第二章

十六・帰宮(一)

 愛人。

 色恋にはうといルドカだが、それが何かを知らないわけではない。

 性愛の関係にある相手と結婚しないまま、生活や仕事の面倒を見て自分の元に繋ぎ留めていたなら、それは愛人と呼ばれる。

 恋人との違いは恐らく、関係が対等ではないという点だろう。


 有力な貴族男性なら、正室と側室の他に愛人を囲っていてもおかしくない。その愛人が同性であっても、騒ぐほどのことではなかった。

 男色の文化は帝国時代から存在し、『華国世話かこくせわ』にも逸話が載っているほどだ。曰く、とある皇帝が目覚めたところ、愛人の美少年が袖を枕に寝ているので身動きが取れない。仕方なく袖を切り取って朝議に出かけた、など。


 だが、公主こうしゅ(王女)が愛人、しかも同性を囲うという話は、聞いたことがない。


「愛人なんて無理よ!」

 思わず叫んだ声が、岩壁に跳ね返ってこだました。

 暗く寒い霊廟の中だ。ルドカはいつの間にか自分の身体に戻っていた。


 こちらを覗き込む二つの人影と目が合う。怖いほど真剣な顔をした護衛官の紅玲こうれいと、滂沱ぼうだの涙を流している乳母めのと兼近侍の寧珠ねいじゅ

 霊廟内に満ちた残響が静まるまで、空気がやや、凍り付いた。


「ルドカ様、お目覚めになられましたか……!」

 安堵の声を出しながらも、紅玲の表情には戸惑いが見え隠れする。


「寿命が縮まりましたわ。すぐに王太子宮へ戻り、侍医を呼びましょう!」

 寧珠も涙を拭って目尻を下げながら、ちらと窺うような顔つきをする。


 ルドカは目を見開いたまま、じわじわと頬に血を集めた。

 二人が思っているであろうことが、手に取るようにわかった。

 ――今、愛人って言った?


(絶対、変に思われたわ……!)

 セツがおかしなことを言ったせいだ。彼はどこかで今の光景を眺めながら、鼻でわらっているのではないか。勝手な想像に悔しくなる。


「ルドカ様。大丈夫ですか? ここがどこだかわかりますか?」

「もちろん大丈夫よ。全然ちっとも元気! ちょっと寝てしまっただけ!」


 急いで上体を起こすと、頭がくらくらした。思わず額を押さえるルドカの背と膝の下に、紅玲が腕を差し入れる。


「お運びします」

「え、いいわ、自分で歩ける……」

「いけません! 紅玲さんにお任せくださいませ!」


 手燭を二つ携えた寧珠にピシャリと言われ、身をすくめている間に、紅玲がさっさと立ち上がった。長身の彼女に抱き上げられると、目線が普段の倍も高くなったような心地がする。

 本殿を出て拝殿の入り口に戻るや、待機していた霊廟管理の小役人が目を丸くした。その場に至ってルドカは、この状況はまずいのではないかと思い当たる。


(霊廟で気を失うことの意味を、叔父上は知っているかもしれない……)


 セツの兄と繋がっているジスラであれば、ルドカが護衛に抱き上げられて霊廟から出てきたと聞けば、何か勘付くかもしれない。

 ルドカに他の稗官はいかん候補が接触したと気取られたら、彼はこれまでよりも警戒心を強めるだろう。今までにない、強硬な手段に出ないとも限らない。


「口止めして」

 とっさに紅玲に耳打ちすると、彼女はすぐさま鋭い目つきで小役人を見た。


「王太子殿下は霊廟内で少しご気分が悪くなられたが、大事ない。尊い御身ゆえ、僅かな変化にも宮廷は揺らぐだろう。殿下は平安を望まれている。このような些事さじけいの口内に留め置かれるが良かろうとのご判断だ。異存はないな」


 女とはいえ将軍である紅玲の眼光は迫力がある。日々の鍛錬を怠らない身体も、そんじょそこらの男では太刀打ちできない覇気に満ちている。

 小役人は青い顔で膝を折り、右手の上に左手を重ねて深々と礼をした。相手の位が高くなるほど頭の位置を低くする決まりだ。


 足早に進み始めた紅玲の肩にしがみつきながら、ルドカは思った。内朝では多くの者が働いている。さっきの小役人を口止めしただけでは駄目だろう。


「紅玲、やっぱり歩くわ」

「ですが」

「こんな状態で戻ったら、女官たちも落ち着かないでしょうし」


 あるじに不調があれば仕える者たちの責任になる。場合によってはただの病気か、呪いや毒を使った陰謀なのか、監察局から派遣される調査官の手で徹底的に調べられる羽目になるのだ。そのことが頭に浮かばない女官はいないだろう。

 言い訳半分、思いやり半分の言葉だったが、なぜか紅玲は探るような目でこちらを見下ろした。


「もしかして、女官たちのくだらないお喋りでもお耳に入れましたか」

「え?」

「先ほども……」

 何か言いかけ、きょとんとしているルドカの顔を見て、思い直したらしい。紅玲は明らかに続く言葉を変えた。


「ご不調が軽いものであれば、女官たちが責められることはありませんから、大丈夫ですよ。人目が気になるなら、寧珠殿に先に立って合図してもらいましょうか。誰もいない道を通るようにしたら問題ないですよね」


 どうやら降ろしてくれる気はないようだ。

 少し考え、ルドカは頷いた。要は、霊廟で倒れたと知られなければいい。


「そうするわ。ただ、霊廟でお参り中に寝てしまったなんて恥ずかしいから、誰かに会ったら、転んで足を痛めただけだって、二人とも口裏を合わせてね」

「わかりました」

「紅玲、さっきは何を言いかけたの?」

「なんのことでしょう。舌を噛まないよう、しばらく口を閉じていてください」

 

 ごまかされて不審に思ったが、今はとにかく戻るのが先だ。

 寧珠がさっそく白壁の合間の曲がり角に立ち、忙しく手招きしている。紅玲は足早に屋根付きの渡り廊下を抜け、奇岩の並ぶ中庭を突っ切って、最短距離で王太子宮へと帰りついた。

 門衛は娘子じょうし軍ではなく、男性の宮中警護兵が担う決まりだ。通り過ぎる時、ルドカは聞こえよがしに「転んでしまうなんて運が悪いわ」と嘆いてみせた。


 出迎えた女官たちは思った通り、紅玲に抱き上げられたあるじの姿に驚きを隠さなかった。目を丸くし、口元に手を当てて顔を見合わせている。


「一体、どうされたのですか?」

「転んで足を痛めただけ。大事ないわ」


 寧珠が室に駆け込み、怒涛の勢いで寝台を整えながら、女官の一人に侍医を呼ぶよう指示しているのを聞き咎め、ルドカは慌てて声を上げた。


「呼ばないで! 自分のことは自分でわかるから、大丈夫よ!」


 しばらく押し問答があったが、ひとまず寝台で休み、もし不調が続くようであれば侍医を呼ぶ、ということに落ち着いた。

 もちろん、本当に休んでいる暇はない。


(今のうちに計画を立てないとね)

 天蓋に刺繍された月兎の紋を眺めながら、ルドカはこれからのことを考えた。


 王都の遊花街いろまちで、‶華月天心かげつてんしん〟という旅芸人の一座を見つけなければならない。そしてセツの恋人であるという藍明らんめいを、人質として王太子宮へ連れ帰る。

 言うのは簡単だが、実行は随分と難しそうだ。


(しかも、愛人として囲うふりをする……って!)


 他に何かいい方法はないのか。

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