誰が何と言おうと世界で一番大好き

ひなみ

第1話

「今時間ある? ちょっと分からないところがあって」


 すべての始まりはあの日曜。

 西日の差す部屋で笑いあい勉強を教えていたはずだった。


「大体はできてると思うけどな。ゆりかはどこが解けないの?」

「お姉ちゃんの気持ち」


 唐突にゆりかに押し倒され「ねえ、いいよね?」と耳元で囁かれる。はにかんだ彼女の顔が私の視界をいっぱいに満たしていくと、端の方でウェーブがかったベージュの髪がふわりと揺れた。

 私はまるで金縛りになったように動けないまま、額で体温を感じると彼女の瞳に吸い込まれていった。


「待ってゆりか。だめだよ。私達……」


 彼女の肩に手を当てて押し返した。


「それって姉妹だから言ってる? ねえ、ゆりか達は好き同士なんじゃないの? それともお姉ちゃんは違うって言いたいの……?」

「そうじゃなくて、やっぱりこういうのはまずいと思う。もし見つかったらどうするの?」

「これはゆりか達の問題だよね。なのにどうして誰かの話をするの? それにもしパパとママに怒られてもゆりかは別に構わないよ。だってもう、ずっと前から決めてたんだもん」


 どきどきと彼女の鼓動が直接伝わってくる。自信ありげな言葉とは裏腹に強張った表情、潤んだ瞳と震える手。どれほどの思いでこうなるに至ったのだろう。それを意識すればするほど、自分では抑えきれないくらいに心拍数が上がっていった。


「ゆりか……いいよ」

「お姉ちゃん……好き。誰が何と言おうと世界で一番大好き」


 耳元から漏れる甘い声に私の理性は瓦解していく。

 他でもない血の繋がった姉だからこそ、関係が明るみになった後の事を考えてしまい踏みとどまっていた。というのはこれまで踏み出せなかった言い訳でしかない。自制が利かなくなるのを恐れるのと同時に、結局のところ私は彼女を求めてしまっていた。


 そうして私からは力が抜けて唇同士が触れ合おうとしていた。

 ゆりかの柔らかだろう感触を前にして、抑えていた感情とともに彼女を強く引き寄せる。

 今だけは負けてしまってもいい。誰に遠慮する必要があるのだろう。

 それは、ずっと焦がれていた夢のような時間に違いないのだから。


「ゆりか、私も世界で一番」


 そう告げようとした瞬間だった。


「ちょっと、二人とも何してるの!?」


 唐突に部屋のドアが開くと、叫び声とともに母親が私達を見ていた。

 この世の終わりをすべて見てきたと言わないばかりの、絶望のような瞳だけを浮かべて。

 窓の外から聞こえる蝉の声がやたらと鼓膜に響き渡り鬱陶しくて仕方がない。


「二人とも、これは一体どういう事なの。黙ってないで説明してちょうだい!」


 その声はゆりかとの間にあった静寂を引き裂いて、それに怯える私達はすぐに正座させられた。そんな緊迫した空気の中、どう説明しようと思考を巡らせていると隣から「実はゆりかが」と口にするのが聞こえた。


「私はゆりかを無理矢理誘いました。どうかしてました。本当に反省してます」


 すかさずそれを掻き消すような大声で訴え頭を下げた。


「え……なんで。どうしてそんな事言うの……? 聞いてママ、お姉ちゃんは嘘を吐いてる!」

「いいからこっちに来なさい!」

「お姉ちゃん、どうして!」


 拳を強く握り締めると爪は痛いくらいに食い込んだ。これで全部おしまいなのだろう。それだけが頭から離れてくれないまま、私は母親から引き剥がされ泣き叫ぶゆりかに背を向けた。



香菜かな、家から学校に通うのは大変でしょ。来年二十歳になるんだしこの際一人暮らしでも始めてみたら? お父さんも家賃は出すって言ってるわ」


 両親には叱られも叩かれもしなかった。それがむしろ不気味に思えて内心怯える日々を過ごしていたある日、母親から唐突に最後通牒は突きつけられた。

 表情の読めない笑顔から放たれた言葉の聞こえ自体はいいけれど、彼女の視線はあの日から変わらず冷ややかなままで、もしかしなくても私を体よく追い出す目的しかないのは明白だ。そして、私が抵抗してみせたところで二人は決して許してはくれない。


