霧の中で

正体不明の素人物書き

真っ白な霧の中、現れた女性は…

 ある日、なんとなく森林浴をしようと森の中を歩いていた。

 木々の間を歩いていくうちに、竹林に変わった。

 特に気にすることなく歩いていくと、真っ白な霧に包まれて、ほとんど見えなくなった。

 これ以上動くのは危険だと思い、立ち止まった。

 ―――何なんだ一体…ん?

 霧の中から、一人の人影が見えた。

 輪郭からして女性だろうか。その人影がゆっくりとこっちに近づいてきた。

 普通は恐怖を感じるのかもしれないが、不思議と怖くなかった。

 その女性は俺の目の前まで来ると足を止めた。

 細身で、真っ黒な長い髪をした、清楚な美女という言葉が思い浮かんだが、ときめくことはなかった。

 なぜなら、その女性は目に色がなく、髪もどれぐらい手入れをしてなかったのか、かなりぼさぼさだった。

 しかも手には出刃包丁を持っていた。

 女性は俺の手に包丁を持たせ、掠れ声で言った。

「私を…殺して…」

 一瞬、意味が理解できなかった。

「…死に、たい…」

 今気づいたが、手は氷のように冷たかった。

 着ているものも、最初は真っ白な着物だと思っていたが、よく見たら死に装束だった。

「…もう、眠らせて…永遠に…あなたの手で…」

 女性の声は呟くようだった。

「この人を救いたい」と本気で思った瞬間だった。

 俺は包丁をしっかりと持ち、女性に刃先を向けた。

「そのまま、私を、刺し殺して…」

 この呟きを聞き、包丁で女性の腹を突いた。

「うっ!」

 女性は腹を抑えようとせず、苦しみながら倒れた。

「…あり、が、とう…」

 女性はこれ以上の言葉を出さず、動かなくなった。

 ・

 ・

 ・

 ・

 次の日。

 暖かな日差しを浴びて、私は目を覚ました。

「う…ん…ここは…」

 最初に目に入ったのは、知らない部屋の天井。

 体を起こして、自分の手を見た。

「私…生きてるの?」

 私は昨日、偶然出会った男の人に、自分を殺すように頼んだ。

 そして、彼は私のお腹を包丁で刺した。

 これで私は死ぬことができたと思った。

 なのになぜ…?

「目が覚めたか?」

 声を聴いて振り向くと、私を刺した彼がいた。

「私、生きてるの?」

「そんなところだ」

「…どうして…」

 彼は昨日のことを話した。

 私のお腹を刺す直前に、包丁の向きを変え、柄尻の部分で突いたと言った。

「なぜ、死なせてくれなかったの!?」

「昨日までのあんたは死んだ」

 何を言ってるの…?

「今日からは、新たな自分として生きろ!」

「え?」

「あんたは死ねば楽になるかもしれない。けど、あんたを殺した俺はどうなる?」

 え?

「罪人として刑務所行きだし、刑期を終えて出ても、あんたを殺した罪悪感と人殺しの汚名を一生背負いながら生きないといけないんだぞ?」

 私はここまで考えられなかった。

「何を理由に死にたがってたのかは知らないけど、死んでも楽になるどころか、永遠に苦痛を味わうだけだ」

「え?」

「死んでから後悔しても、生き返ることはできない。やめておけばよかったって思っても、取り返しがつかないんだぞ?」

 私はこれを聞いてうっとなった。

 そしてふと、死にたがっていた理由を話してしまった。

「私、この前まで結婚してたの。でも、騙されてた。家にあったお金はむさぼり取られて…婚姻届けも、男は隠れて付き合ってた女の名前を書いて出してたの。私は、男の妻じゃなかった」

「結婚詐欺、か…」

「家は乗っ取られて、私は死に装束を着せられて追い出されて…親にも騙されるほうが悪いって勘当されて…もう、生きる希望は完全になくして…」

 ここまで話して泣いてしまった。



 俺はここまで聞いて、昨日よりも強い気持ちで、この人を救いたいと思った。

 まずは、着ている死に装束をどうにかしないといけないと思った。

「それを脱いでこれを着な。俺の服だけどな。外に出てるから、その間に着替えておけ」

 俺は自分の服を渡して部屋のすぐ外に出た。


 そして数分後。

 女性は着替え終わり、出入り口を開けて呼びに来た。


「訴えてやろうぜ」

「え?」

「証拠を集めて訴えてやれば、取られた金は戻ってくるかもしれないし、詐欺の慰謝料も請求できる」

 女性は俯いて言った。

「証拠なんてないわ。追い出される直前にひどく振るわれた暴力で、あざだらけになったこの体しか…」

 言いながら女性は両腕をまくった。

 両腕には黒い痣がいっぱいあった。

「それ、十分証拠になるぞ。医者に行って診断書を書いてもらって、そして弁護士を挟めば、ある程度こっちが有利になる」

 女性は顔を上げてこっちを見た。

「実は俺もさ、去年の今頃に婚約してた女に金を持ち逃げされたんだ。探偵や興信所に頼んで調べたら、居所が分かっただけじゃなく浮気の証拠まで出てきて、それを突き付けて、持ち逃げした金だけじゃなく、女と浮気相手から慰謝料も取ってやったんだ」

