声なき声の消滅

そうざ

The Voice of the Voiceless has Disappeared

 かつて文字を持たない人々が存在した。

 インカ帝国で知られるアンデス文明がそうであったし、倭国もそうであった。所謂、四大文明とは一線を画す彼等は劣っていたと言えるか。

 ――否である。


 文字がなくてもコミュニケーションは可能である。動物の例を挙げるまでもない。

 実のところ、コミュニケーションにとって言葉の存在さえ絶対条件ではない。こう述べると、真っ先に手話を想像する諸氏も居られよう。

 しかし、ここで私が言いたいのは、伝達方法としての発語は疎か、能動アクションさえ必要としない言語である。

 では精神感応テレパシーか、と超常的な解釈へと飛躍する向きもあろうかと思う。

 ――否である。


 然るに、この世界に内在する如何いかな僻地の果てまで隈なく経巡へめぐったところで、先に縷々述べた如き文明は見付けられまい。飽くまでも思考の戯れに浮かび上がった、過剰に抽象化された概念ゴーストに過ぎない。

 長年、少数民族への野外調査フィールドワークを続けている私とて、そのような期待は毛の先程も抱いていない。全ては理想化された妄想の中にしか存在し得ない。

 ――否である。


             ◇


 ソクンタ族の祖先が峡谷に囲まれた陸の孤島の如き土地に移り住んだ事は、彼等の代々の記憶に残っている。平和を愛し、一種族としての孤高を旨としたのがその理由だと言う。

 彼等の内に、近接の他部族が当然有している『戦士』『略奪』『妥協』等の概念が存在しないのは、部族間対立を徹底的に回避し、独自の暮らしを選択し続けた結果、次第に失われたと見るのが妥当であろう。

 この変化がやがてコミュニケーションの本質にまで及んだ事は、末裔の暮らし振りが如実に証明している。


 ソクンタ族が文字を持たない事は既に議論の余地もないが、言葉に関しては解釈に幅が生まれるだろう。

 彼等とのコミュニケーションは、三人の通訳を介す事で辛うじて可能になる。一人目は私の言葉を公用語に、二人目はそれを同地の他種族も使用している共通言語へと訳す。そして、ソクンタ族出身の三人目が共通言語をソクンタ語(便宜上そう名付けている)に翻訳するのであるが、ここに不可思議な方法が用いられる。


 因みに、三人目の通訳はその役柄を担った事で今やソクンタ族の一員とは見做されていない。他種族に思考を侵食された者として、同族と婚姻を結ぶ事も、村内で寝食を共にする事さえも固く禁じられてしまった。この禁則は文明社会との接点が生じた近代になってから生まれたようである。


 ソクンタ族のコミュニケーションは、野生動物の鳴き声が由来と思しき独特のを用いて行われる。

 しかし、この発声のバリエーションは至って乏しく、『咆哮』『いななき』『さえずり』を音量、抑揚、遅速等の僅かな加工を施しながら組み合わせるのみである。

 然るに、彼等はこれでコミュニケーション全般を可能にしてしまう。伝達内容がどんなに複雑だろうが、多岐に亘ろうが、彼等はほんの一声で互いの内面を把握してしまうのである。