「学校も近くなるし、そうしようかな……」


 私は苦虫を噛み潰すように答える事しかできずに、ついに実家から離れた生活は始まりを迎えた。

 最小限の家具と未開封のダンボールが並ぶだけの、がらんとしたワンルーム。

 手元に残された、ゆりかへの連絡先や二人で撮った写真が強制的に消去されたスマートフォン。


 私にはゆりかさえいれば友達なんて必要がなかった。家には彼女がいて暖かく迎えてくれるのなら他には何もいらないと思っていた。

 こうして、学校にいても家にいてもおのずと私を包むのは孤独のみとなり、帰宅後窓の外の夕日を見ればとめどなく涙が溢れてくる。


 長い間、生活を共にしてきた唯一の理解者を。半身と言って差し支えない存在を永遠に失ったという現実をこれでもかと思い知って夜はまともに眠れない。

 一人で迎えた初めての土曜日。明け方までうずくまって起きていたあと死んだように眠りにつく。何かの音が響いて目覚めると午前十時をまわっていた。


 それはどうやらドアを叩く音だったようで、物音を立てないよう様子を窺っていると声らしきものも聞こえてきた。


「……ちゃん。……じょうぶ? ……てますか?」


 それは何度も繰り返されていて、ただ事ではなさそうなのがすぐにわかった。

 重い体を起こす。恐る恐るドアスコープを覗く。じっと息を殺す。

 その中で呼びかけていたのは、追い詰められた頭が見せたゆりかの幻影に他ならない。彼女の姿は、ひとたび近づけば砂漠で見つけた蜃気楼のようにゆらゆらと立ち消えてしまう。


 そんな事はとっくに理解できていた。そのはずなのに私の呼吸はすぐに過多となって目頭に熱を帯びていく。嗚咽を抑えきれなくなりながら鍵を開け、震える手でドアノブを回した。

 そのまま力強く扉を押すと、外からの明るい光が視界いっぱいに入ってきてまともに目を開けられない。そこに居て欲しいと願いながら、どのくらいの時間が経っただろう。網膜がようやく光に馴染んでいった。


「いやー、さすがに外はあっついね。部屋の中クーラーある?」


 一番のお気に入りの服に身を纏い、冗談めかして舌を出したその姿と声はまさしくゆりかのものに相違なかった。



「本当びっくりしたよ。抱きついてきたと思ったら、急にわんわん泣き出すんだもん」


 彼女を家の中に招き入れた直後の第一声に、私はようやく冷静さを取り戻す事ができた。


「ごめんね。あんまり眠れてなかったから混乱しちゃったんだと思う。でも、もう、ほら……ね?」


 柔らかな手を取って上下に軽く振るとゆりかは嬉しそうに笑った。


「それにしても、一人で住むには広いところだね」

「うん、本当に」

「でも二人でだったら、丁度いいかもね?」

「うん、本当に……」


 ゆりかと目が合って、私はどうあっても叶わないだろう現実に作り笑いをした。


「そこで考えたんだけど、ゆりかは週一でお姉ちゃんの生活をチェックしに来る事にしました!」

「え?」

「今度こそばれないように二人だけで幸せに暮らすの! 最初は一週間に一日からね。それからは二日三日四日……段々と日数が増えていって、いつのまにか同棲生活になっていくんだ!」


 完璧だねと笑うゆりかの底抜けの明るさに、目の前が大きく開けたような気がして私はいつの間にか彼女に抱きついていた。


「また泣いてる……。お姉ちゃんってもっとクールじゃなかったっけ?」

「だって、だって……」

「わかったから。いい子だねいい子いい子。もう、どっちが姉か妹かわからなくなっちゃうなー」


 ゆりかは私の頭を優しく撫でた。

 そうしてこの日から、一週間毎だけれど彼女と共に暮らす生活が始まった。


「あれ……待ってゆりか。少し痩せたんじゃない?」


 彼女が訪れるようになってから二度目の土曜、私には頬や手足の具合が先週とは違って見えた。


「最近ちょっと食欲が落ちちゃって。なんだろ。暑さのせいかも?」

「ちゃんと食べて、それでも調子悪いなら病院で診てもらったほうがいいよ。……ううん、今から行こう」

「なんともないのに病院は大げさだって。ていうか、それを言うならお姉ちゃんも心配だよ。ゴミ箱の中、コンビニ弁当とかカップラーメンばっかりじゃん。栄養偏ってそうだし目の下のクマもひどい!」


