エピローグ

 天堂さんにラノベ作家であることを明かしたが、俺を蔑視べっしすることも、俺がラノベ作家だと言いふらすこともなかった。むしろ、話しかけてくることが多くなり、親密さが増した気がする。


 俺が恐れていた事態はなにひとつとして起きず、プラスの方向に働いたわけだ。怖がっていたのがバカみたいに思えてくる。


 雨降って地固まるという言葉通り、天堂さんと雛野の仲もより一層深まった。問題の解決としては最高のかたちだろう。


 それから一週間後、俺がクリアすべきもうひとつの課題にも一区切りがついた。


 添付ファイルとともにメールを送信して、俺は伸びをする。


「やっと終わったあ……!」


 添付したのは、最終調整を施したプロット。高柳さんからOKをもらい、俺が書こうとしている半同棲ラブコメが、企画会議にかけられることになったのだ。


 清々しい開放感に包まれていると、コンコンとドアがノックされた。「どうぞー」と俺が許可すると、マグカップをトレイに載せた雛野が部屋に入ってくる。漂ってくるかぐわしい香り。いつものようにココアを持ってきてくれたらしい。


 マグカップを机に置いて、雛野が俺に尋ねてきた。


「お疲れ様、あきくん。お仕事のほうはどう?」

「ちょうど終わったとこだよ。高柳さん、企画会議にかけてくれるって」

「わあ! やったね!」


 いまにもバンザイしそうな明るい笑顔をしながら、雛野が我がことのように喜んでくれた。雛野の微笑ましさに頬を緩め、俺は「まあ」と付け足す。


「企画会議に通るかどうかはわからないから、まだスタートラインにさえ立ててないんだけどね」

「それでも、プロット作りをやり遂げたのは変わらないよ。あきくんはいっぱい頑張ったんだから、誇らしく思ってもいいんだよ?」

「そうだな。ありがとう、雛野」

「どういたしまして」


 雛野が穏やかに微笑む。つられて微笑んで、俺はココアを一口含んだ。


 ココアの優しい味わいと、温もりが、体に染み渡っていく。それが呼び水になったみたいに、急に眠気がやってきた。


 くあぁ……、と大あくびをする俺に、雛野がクスリと笑みをこぼす。


「晩ご飯まで時間があるから、一眠りしたらどうかな?」

「ああ。そうさせてもらおうかな」


 椅子から立ち上がり、ベッドへと移動して、身を投げ出すみたいにして横になる。


 どうやら相当疲れていたらしく、眠気はドンドン強くなり、俺の意識は薄れていく。そんな俺をいたわるように、雛野がそっと頭を撫でてくれた。


 我が子をいつくしむ母親みたいに、白く優しい手が俺の髪をすいた。その心地よさにいざなわれるように、俺は夢の世界へと運ばれていく。


 夢うつつのなか俺は思う。


 雛野がいなかったら、自分の体験を作品に落とし込むことはできなかった。俺はずっとスランプに苦しんでいただろう。


 雛野がいなかったら、いまごろ俺の部屋は汚部屋になっていた。俺のひとり暮らしは破綻していただろう。


 雛野がいなかったら、コンビニ弁当とカップ麺ばかり食べていた。俺の健康は損なわれていただろう。


 雛野が隣に引っ越してきてくれたから、面倒を見はじめてくれたから、俺の人生は好転したのだ。


 眠りにつく直前、俺は無意識のうちに口を動かす。


「……つきちゃんがいてくれて……本当に、よかった」

「……それはね? わたしのセリフなんだよ?」


 雛野がなにか言った気がした。




     ◎  ◎  ◎




 晩ご飯の下ごしらえを終えて、わたし――雛野月花はエプロンを外した。


 外したエプロンをダイニングテーブルの椅子にかけて、あきくんの部屋へと向かう。


 わざと小さめにドアをノック。あきくんからの返事はない。それを確認してから、わたしは音を立てないようにドアを開けた。


 予想通り、あきくんはまだベッドで眠っていた。足音を立てないように近づき、しゃがみ込んであきくんの寝顔を眺める。


 無防備だからかいつもより幼く見えるあきくんの寝顔が愛おしくて、わたしは柔らかく頬を緩めた。


「……あきくんは、いつもわたしを助けてくれるよね」


 あきくんを起こさないように、小さな声で感謝する。


 幼い頃から極度の引っ込み思案だったわたしは、いつまで経っても友達を作れなかった。そんなわたしを気にかけて、遊びに誘ってくれたのがあきくんだ。


 中学に上がってからは疎遠になってしまったけれど、中三の修学旅行の班決めで、あきくんは、余りものになってしまったわたしを班に誘ってくれた。


「あのとき、わたしがどれだけ救われたか、あきくんは知ってる?」


 そう。あきくんは、いつもわたしを助けてくれた。救ってくれた。あきくんは、わたしにとってのヒーローだ。


 だから、わたしはいつまでもあきくんのそばにいたいと思っていた。側にいて、いつか恩返しをしたいと思っていた。


 わたしは、いつまでもあきくんの側にいられると、信じて疑わなかった。


 けれど、それはわたしの願望に過ぎないと思い知った。あきくんのご両親が海外に出張することになったと、お母さん伝てに聞いたことで。


 もしかしたら、あきくんもご両親と一緒に海外に行ってしまうかもしれない。その考えに思い至った瞬間、血液が氷水になってしまったかのような悪寒が走った。全身が震えて止まらなくなった。


 それからは不安でしかたなかった。眠れない夜を過ごしたこともあった。あきくんがいなくなる夢を見て、飛び起きたこともあった。


 幸い、あきくんは日本に残ったけれど、この出来事を経てわたしはようやく気づいた。いつまでもあきくんの側にいられるとは限らないと。いつか離ればなれになってしまう日が来るかもしれないと。


 そんなのは絶対に嫌だった。わたしはあきくんの側にいたいのだから。あきくんに恩返しをしたいのだから。


 わたしの望みは現状維持では叶えられない。『疎遠になった幼なじみ』のままではいられない。


 だから、わたしは変わることを決意した。暗い印象を与える長髪を短くして、猫背を治して、人付き合いの本とファッション雑誌を読みあさった。あきくんのお母さんにお願いして、あきくんのお世話係にさせてもらった。


 あきくんの側にいるために。あきくんに恩返しをするために。『疎遠になった幼なじみ』から抜けだして、あきくんと新しい関係を築くために。


「覚えてる? ふたりでデートしたとき、あきくんはわたしに、好きなひとがいるのかいてきたよね? その質問に、わたしは『内緒』って答えたよね? どうしてそう答えたのか、わかる?」


 あきくんは、自分に自信がないように感じる。だから、わたしが『いる』と答えたら、あきくんは勘違いすると思ったのだ。『自分』を外して考えるだろうと思ったのだ。


 けど、『いない』と答えるのは嘘になる。なにより、『いない』ことにしたくなかった。


 だからこそ『内緒』にしたのだ。いまはまだ、本心を打ち明ける勇気がわたしにはないから。


 高校デビューするために、わたしは必死で努力した。けど、性格までは変えられなかった。もちろん少しは和らいだけど、結局、わたしは引っ込み思案のままだ。


 そう。わたしは引っ込み思案。面と向かって思いを伝えることは、まだできない。


 だからわたしは、あきくんが寝入っているのを確認してから、聞こえないことを確認してから、そっと囁くのだ。




「大好きだよ、あきくん」

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面倒を見ていた幼なじみが高校デビューした。そんな彼女が健気に世話を焼いてくれる 虹元喜多朗 @nijimon14

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