5:二つの約束

「…い、おい!リュシー、起きろ!目を覚ましてくれ!」

「…ぇ…?…あ…坊ちゃん…」


 混濁した意識に鋭い声が差し込まれ、頭が前後に揺さぶられる。鉛のように重い瞼を引き上げ薄っすらと目を開くと、橙色の髪が朝の光を浴びて輝く、坊ちゃんの姿が浮かび上がった。坊ちゃんの表情は、その煌びやかな輝きにはそぐわないほど硬く強張り、秀麗な眉の端が大きく下がっている。私が、そんな坊ちゃんの顔を焦点の合わない目でぼんやり眺めていると、坊ちゃんは再び私の左肩を揺すり、畳み掛けてきた。


「おい、リュシー!大丈夫かっ!?しっかりしてくれ!」

「…あ、はい…っ…し、失礼しました…」


 ようやく目と耳から届いた情報が脳内で結びつき、昨夜の状況を思い出した私は頭を振って身を起こす。体を蝕んでいた熱と痛みは一向に治まる気配を見せず、私は痛みに顔を顰めながら坊ちゃんの手を借り、ゆっくりと立ち上がった。右手の感覚は全くなく、体の右側にだらしなくぶら下がっている。私は太い幹に背中を預けたまま、荒い息を繰り返した。


「…お前、本当に大丈夫か?そんな体で、ちゃんと歩けるのか?」

「…はぁ、はぁ、…だ、大丈夫です…さ、坊ちゃん、行きましょうか…」

「危ないっ!?馬鹿!お前、無理をするなっ!」


 第一歩を踏み出そうとして足がもつれ、ふらつく私を、坊ちゃんが慌てて引き留める。一足早く目を覚まし身支度を整えていた坊ちゃんとは対照的に、私はシャツのボタンが全て外れて体の左右に垂れ下がり、その隙間から大きな膨らみが二つ、顔を覗かせたままだ。坊ちゃんが昨日と同じように私の左脇の下に体を捻じ込んで私の身を支え、顔を上げた。


「リュシー、行くぞ?辛いだろうが、頑張ってくれ」

「はぁ、はぁ、はぁ…坊ちゃん、ありがとう、ございます…」


 すでに私は剣も鎧も失い、右腕は動かず、足取りも覚束ない。身を守る物と言えば、腰に据えられた形見の短剣、ただ一本。


 満身創痍の私は、守るべき対象であるはずの坊ちゃんに守られ、緩慢な動きで草原を後にした。




 その日の歩みは、あまりにも遅かった。私達は幾度かの休息を挟み、日の出から日没までひたすら歩き続けたが、進んだ距離と言えば、僅か数時間の昨日の歩みと大差ないかも知れない。私の体から急速に力が抜け、坊ちゃんは時を追う事に重みを増す私の体を、歯を食いしばって支え続けた。休息と言っても、一度腰を下ろしたらもはや立ち上がれない事が分かっていた私は立ったまま木の幹にもたれ掛かり、川べりで水を汲む坊ちゃんを待つ間、喘ぐように深呼吸を繰り返すだけだった。




「はぁ、はぁ、はぁ…」

「はっ、はっ、はっ、はっ…」


 やがて日没を迎え周囲が再び暗闇に覆われた頃、私達は枝ぶりの良い木を見つけ、その下に広がる柔らかな草の上に崩れ落ちた。坊ちゃんは私を仰向けにして横たえると、自身も尻餅をつくように座り込んで肩で息を繰り返す。やがて坊ちゃんは二本の筒を取り出し、水と食料を口に含みながら私に尋ねかけた。


「はぁ、はぁ、…リュシー、大丈夫か?」

「はっ、はっ、はっ、はっ…」


 坊ちゃんの気遣いに、私はもはや言葉を返す余裕もなく、浅い呼吸を繰り返しながら顎を引く。灼けつくような熱はすでに全身を覆い尽くし、右肩から先は獣に喰い取られたかのように感覚を失って、激しい痛みが絶えず上半身を蝕んでいる。目を閉じ、熱と痛みに抗いながら、乏しい酸素を求めて浅い呼吸を繰り返していると、視界を塞ぐ瞼が急に暗さを増した。


「…少しは飲め。お前、今日一日、ほとんど何も口にしていないだろう?」


 薄っすらと目を開くと、坊ちゃんが身を乗り出し、私の目の前に水筒を差し出していた。私が弱々しく頷くと、坊ちゃんは私の後頭部に手を回して頭を持ち上げ、水筒を口に添えて傾ける。