 そう指摘されてすぐに洗面所に向かった。

 鏡の中にいたのは、髪の毛はぼさぼさで肌は荒れていてあからさまに血色の悪い私。

 こんな姿を晒していたのかと思えば「反省してます」としか言葉にできず、それを見たゆりかは楽しそうに笑っていた。

 そのやり取りに懐かしさを覚えると、冷えた心が暖かくなっていくのがわかり私の生活は変わっていった。



「このあと時間あるならどこか寄って帰る?」

「ごめん、今日はちょっと急いでるから。また今度でいいかな」


 大学では相変わらずだけれど、一言二言会話を交わす程度の顔見知りが何人かできた。ゆりかに勧められるままに最低限のメイクや、服装に明るい色味のものを取り入れるようにした結果なのかもしれない。

 よくなりつつあるとはいえ平日は基本的にテンションが低い。それでも土曜日にはゆりかが待ってくれている。一緒にご飯を作って食べてテレビを見ながら横になって、次の日までずっと一緒。いつまでも彼女の笑顔を見ていたい。それだけこそが私のすべての支えとなった。


 そうして時間が経過していき、彼女が宣言したとおりに週ごとにいられる日が増えて三日になった。


「でも、大丈夫なの? 二人に怪しまれそうだけど……」

「心配しなくてもそのへんはうまい事やってるから。それよりお姉ちゃんはどうして着替えてないの? 今日はデートする約束なの忘れてないよね?」

「……っ!? ごめん、今すぐ支度する」


 ゆりかと映画を観に行ったあと食事を済ませ、あれいいねなんて会話をしながらウィンドウショッピングをする。


「で、デートなんだから普通だよね」

 帰り際私が手を差し出すと、

「はぁー、やっときた。そっちから繋ぐの待ってたんだよ?」

 ゆりかはにっこりと笑った。


 それからも何事もなく彼女との月日は続き、遊園地、水族館、動物園と二人で色んなところへ行った。

 ゆりかのスマートフォンに写真が残せない代わりに、私のシークレットフォルダは次々と埋まっていき、夜眠る前にスワイプして振り返れば幸せな気持ちが満たされていった。


「香奈って妹さんと仲いいんだね」

「そうなの! とってもいい子でさ。聞いて聞いて、この間なんてね――」


 近所でアルバイトを始め金銭的にも多少余裕が出てきた。大学ではいよいよ友人と呼べるような人間関係を築き始めていて、ゆりかも同じところに行きたいと口にすると、私は完全に舞い上がっていた。


「来週の誕生日は奮発してちょっといいフレンチとかいってみない? もちろん私が全部出すから安心して」

「お姉ちゃんの家で過ごしたいな。だって、ゆりか達こんなに幸せなんだもん。これ以上何かを望んだらばちがあたるよ」

「わかった。じゃあ、また昼過ぎにね」


 早朝。タイマーよりも早くに飛び起きて、部屋の片づけを終わらせたあと買い物を済ませる。ゆりかの好きなビーフシチューの仕込みをしたあと、彼女と過ごす穏やかな時間を想像しているといつの間にか眠っていて、夕方頃目が覚めた。

 外が暗くなり始めた頃、鍋に火をかけてずっと待っていたけれど結局彼女が訪れる事はなかった。


 何か手違いがあったのかもしれないと夜遅くまで部屋で待った。二日目は玄関の外。三日目は近くのコンビニ周辺。四日目は彼女の家の前で待ち続けた。


 それでも、寝る寸前まで私の家のドアは一切の物音を立てないしスコープを覗いても誰もいない。

 翌朝目覚めるとスマートフォンが鳴り響いていた。ゆりかとは直接連絡を取る事ができないのもあって、無意味な事だろうけど力なく応対する。


「今まで何やってたの? ゆりかが大変なの」


 言葉の意味がすぐに飲み込めずに、ぼうっとしているとスマートフォンが床に落ちる音が聞こえた。「ねえ香奈、聞いてるの!?」スピーカーから母親の声が響く中、気付けば私は駆け出していた。



