雨音のメロディ

雨宮悠理

雨音のメロディ

 ————ああ、とてつもなく不幸だ。


 雨は嫌いだ。目の前で滝のように滴りおちる雨粒を眺めながら藤田ふじた悠斗ゆうとは深くため息をついた。

 よりによって傘を忘れた日に、とんでもない土砂降りになるなんて。

 天気予報は雨予報だったが朝方晴れていたこともあって、傘を持ってくるのを忘れてしまっていた。多少の雨なら駆け抜けてしまえば問題ない。が、今日の雨は勢いがそれは凄まじく、数メートル先が雨粒のカーテンで見え辛いほどだった。

 足元は靴下の中までぐちょぐちょで気持ち悪い。

 雨の勢いを鑑みるとそう長くは降り続かないのではないか、そう思い、なんとか辿り着いたトタン屋根のある小さなベンチで暫くやり過ごすことにした。

 屋根は今にも壊れそうなほどにバタバタと雨粒のぶつかる音が響いていた。


 濡れた手でケータイを扱っていると、雨音の中、ばちゃばちゃと弾けるような音が混じっていることに気がついた。


「あれ、悠斗くんじゃない?」


「…………さくら」


 土砂降りの雨の中からひとりの女子生徒が姿を現した。彼女の名前は佐藤さくら。

去年まで同じクラスだったけれど今年から別クラスになっていた。ショートヘアがよく似合う快活な女子生徒で、彼女を狙っている男子生徒の噂は結構耳にすることがあった。そして俺も、他の男子と同様に彼女に片想いしていた。

 けれど彼女には年上の彼氏がいる。俺はたまたまその事を知ってしまい、散々悩んだ挙句、結局彼女に想いを伝えることはなく諦めた。


「悠斗くんも傘忘れちゃった感じ?」


「……ああ。さくらも忘れたみたいだな」


「それがね!違うの、聞いてよ!」


 ずい、と距離を詰めるさくらに俺はドキリとした。制服が濡れていることもあり、白いブラウスに下着がうっすらと透けている。

 見ない様にしようとすればするほど、どこを見てよいのか分からず、視線を遠く虚空に向け話を聞くことにした。


「私ね。傘持ってきてたんだけど帰りに見たら無くなってたの! 結構お気に入りでストラップまで付けてたから間違えそうにないんだけどなあ。失敗したなあ」


「あはは、完全にやられたな。鍵掛けとくべきだったな」


「傘に鍵なんてつけてる人いないでしょ! 明日返ってきてるといいんだけど。なんだかんだで、あれ、お気に入りなんだよね」


 そういって分かりやすく膨れてみせると、すぐに屈託なく笑った。


 俺は彼女のこの明るさが本当に好きだった。

 彼女の明るい笑顔と優しい雰囲気が、一緒にいたいと思わせてくれた。


 でも彼女の中には別の男がいる。

 諦めたはずの恋心が彼女と二人きりになったことで、発作のようにふつふつと湧いて俺の胸を締め付けてきた。

 やめろ。俺はもう気持ちに整理をつけたはずなんだ。


「まあ、この雨じゃ帰れないし。少し時間潰しますかね」


 そういって彼女はベンチに腰掛けた。靴下を脱ぐと彼女の濡れた白く長い足が姿を見せた。


「そういえば悠斗くんと話すのって随分久しぶりな気がするね。前はよく話していた気がするけど」


「そりゃ去年は同じクラスだったからな。違うクラスになったら会話も減るさ」


「うーん。そういうものなのかな。でもこうしてまた話せて嬉しいな」


 彼女は靴下を脱いだ足をぷらぷらと揺らしていた。

 気づくと何故か俺はベンチから立ち上がっていたので、さりげなく不自然に見えないように少し距離を空けて横に座り直した。

 降りしきる滝のような雨を見ながら暫しの静寂が流れていた。


「……雨、止むかな?」


「そりゃあ止むだろ。こんな雨が長く続いたら災害レベルだな」


「そうだよね。……悠斗くんは雨嫌い?」


「好きか、嫌いかでいえば嫌いかな。何?さくらは好きなの?」


「うん。私さ、意外と雨って嫌いじゃ無いんだよね」


 彼女は暗い空を見上げる。


「なんか雨の匂いっていうか、静かな雰囲気もそう、暗い静けさっていうのかな。悪く無いなって思うの。こんな感じで突然雨宿りすることになって、なかなか話す機会のなかった友人とも話すキッカケができて、これって雨降らなかったらなかった訳だし。悪いことばかりじゃないかなって」


