第22話 好意の相手
ゴールデンウィークの後半で『ジャン・クリストフ』を読み終わり、感想文を書く。
僕よりジャンの方が才能に溢れているけれど、悩みがあるというところには共感できた。徒党を組まないところも外見上は似ているかもしれない。
もっとも、あちらは自分の進む道がはっきりしていて、それを追求するに当たって他者におもねったり、馴れあったりするのを拒否する一匹狼なのに対し、僕は単に他者と関わるのが上手じゃないだけで中身は全然違う。
まあ、作者は人としての理想像を描き出したものらしいので、僕なんかと比較するのもおこがましいのかもしれない。
読後の感想としては、正直よく分からない話だったということになる。
百年前の作品を前提知識なしに理解できるという方が異能だろう。
作中の出来事だって今の価値観にそぐわない。人を殺して逃げるという行為に対しては、現代日本に生きている立場だと嫌悪感の方が強くなってしまうはずだ。
天才が孤独と苦悩にまみれてようやく到達できる境地なら、僕はそれを実際に体験しないままでもいいと感想文の結びに書いた。
やれやれ。
長時間かけて読んだ感想がこれか。でも、これが正直な気持ちだ。
この話が物語として成立するのは、それが希少であり、現実にはなかなかないことだからということが下敷きにある。凡人は天才の真似をしても天才にはなりえない。僕が円城寺さんの境地からほど遠いように。狂人の行動をなぞれば狂人になるのとは違うのだ。
ゴールデンウィークが終われば、一週間が経ったということで、本を返しに行かなくてはならない。
なんだか喧嘩別れのような形になってしまっていて気恥ずかしかったが、次のタイトルの本も借りる必要があった。
部活前なら、それが長居をしない理由になると考え、急ぎ書庫に向かう。
カウンターで機械的に借りていた本を置き、次に希望する図書の名前を口にした。
円城寺さんは何事もなかったように淡々と本を貸し出す。
拍子抜けしたような気分で書庫を後にした。
数冊の本を借り返して、的場に立って弓を引く許可が出るようになる頃には、天気が崩れる日が多くなる。
弓道場は屋根があるので雨が降っても練習は無くならなかった。
雨の中で弓を射ると矢羽根が濡れないかと思うかもしれないが、空中を飛ぶ時間は一秒もかからない。
羽根自体も水を弾くのでほとんど影響はなかった。
的に向かって撃つようになると、面白さが全然違う。練習にも自然と熱心さが増した。
正しい射法で弓を引くことを優先するか、多少は形が崩れても的中率を追い求めるのか、大きく分けると二つの流儀があるらしい。
実際には極端にすぱっと別れるわけではなく、濃淡が入り混じるのだけど、僕はどちらかというと的中率を優先していた。
まあ、八回矢を放って、命中が三回程度の実力なので、いずれにせよ、まだまだ練習は必要である。
同期の仲も悪くなく、練習以外にもカラオケやボーリングに一緒に行く機会もあった。
今のところ特定の男子と女子が特に親密ということもなかったが、なんとなく、仄かな匂いのようなものは僕にも感じられる。
新垣さんは秋山に対して話しかけることが多い。秋山は誰に対してもそつなく応答するので一見すれば、仲が良いように見えた。ただ、僕は秋山の気持ちを知っている。
秋山の緑川先輩へのアプローチも慎重そのものと言った感じだった。あれだけ僕には疾きこと風の如しで、と言っていた割には、本人の実態は動かざること山の如し。
まあ、そういう態度になることも理解できた。
緑川先輩の気持ちが秋山に向いてはいなそうなことを僕は薄ぼんやりと感じている。
他人の観察に忙しく、僕自身へ向けられる思いについては全く分からなかった。
まさに岡目八目といったところ。
そして、円城寺さんとの関係も変化が無いことに変わりはない。
変化といえば、いつもに増して眠そうにしている日があったぐらい。