「あ、お姉ちゃんだ!」

「ねえゆりか、なんともない? 大丈夫? 痛いところはない?」

「またそうやって泣く~。全然大した事ないから大丈夫だよ!」


 病室で再会したゆりかは思っていた以上に元気そうだ。


「本当に、本当に本当にそうなの?」

「さすがに大げさすぎだよ。でも、お姉ちゃんが心配して来てくれたの嬉しい」

「すぐ退院はできるよね?」

「一通り検査して、大丈夫そうならって言ってた。だからそこまで時間は掛からないと思うよ」

「でも連絡取れないし……できるだけ毎日寄るからね」

「やった! 今度はお姉ちゃんが押しかける番だね。じゃあ、お見舞いはあのお店のプリンと――」


 四人部屋という事もあって声量は控えめだけれど、いつもと変わらない調子でゆりかは笑った。


 それからはほぼ毎日、講義が終わると病院へ直行し面会時間が終わるまで彼女と一緒にいた。時折病室にいない時があるのは、ちょうど検査などをしているのだという。

 そうして一月が経ち、ゆりかの影をなぞるように明るくなりつつあった私は、友達と遊びにいったり家に招く事が増えていわゆる『孤独ではない』大学生活というものを謳歌おうかしていた。


 唯一の気がかりは、それからさらに一月が経ってもゆりかが退院しない事だ。何度問いかけても彼女から返ってくるのはまるで要領を得ない返事ばかり。両親に事情を聞こうにも、あの冷えた視線を思い出すと連絡する事自体が億劫になってしまっていた。   

 そうして何の進展もないまま、もどかしさだけが募る日々は過ぎていった。


「香奈、今まで冷たくしてごめんなさい。これからはできるだけゆりかの側に居て欲しいの」


 窓の外の景色が秋から冬へと移り変わりを見せてきた頃、電話口の母親は確かにそう言った。


「ねえ、それってどういう意味……?」


 そう返すと静かになったまま間があいて、


「ゆりかがね、香奈にはちゃんと伝えたいって言ってるの。できたらすぐに行ってあげて」


 これまでに聞いた事のないくらいの穏やかな声が頭には残り続けた。その足で病院へ向かうと案内されたのはいつもの四人部屋ではなく個室だった。

 嫌な予感を振り切ろうと何度も深く呼吸をする。いつもの調子の第一声を頭で繰り返しながら、ノックをしてドアノブを押した。


「ゆりか、お姉ちゃんが来たよ」


 震えたままの声は病室に反響して、ゆりかは私を見るとわずかに微笑んだ。その表情や力なく振る手は、記憶の中とは違いほっそりとしてただ事ではないのがすぐにわかった。


「来てくれてありがとう。そこに座って」

「伝えたい事って何……?」

「ゆりかね、長くても一年しか生きられないんだって。ほら、よく聞くでしょ。あの余命宣告ってやつ」


 間髪なく平然と打ち明ける彼女に、私は座っているのにも関わらず眩暈を覚えたように目の前がぐらぐらとする。初めは悪い冗談かと思ったけれど彼女は変な嘘をつくような子ではない。