「……うん、まあそう考えると悪くは無いかな」


「でしょ。さすが悠斗くん。話が分かるね!」


 さくらの言葉は俺の心の弱い部分をくすぐるようだった。

 忘れようとしていた彼女への好意は結局完全に蓋開いてしまった。と同時に彼女が好意を抱く男への嫉妬心も姿を現してしまった。


「———でもさ。さくらは彼氏に傘は借りなかったの?」


 嫉妬心は言葉となって口から頭を出す。俺は言ってすぐさま後悔の念に支配された。


「あー、……彼とは別にそういうのは無いかな。というか悠斗くん知ってたんだ」


「……まあ、噂程度だけど」


 心のどこかで否定しろ、嘘であってくれと願っていたが、彼女からの回答は皮肉なことに疑惑の裏付けになってしまった。


「やっぱりそうだよね。やっぱ隠し通すのって難しいなあ」


 雨音が随分と大きく、なのに遠くに感じる。

 彼女は、ぱたぱたと振っていた足をピタリと止めた。

 雨音はうるさくトタン屋根を叩いている。


「悠斗くんは恋ってしたことある?」


 彼女の吸い込まれそうにぱっちりとした丸い瞳がこちらをしっかりと捉えていた。

 俺は一度ごくりと唾を飲み、答えを絞り出す。


「あるよ。恋。なんなら今も」


 俺の言葉を聞いて、彼女はどこか少し寂しそうに笑う。


「あはは、そっか。……いいなあ」


「なんで? それこそ、さくらの方が俺より経験あるでしょ」


「ん、……無いよ。恋ってあんまり、それがなんなのか分からないの」


「……彼氏は?」


 彼女は一瞬迷った様な表情を浮かべたが意を決した様に話し始めた。


「彼とは、……もう別れたの。といっても普通の男女カップルらしいことは何も。彼。私が昔、お世話になっていた家庭教師の先生で。随分と良くしてくれていたし、そういう人に思えるかなって思って彼のアプローチを受け入れたんだけど、やっぱりダメだった。結局、彼には申し訳ないことしたなあって」


「……そっか」


 俺はなんと言えば良いのか分からず、気の利いた言葉一つ言うことができなかった。


「あはは、ごめんよ。いきなりこんな話をされても悠斗くん困るよね。でもほら、私の話したし、悠斗くんのも少し教えてよ。雨が上がる前にさ」


「なんでだよ。自分から話始めたくせに」


 俺が拗ねたようにそっぽを向くと彼女は面白そうにまた笑った。


「あはは、冗談だよ。無理に話す必要ないし。でも悠斗くんは優しいから、想われている子は幸せ者だね」


 雨音が響く二人だけの空間。こんな場面、もう二度と来るか分からない。


「だといいんだけど。————さくら。 ずっと好きでした」


「————え」


 俺はなけなしの勇気を振り絞って声に出した。

 発した言葉はすぐに雨音にかき消されたけれど彼女には届いたようだった。

 彼女はぱっちりとした目を丸くしたが、すぐに「……そっか」と言って微笑んだ。


「急にごめん。返事はいらないから」


 少しづつ正気に戻ると段々恥ずかしさが込み上げてきた。

 さっき失恋話を聞いたばかりの彼女に告白するなんてどうかしてる。

 まだ彼女の中で気持ちの整理がついているかどうかも分からないのに。


 雨音だけが響くベンチで暫しの静寂が戻る。

 この息苦しさはきっと低気圧のせいではないのだろう。


「————雨、止まなければいいのにね」


 ベンチから立ち上がってこのままびしょ濡れでもいいから去ろうと思い立ったとき彼女は一言、そう言った。


「そうだね」


 俺はベンチに座り直してまた降りしきる雨を眺めていた。

 どれだけそうしていたのだろう。さくらと俺は隣り合ってただ雨を見つめた。

 ただ言葉はなかったけれど、不思議と息苦しさは無くなっていた。


 暫くすると雨は弱まり、夕陽が沈みかける頃には完全に雨は上がっていた。


 さくらと俺は屋根の下から出ると一度大きく伸びをした。

 こうして突然振って湧いた二人だけの時間は終わりを迎えた。


「————悠斗くん。今度また一緒に雨宿りしてくれる?」


 さくらと別れて家路につこうとした時、さくらはそう言った。


「いいよ。また雨の日に。ベンチで」


 俺の言葉を聞いた彼女は、笑って「その時はまた私の話を聞いてね」と言い残して行った。


 次の雨はいつ降るのだろうか。


 気付けば次の雨を待ち望んでいる、自分の姿がそこにはあった。

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雨音のメロディ 雨宮悠理 @YuriAmemiya

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