 ソクンタ族の乳幼児は、世界中のどの民族もそうであるようにまだ言語外の存在である。が、彼等はその後も発声を学習、習得する過程を経ずに成人する。

 それどころか、先に触れた発声のバリエーションであるが、各人各様、自分なりに表出している節があり、言語体系と呼べる法則がまるで存在していないように映るのだ。

 ソクンタ語は言語であって言語ではないような、稀に見る独特のパラドックスを有しているのである。

 数年に亘って根気強く野外調査を続けた私としては、ソクンタ語は彼等が先天的に身に付けている、本能とほぼ同義の能力と解釈するのが妥当であると結論付けるに至った。


 しかしながら、彼等にしても私が夢想する超越的コミュニケーションを体現する存在ではない。

 私は戯れに簡単な実験を行った。

 先ず、無作為に選抜した複数の老若男女の前で、予め通訳達に用意させた山芋ヤムをキャリーケース一杯に詰め込み、おもむろに施錠と解錠とを繰り返して見せた。

 次に、例の如く面倒な通訳を介し、ケースを破壊せず開けられた者に中身を全て与えると伝えた。

 山芋は彼等の主食であるが、農業を知らない彼等は日々の大半をこの入手に費やしている。それが故に、この試みは彼等にとってまたとない好機である筈なのだ。

 案の定、試行錯誤が展開された。

 鍵の辺りを弄繰いじくり回す者、ケースを岩場に叩き付けようとして思い止まる者、叫声を上げて七転八倒する者まで現れた。

 狂態の最中、私はこれ見よがしに鍵をちらつかせたのだが、誰一人その事に気付く者は居なかった。鍵の概念がない以上、無理からぬ事かも知れない。勿論、その反応は想定内だった。

 私は今一度ケースを解錠して中身を見せ、改めて施錠した。そして、ケースを開けるには何をすれば良いのかをよく考えろ、と伝えた。元より、彼等が争いを好まず、実力行使に訴える事はないと見越した挑発である。

 彼等は次なる行動に移らなかった。見兼ねた私は鍵で鍵穴を指し示した。それでも埒が明かない。

 人の子であれば生を受けて九ヶ月も経てば理解し得る『共同注意』さえ、遂に解す事はなかったのだ。


 彼等が私にもたらしたのは失望よりも倦怠だった。

 矢張り、彼等のコミュニケーションは動物に毛の生えたレベルであり、人類は疎か類人猿からも大きく退行しているというのが、私の包み隠さざるを得ない感想である。


             ◇


 ソクンタ族の間で語られる閃光飛行体の噂は、予々かねがね耳にしていた。

 近隣民の言では『声なき声VV(ヴォイスレス・ヴォイス)』と解されているもので、天に前触れもなく現れ、閃光を放ちながら無音のまま密林の奥地へと移動すると、揚々として緑の大地へと消え去るのが常だと言う。

 しかし、同地上空には如何なる航空ルートも存在せず、官民を問わず飛行実験の類を実施した事実がない事も明らかだった。

 何らかの自然現象か、或る種の信仰に根差した妄言であろうと、当初の私は重く受け止めていなかった。


             ◇


 それは、折しも滞在最終日の早暁の出来事だった。

 珍しく前夜からしとしとと降り続いていた雨が夜明けと共に上がり、西の空に見事な二重の虹ダブルレインボーが掛かっていた。

 主虹と副虹との間――アレキサンダーの暗帯と呼ばれる、相対的に暗いその空間には正に忽然と現れた。

 VVは果たして閃光を放ち、静寂を振り撒きながら奥地へと超然と移動して行った。気象学や天文学、物理化学に疎い私だが、学者としての直感はそれが自然現象の類ではないと教えていた。

 私はベースキャンプを飛び出し、ソクンタ族の家々を回っては次々に彼等を叩き起こした。

 私達の存在を歯牙にも掛けず緑の大地へと吸い込まれて行くVVと、仄かな嫌悪の色を滲ませた瞳で一部始終を見守る彼等との対比は、私の心に深く印象付けられた。


             ◇


 ソクンタ族の面々は、森の奥地への案内をかたくなに拒み続けた。

 VVが降り立ったと思しき場所は、彼等が決して立ち入らない禁忌地帯タブー・エリアなのだと言う。そんないわれは初耳だった。

 何故、野外調査期間中、禁忌地帯について一切教えてくれなかったのか。私は通訳を介して一人一人を問いただしたが、敢えて隠していた訳ではなく、単に質問をされなかったから、と口を揃えるばかりだった。

 更に奇妙な事には、禁忌の理由に関してまるで説明が出来ないどころか、私に案内を請われたその瞬間にふっと脳裏に禁忌の概念が生じたと言うのである。


 彼等の言い分を何処まで鵜呑みにすべきか。彼等は原初から進歩的な好奇の芽が摘まれている為、どんな人参をぶら下げようが、飴をちらつかせようが、キャリーケースを開けて山芋を転がそうが、崇高な学術的意図への忖度などまるで期待出来ない。一方で、そんな彼等であるからこそ姑息な虚偽の申告をするとも思えない。

