第16話

 エリツィナは手を止めて、少しだけ首をかしいで、その青いビー玉の様な瞳をこちらに向けている。手を止めているのはわかる、彼女に拭いて欲しい食器を手渡す私の手が止まっているから。 


 同じクラスに転校してきたのだから、彼女は当然同い年ないしは程近い年齢。


 そして私が薫子かおるこさんの手癖の悪さを見て育ったり、あるいはクラスメイトの——年上の彼氏の浮気癖が酷いとか、後輩との初体験がウブで可愛かったんだけど、やっぱり童貞だったとか。女子の会話はマジで容赦がない——に巻き込まれる事もあったから、きっとエリツィナも似た様な経験をしてきただろうと真実を意識の外に追いやっていた。


 けどやっぱり私は、まだこの子の事を何も知らない。少なくともこの様子から察するにエリツィナは、男女の情事がどうのといったことに対して俗世にまみれた知識がない様で。


つまりつまり、私が、この会ったばかりのお人形みたいな女の子に、あれやこれやを今、伝えなければいけないって……こと?


 無理では?




「お、女漁りっていうのはぁ、そのー……なんというか……」


「近しい人と快適に過ごす為には、趣味に対し興味を持つべきだと学びました。私は薫子とも親密になりたいです。トオル、教えてください」




 どこでそんな所帯じみた知識を学んだんだよとか、女漁りなんて趣味に興味を持たないでほしいとか、ツッコミを入れたい気持ちをグッとこらえ、どう対応すれば良いかを考える。


 手段はシンプルなものが二つ、誤魔化ごまかすか、正直に伝えるか。


ここでのやり取りに失敗すると、その類い稀なる容姿で以て鈴乃宮高等学校の女子を喰らい尽くすモンスターを生み出すことになりかねないから、慎重に言葉は選ぶべきだ。




「え、っとぉ……オンナアサリっていうのは、太平洋側の沿岸に生息する、小ぶりな二枚貝の仲間で……」


「その様に呼称される貝はマルスダレガイ科には存在していないと記憶しています。また、生物名は趣味にカテゴライズされるものでもないと把握しています。トオル、正確な情報を教えてください」


「うっぐぅ」




 誤魔化ごまかしはダメだ。どうやら頭の回転の速さではエリツィナには敵いそうもない。私の誤魔化し方が下手だったわけではなくて。


 気付けば、何故だかエリツィナは私との距離を詰めてきていて、そのお姫様の様な顔面が、私のすぐ目の前にある。


そこまで近づけば、彼女の両眉が少しだけ眉間に寄っていて、目に力が、ほんの少しだけ籠っているように感じる事ができる。


その様子が指し示すのは、師匠と仲良くなりたいという健気な努力か、はたまた、未知の事項への無垢むくな興味か。ほんと、どっちだよ。




「今のは冗談で、女漁りっていうのは、その、一夜を共にするパートナーを、無作為に選別する行為のことで……」


「……一夜を共にするパートナーを、無作為に。一夜を共にするという言葉が、ただ同じ時間を共に過ごす事を示すわけではない事を推察します。どの様な事をするのですか?」


「それは! その、仲良くするんだよ」


「仲良く。趣味というからには、その行為によってストレスを軽減する、興奮を得る、あるいは同好の士と親睦を深めるなどの効果が得られるものと認識しています」


「う、うん。そこまで高尚こうしょうなものとは、思わないけどさ」


「一晩共に、仲良く、という点に、それらの要素が含まれてくるのだと考えます。具体的に、仲良く、とはどのような事を示すのですか?」


「んぇっ」  




 婉曲えんきょくに、それとなーく伝わってほしいと願って口にした言葉は、ロシアから(自称)来たお姫様の様な少女には残酷なほど通じず、気付けば私は身体ごと、キッチンの壁際へと追い込まれていた。


私より背が低いはずのエリツィナの圧が妙に強くて、依頼中でも未だかつて感じた程がないほどに追い込まれてしまっている。


 言うしかないのか。別にを口にすることに恥ずかしさや、あるいは幼さ特有のいやしさは今更存在していないんだけど、状況と相手が悪い。


壁に追い詰められながら、やたら顔面の良い女子に向けて言うのは、なんというか、いけない事をしている気分になる。




「教えてください、トオル。仲良く、とは?」




 すう、と伸びた彼女の白い腕が、私の脇の下を通り、彼女自身の体重を支えるべくして壁に触れた。きっとエリツィナにはそんな気はないのだろうけど、私から見ると立派な『壁ドン』だ。


 もうここから逃れるには、さっさと言うしか方法はない。なんて事はないはずだ。今更恥ずかしいと思うわけでもない。さらっと言って、さらっと笑い流して、はい終わり。さぁ言うぞ、今言うぞ、一応、一回だけ深呼吸してから言うぞ。




「せっ……せっ……えっ……」


「せ?」




 言え、言うんだ、氷高透ひだかとおる

 今更そんなことで臆する様な、そんなやわな人生送ってきてないだろ!




「う、うぉ……」


「……透?」




 今日一日私の事を困らせてきた、伶奈・エリツィナに、氷高透はそんな安い女じゃないんだって事を見せてやれ!




「……交尾、のことだよ……」




 ダメだった。

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