 この一件で、相手は悲惨な末路をたどったことを聞いた。

「そうなの…」

「今から行こう。その痣が消えないうちに。そして金を返してもらおう」

 俺は自分でも信じられないぐらいの勢いですぐに行動に出ようとした。

 女性の服を買った後、医者に見せ、暴力の証拠として診断書を書いてもらい、弁護士を探しながら、相手の男を興信所で調べた。

 その結果、男には何人も不倫関係になっている女性がいたことが分かった。

 しかもその中には、結婚していることを隠して、結婚前提の交際をしている女性までいたのだった。

「多数の不倫だけでなく、結婚詐欺まで働いてるか…こいつは俺のときより恐ろしいことになるぞ」

 俺の独り言に、女性はぞっとしたみたいだった。



 数日後。

 結婚詐欺などに強い弁護士を見つけ、男を訴えた。

 その結果、男は多数の不倫と結婚詐欺で、自分の妻や相手の配偶者から多額の慰謝料を請求された上に離婚となった。

(妻だった女性は、本当に何も知らないみたいだったので、特にお咎めはなかったみたいだった)

 不倫関係だと知りながら交際を続けていた女性たちも、自分たちの配偶者や男の妻から請求された。

 男が既婚者だと知らずに交際をしていた女性たちは、特にお咎めはなく、むしろ男を結婚詐欺で訴えた。


 この騒ぎがあった後、気が付いたら女性は最初からいなかったかのように姿を消していた。

 ちゃぶ台には、慰謝料の半分ぐらいの現金が置いてあり、貸していた服は奇麗に畳まれて、置手紙と一緒にベッドの上にあった。


「いろいろありがとうございました。

 おかげで私は、新たな自分として、前を向いて生きることができそうです。

 このお金は、そのお礼です。

 あなたに幸せな人生があることを祈っています。お元気で」


「ったく、自分の口で言えってんだ。でもよかった…生きようとしてるみたいで…」

 つい愚痴ったが、気分は晴れていた。



 この出来事から1か月ほど過ぎたころに、あの竹林へ向かった。

 さすがにもう会うことはないと思いながらも、もしかしたらと思う自分がいたのだった。


 そしてある程度足を進めると、あの時と同じように、真っ白な霧に包まれた。

「あの時も、こんな感じだったな…」

 なんてことを呟いて立ち止まった。


 でも、さすがにあの人に会うことはないと思ったが、霧の向こうに何かが見えた。

 人影…? 気のせいかと思ったが、何も見えない霧の中で動くことはできなかった。

 少しして、はっきりと人影だとわかった。

(まさか、な…)

 なんてことを思ったが、その人影が目の前まで来たとき、はっきりとあの女性だとわかった。

「久しぶりね。元気だった?」

「まぁ、何とかな」

 女性は優しい表情で聞いてきた。

「そっちはどうしてる?」

「私も、あなたのおかげで、今生きていることを幸せに感じるわ」

 女性の服装はあの時とは違い、真っ白な生地に綺麗な花が描かれた浴衣だった。

 目は輝いているし、髪も手入れがしてあって本当に奇麗だった。

「いい人、見つけたのか?」

 俺が聞くと、女性は頬を少し赤くして頷いた。

「そうか。本当の幸せは、これからだな」

「そうね。あなたが協力してくれるならね」

 え?

 女性の返事に俺は変に思ったが、手を見ると何かを持っている。

「それは?」

「あなたがここに来た時に渡そうと思っていたの。私のお願いを聞いてもらうために」

「お願い?」

 よく見ると、布でできた赤い腕輪だった。

「私を、あなたのお嫁さんにしてほしいの」

「え!?」

 さすがに驚きを隠せなかった。

 女性はあれから、ふとしたことで俺のことを思い出すらしい。

 ずっと変に思っていたが、知人に相談したら、それは恋だと返事があった。

「それに、私に生きる希望を取り戻してくれたお礼をしてないことを思い出したの。でもそのお礼とは関係なく、あなたを幸せにしたいと思ったの」

 俺を、幸せに…?

「だから、私と…結婚、してください」

 女性は少し俯き、頬を赤くしながら言った。


 そうだな・・・。俺も、前に進まないといけないな・・・。

 これは、最初の一歩だ。

「俺で、本当にいいのか?」

「いいに決まってるじゃない。よくなかったら言わないわよ」

 それもそうだな・・・。

「いきなり結婚は無理だ。だからまずは、前提の付き合いから始めたい」

 俺の返事に、女性は満面の笑みで頷いた。


 その瞬間、霧は風で吹き払われ、自分たちを祝福するかのように、日の光が差し込んできた。


 しばらくして夫婦になり、二人三脚で支えあいながら生活するのは別の話だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

霧の中で 正体不明の素人物書き @nonamenoveler

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