8-6◆渡会 楓の行動

 オレンジの日差しがまだまぶしい。校舎の中は蒸し暑い。人は誰もいない。私は自分の教室に行って、ロッカーから世界史の教科書を取り出す。


 別にこの教科書は今絶対に必要というわけではない。カーテンを閉め切った窓にもたれて、教科書をパラパラとめくる。こんなところまで来て、まだ決心がつかない自分が嫌だ。教科書を机の上に放る。


 ふと、人の気配を感じて顔を上げる。私が入って開け放した教室の入口に先生が立っていた。

「忘れ物はもう回収した?」

 そう言って先生は教室の中に入って、私の横で同じように窓にもたれる。


「いえ……。まだもう一つ……先生に聞きそびれたことが、あって」

「うん……」


「これまでみたいに……また二人で、一緒に居てくれますか?」

 先生を見上げると、同じように私のことをじっと見つめる。


「すごく……魅力的な話なんだけど……二人だけで会うのは、今日が最後」


 あれから何度も話す機会はあったのに、先生は一度も私の告白に触れなかった。きっと、そういうことだ。


「どうして……って、そうですよね。もう私と一緒にいる目的は、ないですよね」

 そう言って笑顔をつくった。目から涙がぼたぼた落ちる。先生が私を引き寄せる。涙が先生のシャツに落ちて、染みをつくる。泣くつもりはなかったのに。勝手に涙が落ちる。


「そうじゃない……。目的とは関係なく、渡会を離したくない。でもそれは、危ういことなんだ」

 先生は正しい。正しいから、悲しい。


「帰りたくないとか、我儘わがまま言わないから……少しだけこうして過ごすだけ」

「わかるだろ、それ以上がすぐに欲しくなる。そうなればお互い無傷では終わらない」

 先生が私の頭を静かにでる。


「傷になっても良い……」

「良くないよ」


「もう会えない? 連絡もだめ?」

 見上げると、先生はうなずく。私はまた先生の胸に顔をうずめて涙を落とす。


「……そうだな、気持ちを見直す時間だと思えば良い。渡会はまだ、俺にこだわる必要はない。高校生活は、何の心配もなく送って欲しい。もし、卒業した後も今と同じ気持ちだったら、会いに来れば良い」


 待つのは嫌い。けど私たちを分けるラインは、時間をかけないと消えない。先生はもう自分の気持ちを決めてしまった。私の気持ちを本物にするには、それしか方法がない。


「気持ちは、変わらないから……すぐに大学生になるから。全然……待つ」

 先生の胸にくっつけていた顔を少し離して顔を見上げる。先生は私の頬についた涙を指でぬぐう。


「最後に、お願いしても良い? また、あの時みたいに跡付けて」


 先生は少し戸惑とまどうように笑って、わかったとつぶやく。首にかかった私の髪を指でいて、首元に顔を寄せようとする。また誰かに見つかったら、何て言い訳したらいいんだろう。


「あ、待って……見えないとこに、して」

 軽くにらむように私を見る。心臓が跳ねて、体温が上がる。猛獣にでも見つかったような気分だ。


「見えないとこなら、どこでもいい?」

 私を見つめたままささやく。首に掛かった先生の指が、鎖骨の下あたりまでゆっくりと下りてくる。


 目を逸らすことも、動くこともできない。動くことができない私を心臓の鼓動だけが揺らす。


 羽織はおっているシャツの中に手を滑らせてシャツの片側を肘まで落とすと、キャミソールの胸元ぎりぎりに唇を寄せる。


 長い睫毛、綺麗な横顔の輪郭、少し尖った耳。そのすべてを目に焼き付ける。唇が離れるとそこには、あの時のような赤い三日月があった。


「俺にもつけて」

 先生がそう言って、首を斜めにして私に差し出す。まさか自分がお願いされると思っていなかった。


「え……どうやれば」

「吸いつくだけ。ストローで吸うみたいに」


 私は恐る恐る先生の首に唇をつける。どれぐらいやっていいか分からず、しばらく吸っていると少し血の味がした。


 もしかしてやりすぎたのではないかと思い、慌てて唇を離す。そこにはピンクと赤が混じったまだらな色をした、いびつな楕円の跡がついていた。


「先生のやつと全然違う……どうやったらこんな風になるの?」


「秘密」

 そう言って笑うと、私のシャツを元に戻す。


 私たちがお互いに付けた跡は、夏の終わりを待たずに消える。けれど触れた熱と小さな秘密は痛みと共に消えない跡になって残る。


 そして私は、学校をあとにした。


 了


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後に跡(のちにあと) 山猫拳 @Yamaneco-Ken

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