「現代の医学は優秀なはず……。だからちゃんと治療しよう。待ってて、先生に掛け合ってくる」


 そう自分に言い聞かせて部屋を出ようとすると、


「そんなのとっくにお願いしたよ? それで一年だから言ってるの。結局死ぬだけなのに皆に迷惑かけちゃうし、少し長く生きられたところであんまり意味はないよ」


 背後からゆりかの声が聞こえてきた。振り返って見つめたその表情は、いつも前向きで明るい彼女とは真逆そのものだった。


「でも、何が起こるかわからないよ。諦めなければまだ一緒にいられるし同じ大学にも行ける。お願い、私と頑張っていこう」

「……何を言っても平行線みたいだね。いったんそれは置いといて、お姉ちゃんにお願いがあるんだ」


 そう言ってゆりかは手招きをした。すぐに彼女に近づき弱々しく手を引かれると瞳を覗き込んだ。


「お姉ちゃん、あの日のキスの続きをして」

「どうして、今……」

「いいから。それとも、こんなゆりかとはしたくないかな……?」


 姿こそは大きく変わっているけれど、潤んだ瞳は変わりなくあの夏の日のままだ。今度は私が彼女の体を優しく押し倒し顔を近づける。

 唇同士が触れた瞬間、わずかに目尻の下がったゆりかに押し戻された。


「今までたくさんのものをありがとう。ゆりかはこの思い出だけを抱えて死んでいく。だから、お姉ちゃんも醜くなっていく私を記憶に残さないで」

「ねえ、さっきから何言ってるの……? そんなの絶対認めない! お姉ちゃんは最後まで一緒にいる!」


 彼女にいずれ来る終わりを言葉にしてしまった私は思わず口を塞いだ。


「もう来ないでください。あなたが側にいると、すべてを諦めきれなくなるから迷惑なんです」


 直後ナースコールを押したゆりかに追い出され、私は病室のドアにもたれかかり床に座り込んだ。

 壁を一枚隔てた向こう側からはすすり泣く声がたえず聞こえてくる。

 もうわかっている。あの言葉はすべて自分を見捨てないでくれとのメッセージであり、誰よりも優しいゆりかはそれを切り出せない。


「いつもごめんなさいね。ゆりかちゃん、あなたにはどうしても会いたくないって……」


 毎日のように病院を訪れては面会を断られた。それでもゆりかに残された時間は僅かなのだから、心が折れている暇や泣いている暇なんてない。両親や大学なんてもうどうだってよかった。

 スマートフォンや、記憶の中に残っている笑顔と声だけを頼りに朝早くから足を運ぶ。雨や雪の日には彼女から誕生日に貰った折り畳み傘を差した。そうしてカーテンが開くのを逃さないように、夕方過ぎまで病院の外のベンチから彼女のいる病室を見上げるだけの日々は続いた。


「お姉ちゃんはここで何してるの?」


 ある日、入院患者だろう小さな女の子が私を不思議そうに見ていた。


「大事な人を待ってるの。今はまだ会えないからじっとしてるんだけどね」

「ママが言ってた。いい子にしてたら願いは叶うんだよ。その人に会えたら一緒に食べて!」


 彼女とは毎日ここで話すようになり、まるで過去のゆりかと会話しているようで嬉しい気持ちが心を満たしていった。時間が経つにつれて、退院したのかあるいは遠い所へいったのかはわからないけれど、彼女と再び会う事はなかった。