「はっ、はっ、はっ、はっ…んく…んく…」

「…リュシー、食事は摂れそうか?」

「はっ、はっ、はっ、はっ…」

「…そうか…」


 私は坊ちゃんにされるままに水を口に含み、二口三口飲み込んだ。すぐに水を嫌がるように頭を振り、溢れ出た水が顎を伝って流れ落ちる。水筒を引っ込めた坊ちゃんは続けて食事を勧めてきたが、私は再び頭を振って断った。


「はっ、はっ、はっ…坊ちゃん、もう、休んで下さい…後は、大丈夫、ですから…」

「…あぁ…」


 私は仰向けになって目を閉じたまま、坊ちゃんに就寝を促す。しかし、坊ちゃんは曖昧に返事をしたものの、横になる様子が一向に感じられない。不審に思った私は薄っすらと目を開け、坊ちゃんへと向けた。


 坊ちゃんは私の傍らに腰を下ろしたまま、頻繁に私へと目を向け、様子を窺っていた。その視線は私の顔ではなく、全てのボタンが外れてもはや両開きのカーテンと化したシャツの間から顔を覗かせる、張りのある二つの膨らみへと、注がれていた。そのあまりの執心ぶりに、私は思わず顔を綻ばせた。




 ――― 、坊ちゃんの希望を叶えてあげたい。




「…坊ちゃん、好いですよ。来て下さい…」

「…うん…」


 私が左手を広げて微笑むと、坊ちゃんは素直に頷き、濡れてもいない上着を脱ぎ始める。その、あまりにも直線的な行動に私が笑いを堪えていると、坊ちゃんが私の体にまたがり、上から覆い被さって来た。


 坊ちゃんは二つの膨らみの狭間に顔を埋め、目を閉じる。冷え切った昨晩とは異なる坊ちゃんの温もりと共に、あまりにも間隔の短い二人の鼓動が、二つの膨らみの狭間で反響を繰り返す。


「はっ、はっ、はっ…」


 全身が灼けるように熱い。右肩が発する激痛と共に体の感覚が失われ、すでに両足は自分の言うことを利かない。呼吸はより一層短く、小刻みに繰り返され、反対に取り込む酸素の量が減少の一途を辿る。


 …意識が次第に薄れていく。


「はっ、はっ、はっ…坊ちゃん…」

「…どうした?」




「…私と二つ、約束して下さい…」




「…リュシー?」

「はっ、はっ、はっ…」


 私の言葉に坊ちゃんが顔を上げ、胸の谷間から重みが消えた。私は目を閉じ天空を見上げたまま、浅い呼吸と共に言葉を紡ぐ。


「…坊ちゃん…絶対に、生きて帰って下さい…」

「っ!?勿論じゃないかっ!?突然、何を言い出すんだ、リュシー!?」


 突然、私の体の上の重みが増し、二つの膨らみに力が加わって歪に変形した。暗黒の世界に坊ちゃんの悲鳴が響き渡り、二つの膨らみから熱い想いが浸透してくる。


 うるさい。頭が痛い。


「はっ、はっ、はっ…坊ちゃん、それと、もう一つ…」

「何だよっ!?リュ■ー、止■ろよっ!?そんな事言うなよっ!」


 体の上で甲高い耳障りな声を上げ喚き散らす坊ちゃんを無視し、私は目を閉じたまま左手で腰をまさぐる。腰に括り付けられた硬い柄を掴んで引き抜き、逆手に持ったまま最期の力を振り絞って天空へと掲げた。


「…坊ちゃん…もし、私が死んだら、―――




 ――― 迷わず、この短剣を、私の心臓に突き刺して下さい」




「嫌だっ!」


 天空を割るような悲鳴が私の体へと降り注ぎ、二つの膨らみが別々の方向へと引っ張られる。


「何■だよっ!?何で僕■、お前を殺さ■■ゃいけないんだよっ!?」


 煩くて、声が聞き取れない。


「…私はワイトに襲われ、もう助かりません。このまま死んだら、きっと私は皆と同じようにゾンビと化して、坊ちゃんを襲うでしょう…はっ、はっ、はっ…この短剣には、アンデッドに対する特効が、付与されています…私が死んだら、坊ちゃんを襲う前に…私を、もう一度、殺して下さい…」