相変わらず、少年呼びであるし、円城寺さん自身については五里霧中というところだった。
お父さんがコレクションの上映会へ誘っているという話を秋山から伝言されたときに、ついでのように例のベランダ男の話を聞く。
「最近雨が多いからか、姿を見なくなったよ。あ、まだ住んじゃいるんだけどな。スマホを長々といじることはなくなった。もう変な書き込みするのやめたのかねえ」
円城寺さんの推理を秋山に話して聞かせてあったので、そんなことを言った。
僕の経験からすると誹謗中傷には常習性がある。そんな簡単にやめられるとは思えなかった。
しかし、真相は分からない。
その話を聞いた数日後の雨がしとしとと降るある日、電灯のスイッチを押すのが面倒で照明をつけずに更衣室で着替えていた。
ドアが開く音がして隣の女子更衣室に誰か入ってきて部屋が明るくなる。
更衣室は元は一つの部屋だったのを区切ったようで、向こうの声が聞こえた。
ゆっくりと着替えながら、聞くともなしに聞いてしまう。
「先輩って気になる人いるんですか?」
新垣さんの無邪気な質問にあっさりと回答する。
「居るわよ」
「え~、誰です? 部内ですか?」
「はしゃがないの。部内じゃないわよ。それ以上は秘密」
パタンとロッカーが閉まる音がして歩き出す音がする。
「待ってくださいよ」
まさか、自分の周囲でこんな恋模様が展開されるとは思ってもみなかった。
まあ、僕は主役の背景の端役でしかないけれど。
この情報を秋山に伝えるべきか悩んだ。
盗み聞きしたような形なのが気になるし、本人にとって良い知らせじゃない。
古代では悪い便りをもたらした使者の耳と鼻を切り落としたという。
まさか、僕も同じ目にあうとは思わないけど、余計なことをぐらいは言うかもしれない。
でも、結局、僕は秋山にその話を告げた。
秋山はあまり気にした様子もない。
「まあ、本当のことを言っているとは限らないし、もし本当なら、まだ付き合っているわけじゃないということになる」
ポジティブさか羨ましい。
「でも、そろそろ勝負どきかもしれない。踏ん切りがついたよ。情報ありがとな」
「どうするの?」
「今度、先輩が好きな映画の続編があるから、誘ってみるよ」
何も動いていないように見せかけて、ちゃんとリサーチしているのか。
僕が感心していると、秋山は照れた。
「なんか、ちょっと恥ずかしいな」
「いや、マジで凄いと思うよ。うまくいくといいな」
「そういう結城はどうなんだ? 添田さん、お前のこと意識しているっぽいけど」
「そうなの?」
「なんだ、分かってなかったのか」
なんか悔しい。僕も反撃することにする。
「そういう、秋山は新垣さんのことはどうなんだよ?」
「いや、あれは同級生としてだろ。あくまでライクだと思ってる。正式に告白されたなら考えなきゃいけないけど、俺は先輩が好きだし、俺から動くのは変だろ」
「そりゃそうだけど、新垣さんがちょっと気の毒な気もする」
「お、実は新垣さんが気になってるのか」
「違うよ」
「いや、気の毒って思うのは意識しているからだと思うぞ。いいじゃん、新垣さん。嫌みなところないし、結構可愛いし。ちと男っぽいけどな。結城には合うんじゃないか」
「それ、秋山が言う?」
「仕方ねえじゃん。俺は体一つしかないし、二股する気はないし」
「それはそうだけど……」
「結城ってさ、受け身だよな。あ、いや、非難じゃないなんだ。でもさ、自分が気になる相手が向こうから告白してくるなんて、マンガじゃないんだから、そうそうは無いと思うんだよ。だから、自分から好きを告げた方がいいと思うんだ。いつまでも待ってるうちにどんどん相手が決まっていっちまうぜ」
やっぱり、秋山は僕よりもしっかりしている。
自分の気持ちすらはっきり分からない僕とは大違いだった。
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