 貰った大粒の飴玉を強く握り締めて空を仰ぐ。


 そうして半月以上が経った曇りの日、ベンチでうとうととしていると見覚えのある看護師さんが私の目の前に立っていた。


「本当はいけないのだけど……」


 困り顔をした彼女の背後には車椅子が隠れていて、


「忘れてました。あなたは諦めが悪い人ですもんね。もう、こっちが負けを認めるしかありません」


 そこには、随分とぶかぶかになってしまったけれどあのお気に入りの服に身を包んだゆりかが座っていた。

「こんなになって……」

 彼女を抱きしめていると、看護師さんは「十分したら戻ってきます」と私達の背中に優しく触れて立ち去っていった。


「ねえお姉ちゃん、ゆりかをここから連れ出して」

「でも……さっき戻ってくるって言ってなかった?」

「すぐ済むよ。だから、その前にどうしても一緒に見に行きたいところがあるんだ」



 病院を抜け出して、ゆりかの乗る車椅子を押しながら川沿いの道を歩いている。春には桜が満開になるここは私達の通っていた高校への道だ。

 正門前で立ち止まって耳を澄ませると、グラウンドの掛け声に紛れて吹奏楽部の演奏が遠くから聞こえてきた。


「毎日部活張り切ってたよね。でも、頑張れば今からだってさ――」

「別に好きでもなんでもなかったけどね。あれはただの振り。そもそも、お姉ちゃんがいたからこの学校にしただけだもん」


 学校をあとにして、かつての帰り道である商店街通りを進んでいく。一緒に通学していた頃私達は寄り道ばかりしてよく怒られていた。

 懐かしい思い出が残るお店に目移りしていると、


「ねえ、あそこ覚えてる?」

 ゆりかが指を差した。


「三段重ねのアイスの一番上を落として、ゆりかが涙目になったお店?」

「違うよ。そのあとお姉ちゃんがあーんして食べさせてくれたお店」

「そんなのあったっけ?」

「お姉ちゃんにとっては何気なかったんだろうけど、お姉ちゃんがしてくれた事、ゆりかは全部覚えてるよ」


 背後にいる私には、彼女の表情は見えないけれどその声色からは不思議と抑揚を感じられなかった。


「もうこんな時間だね。そろそろ戻った方がいいかも」

「待って。最後にあそこ寄って行こうよ」


 ゆりかの言っているのは、崖の上にあって海を一望できる見晴らしのいい展望台だ。ここも彼女と一緒に何度か来ていて、日が暮れるまで過ごし写真を何枚も撮った。


「もうちょっと海が見えるところまで行って」


 暗くなりつつあるせいか周りには誰一人としていない。波音だけが響く中、お互い無言で佇んだあとゆりかはそう口にした。


「ここも懐かしいね。よく大声で叫んだりしてさ」

「ねえ、最後のお願いしていい?」

「また写真撮りたいとか? だったら、寒くなってきたしすぐ撮っちゃおう」

「本当にごめんね」

「それってどういう意味? ゆりか、答えて」


 正面に周ると、彼女は病室にいた時と同じように沈んだ瞳をしていた。


「病気に負けてしまう前に、お姉ちゃんがゆりかを殺して。ただここから落とすだけでいい。でもこのことは誰にも知らせないまま、誰かと幸せに暮らして灰になる時まで黙っていてね。そうすれば、ゆりかはお姉ちゃんの中だけでいつまでも生き続ける」


 彼女はスマートフォンを取り出すと海へ放り投げ、


「あとはお姉ちゃんが、ゆりかと病院で別れたあとの事はわからないって言えばいい。お願い、お願いだから」


 私の腰元にしがみついて懇願してきた。


「ねえ、自分が何言ってるかわかってるの……?」

宣告の時から一番好きな人にころされたいって思ってた。だけどなかなか言い出せなくて。ああ、でもよかった。お姉ちゃんが最後を看取ってくれるんだから病気になってよかったな」


 鼻声混じりの彼女の訴えに、屈んでその表情を窺うけれど視線は合わない。


「それが望みなの?」

「そうだけど?」

「ゆりかは嘘をついてる」

「ついて、ない」

「ちゃんと答えて。私はそれが最後にして欲しい事かって聞いてるの!」

「どうしてわかってくれないの? さっきからそうだって言ってるよね。いいからさっさとここから突き落として!」


 ゆりかと大声で言い合ったのは初めてで、これまでになかった鬼気迫る様子を目の当たりにした私はまだ諦めきれないでいる。


「よく聞いて。私はゆりかを失ったら生きていけない。ゆりか以外の誰かと幸せにはなれない。私は面倒くさくて臆病でうじうじしてて、ゆりかみたいに明るくなくて、すぐ泣いちゃって、どうしようもないお姉ちゃんだよ。それでもね、ゆりかが本音で話してない事くらいもうわかってるんだから」


 肩に手を乗せて諭すように語り掛けると、俯いていた彼女とようやく目が合いその瞳は真っ赤に染まっていた。


「だって、だって……」

「わかったから。いい子だねいい子いい子。もう自分を抑えないで。私はゆりかの最後の望みを知りたい。例えどんな事になってもお姉ちゃんが必ず叶えてあげる」


 泣きじゃくるゆりかの頭を優しく撫でたあと抱きしめる。


「一人で死ぬのは怖い。死ぬならお姉ちゃんと一緒がいい。ごめんなさい、こんな事言いたくなかったよぉ……」


 肩口からの震える声を聞きながら、大きく頷いたあと彼女と再び向かい合った。


「今まで一人でよく頑張ったね。でも、ここからはお姉ちゃんも一緒。私達は絶対に死なない。死ぬはずがないんだよ。二人で遠いところへ旅立つだけなんだから恐れないで」

「お姉ちゃんのそういうところが好きだった。ううん、これからもずっと大好きでいさせてね」

「私も、誰が何と言おうと世界で一番大好きだよ」


 お互い抱きしめあったまま、私達は暗く深い海へと沈んでいく。

 凍える体に途絶えていく意識の中で不意に走馬灯が駆け巡る。

 私の視界には常にゆりかがいて、彼女は時折感情的になったりするけれど最後にはいつも笑っていた。

 きっとそれはゆりかも同じ。彼女の中では私が意地を張り真っ赤な顔をして照れ隠しをしていただろう。私達は、この幸せが間違いなくいつまでも続くのだと信じて疑わなかった。


 でも、そうなる事はなかった。


 私達の新しい世界はきっと、あのワンルームのようにがらんとしていて何もないだろう。けれど、邪魔をするような要因すべてから解き放たれた私達はいつまでも楽しく暮らしていける。


 少しだけ離れていたゆりかを側に引き寄せ、両手を硬く握り冷えた口づけを交わしたあと、できうる限りの笑顔を彼女に向けた。

 最期に目に映ったものは、「ありがとう」と呟いて、あの夏の日と同じように笑う彼女の姿だった。

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誰が何と言おうと世界で一番大好き ひなみ @hinami_yut

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