ドーナツ

二晩占二

第1話 食べてもらえますね

 ようやく、あなた。食べてもらえますね。


 あら。

 もうお忘れかしら。あなた。


 なぜ、こうなっているのか。

 なぜ、食べてもらえるのか。

 なぜ、輪っかになっているのか。


 ハ。

 眉毛の形が、ハ。

 いえ、そこは眉毛なのかしら。ただの凹凸なのかしら。


 でも、心の底、うれしそう。あなた。うれしそう。それはそれは。


 ええ、ええ。

 この状況。お手伝いしましょう、あなたが思い出すの、を。


 なぜ、こうなっているのか。

 なぜ、食べてもらえるのか。

 なぜ、輪っかになっているのか。


 記憶です。

 記憶を思い出せばいいだけです。


 そう。

 あなたが、8歳の頃です。

 8歳の頃を思い出しましょう。


 じわじわ、蘇らせて。記憶。

 あなたは、ほら。


 殴ったでしょう。


 目を。お相手の方の、目を。

 その方のお名前、思い出せますか。


 そう、斎藤さんですね。


 仕返しに、首を締められたけれど。

 あなたは、今度は、耳を殴りつけて。

 そうして、斎藤さんは、ぱあん、って。

 鼓膜が、ぱあん、って。


 思い出しましたか。

 いえいえ。お隠しにならないで。

 忘れてしまいたい過去。

 恥ずかしい過去。

 でも、引きずり出さなくては。


 嘘をついてはいけません。

 ごまかしてはいけません。

 あなたは、どんな大人も、手に負えない。それは、それは、ひどい子供。だったじゃ、ありませんか。


 そんな、あなた。

 ひどい子供。あなた。

 でも、ひとつだけ、やさしくできるものがあったでしょう。あったじゃ、ないですか。


 思い出して。

 あの毛むくじゃら。

 ひげみたいな、口元。愛嬌。独特の鳴き声。

 あなたに近づくとき、しっぽが、メトロノーム。


 あ、その顔。思い出しましたね。よかった。


 そうです、ペロ。愛犬のペロ、でしたね。ミニチュア・シュナウザー。

 生まれたときから一緒の、毛むくじゃら。


 どんなに心が荒んでいても、ペロにだけは優しかったあなた。毎日、朝はやく起きて。散歩に連れ出して。毛並みを整えて。給食のパンを持ち帰って。


 あなたが青痣や切り傷をこしらえてくると、決まってペロは優しく舐めてくれましたね。

 あなたが孤独に取り残されたとき、決まってペロはそばに寄り添ってくれましたね。



 そんな愛しのペロがドーナツになってしまったとき、あなたは。それは、それは。悲哀に撃ち抜かれたことでしょう。



 秋でした。

 あなたが、殴り合いの負傷を隠しながら帰宅したとき、ペロはすでにドーナツでした。

 庭の隅っこ、紅い屋根の犬小屋。涎でドロドロになった毛布の上。コバルトブルーの首輪の内側、綺麗に、なぞるように、ペロはまんまるなドーナツになって、佇んでいました。


 誰かのいたずらだと思い込んだ、あなた。

 もしくは、斎藤さんの仕返しだと思い込んだ、あなた。


 でも、違いましたね。


 そのドーナツは紛れもなく、ペロでした。

 メトロノームのように尾っぽを振り回す、ペロでした。

 あなたの両頬を交互に舐め回す、ペロでした。

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