 このあり得べからざる事態は、私を激しく混乱させた。が同時に、帰還の日程を大幅に延長するに充分値する事柄と悟らせたのである。


             ◇


 日暮れにはまだ早いが、折り重なった陰鬱な葉陰が湿気を搦めながら容赦なく視界を塞ごうとしていた。そこに断続的な鳥獣の声が被さり、進路を惑わせる。

 視野も視座もあったものではなかった。密林の景色はいとも容易く方向感覚を奪ってしまうのだ。

 それでもGPS端末は生きていた。文明の力が自分を増長させている事に気付かず、私はVVのいざないのまにまに一人、緑の空間を掻き分け続けた。


 そこに三人目の通訳が超然として佇んでいた。こんな奥地にまで村を追いやられていたのか。それとも、禁忌地帯のとば口で門番でもしているのか。

 何れにしろ、彼とは直接コミュニケーションが取れない。私は一方的に捲し立て、VVを見付けに行くとの意図を表出した。

 その時だ。

 大気が揺れていた。沸き立つような空気の振動が一面を覆い始めるのを感じた。

 温度が、湿度が、気圧が目まぐるしく変化し、何処からか風が生まれた。

 生まれた風は森をそよがせた。

 戦いだ森は、野生動物の声と葉擦れとを綯い交ぜにして行く。

 森が、森全体が喋り始めた――私にはそう感じられた。

   常に――絶え間なく――ささめき続ける。


      無数の発声が――私を――包み――


   ――文字――のななな――い――


         ――言葉も――言――葉もない――


      ――能――動すららら――


              ――な――いいいいい――



        ――静寂――




 VVが三人目の通訳を触媒のようにして声なき声で私にコミュニケートして来る。


 VVはソクンタ族に干渉したがっていた。この宇宙せかいにあって真にコミュニケートし得る存在として彼等に可能性を見出していた。

 その意図に於いて、私の存在は雑音であり、異物でしかなかった。


 VVは、人類の内部に誤差の如く現れる瞠視症的人格スコポフィリア・パーソナリティの存在を嫌悪していた。

 私の中に、私自身も意識出来ていないその兆候を見透かしていたのだ。


 私は未開の地に住まうソクンタ族に何を求めていたのか、と考えた。

 時に文化的上位に君臨する仮初めの来訪者として、時に象牙の塔から超然と視線を送る賢しらな観察者として、そして常にそぼる官能を包み込んだ皮膜の安全地帯アジールから嗤う偽善者として、文字をろうし、言葉であざけり、能動へと奉仕させてはいなかったか。

 子供達の揺らぐ瞳、女達のい眉根、男達の卑屈な口角、老人達の煤けた背中――私はそういった断片を文明の鞭笞べんちで制していたのだ。


 私はソクンタ族にとっても招かざる目障りな異物だった。

 内宇宙インナースペースを強引に抉じ開けようとする排他的部外者だった。

 上下を、優劣を、支配被支配を持ち込もうとする邪悪な客人まれびとだった。

 私の中に罪の意識が生まれた刹那、ようとして知れない思念と情念とが螺旋の刃となり、私を刺し貫いた。



 虚無――閉塞――

    ――感覚――思考――

        ――感情――直感――が――


     ――だが――

                ――もし――

          ――もしも――


 この期に至って私は、只管ひたすら心中しんちゅうを表さず、奥底へと秘めたまま静寂の果てで逝くべきであろうか。


 ――否である。


 私は言葉を有する文明圏に生まれ育ち、伝達手段としての文字を、発語を大いに多用して来た人間である。

 この星に発生した人類そんざいの叡智、知性、矜持、その全てを誇りに思う。

 のが最期の瞬間までそのやり方に則し、断固として表出する。

 それを解する者が存在していようがいまいが、構いはしない。


 私は図らずも求めていた存在に出遭ってしまった。


 何の事はない。


 VVは私だった。


 過剰に抽象化された概念を実態なき存在へと具体化させた私こそがVVだったのだ――



 私が私に――別離を告げる


  ――その為に


  文字も言――


葉も能――


     動も何も――


      ――――な  ―――――


  ――   ――

           ――――

       ――       ――

  ――

    ――     ――     ―――

    

         ―――

                 ――     


   ―

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

声なき声の消滅 そうざ @so-za

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説