぶつかった拍子に、頭が軽くなる。


「藍明、逃げて!」


 とっさに叫ぶと、ハッと顔を上げた藍明は、男ではなくルドカを見た。

 ほぼ同時に男も歩を進めていたが、ルドカが一足早かった。藍明の前に立って振り返りざま、男が手にする短刀を長剣の切っ先で払い除ける。


 澄んだ金属音と共に、銀の軌跡が四阿あずまやの下で放物線を描いた。


 顔を歪ませた男の姿は、脇から紅玲が繰り出した蹴りにより一瞬で目の前から消えた。地面に転がったところを娘子じょうし軍の兵に数人がかりで取り押さえられる。


じゅん軍を呼べ!」

 長剣を抜き放ちルドカを背に隠し、張りのある声で叫んでから、紅玲は焦りを隠さない表情であるじを振り返った。

「ルドカ様……!」


 勝手な振る舞いを叱られるのかと思ったが、その声に非難より狼狽を感じ取る。

 視界の端で杏磁が身を屈め、地面に転がった垂衣付きの笠を拾うのを見て、ルドカは気付いた。笠を落としたということは、目立たないようきっちり編み込んで隠していた髪が、露わになったということだ。


 周囲のどよめきが肌身に迫った。

 白銀の髪だ、王族だ、と驚く声が聞こえる。


 ――後に、その場に居合わせた者たちによって、この時の顛末はこう語られるようになる。


 お忍びで花街かがいを訪れた女王太子が旅芸人の芝居を見物し、三弦奏者の美女を気に入って、御前に召した。

 折悪しく、美女に邪心を抱く暴漢が同席しており、もうそそのかされるまま凶行に及びかけた。

 女王太子は手ずから剣を抜き放ち、身をていして美女を庇った、と。

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