「嫌■っ!」


 煩い。耳元で騒がないで欲しい。


 私は、私の言うことを理解せず、反抗する坊ちゃんに辟易した。もう時間がないのに、勘弁してほしい。私は浅い呼吸で取り込んだ空気を肺に掻き集め、残された力を振り絞ると、天空に向かって声を張り上げた。


「坊ちゃんっ!」




「っ!?」


 私の一喝の前に、坊ちゃんと、二つの膨らみが、動きを止める。私は枯渇した酸素を取り戻すべく小刻みに呼吸を繰り返し、坊ちゃんを諭した。


「…はっ、はっ、はっ…坊ちゃん、貴方は誰ですか?…己の生活で精一杯の、只の平民ですか?…主君に忠実に従っていれば事足りる、一介の騎士ですか?…違うでしょう?…シリル・ド・ラシュレー…帝国有数の公爵家の…帝国の西方の安寧を担う…多くの平民と騎士の未来を預かるラシュレー家の、跡取りじゃないですか…。アンドレ隊長は、坊ちゃんを逃がすために、己を顧みることなく殿しんがりを買って出ました…。護衛隊の皆は、坊ちゃんを守るために、命を投げ打ちました…。

 坊ちゃん…命を投げ出した皆の願いを、踏みにじらないで下さい…。私の命を踏みにじって…一人で無様に生き延びて下さい…それが、ラシュレー家の、帝国の西方の安寧を担う公爵家の跡取りに課せられた…責務です…」

「…」


 私が命の欠片と共に吐き出した言葉を受け、坊ちゃんが沈黙する。仰向けに横たわったまま目を瞑る私の暗黒の世界に、己の浅い呼吸だけが響き渡る。


「…いいだろう…」


 やがて、暗黒の世界に、底冷えするような低い震え声が響き渡った。それと共に二つの膨らみが絞られ、小刻みに震え出す。


「…このシリル・ド・ラシュレー、お前の望み通り、宣誓してやる。…一つ!俺■、絶対に生きて帰■!二つ!お前が死ん■■、即座に■の■剣をお前■心臓に突き刺して■■!この、シ■ル・ド・ラシュレー■名に賭けっ!必ず、果た■■みせる!




 ――― だから、リュ■■・オランド!■前も、二つ、約束しろ!」




 煩い。音が割れて、聞き取れない。


 耳元でがなり立てられ、目を閉じたまま顔を顰める私に、坊ちゃんが一方的に約束事を押し付けてくる。


「リュシー・オ■ンド!お前の名を賭■、宣■しろ!一つ!俺と共に、必■生きて帰れ!二つ!生きて帰った■、お前は俺の■■だ!お前は絶対に、俺から■■■な!」

「…はっ、はっ、はっ…無茶、言わないで、下さいよぉ…」

「何だ■ぉ!?」


 やかましいから。安眠妨害だから。


 こっちがもうすぐ死ぬって言っているのに、死なないって宣誓しろとか、横暴にも程がある。全身を蝕む痛みに新たな頭痛の種が加わり、顔を顰めた私に向かって、坊ちゃんが喚き散らした。


「お前、このシリル・ド・ラシュ■■に二つも宣誓させ■■きながら棒に振るとか、赦さ■ると思ってい■のかっ!?お前が■誓しないのなら、俺■って守らな■!今すぐ死■でやるし、こ■短剣だって、放り捨てて■■!」


 痛いから。それ以上引っ張ったら、千切れるから。


「…ぁあ、もう…わかり、ましたよ…」


 耳元の騒音よりも、天に召される私から二つの膨らみをもぎ取ろうとする坊ちゃんの執着ぶりに根負けし、不承不承同意する。途端に、坊ちゃんが前のめりになったのだろう。上方へと引っ張られていた膨らみが押し戻され、逆に体にめり込む勢いで押し付けられた。痛い痛い痛い。


「言ったなっ!?リ■■ー・オランド、宣誓しろ!■つ!俺と共に、此処か■生き■帰る!二つ!無事に生きて■ったら、■前は■のものとなり、絶対■■から離■■■!」


 あぁ、もう、知らない。特に後半、何を言っているのか全然聞き取れないけど、空手形切ってとっとと昇天してやる。


「はっ、はっ、はっ…まったく、もう…私、リュシー…オランド…は、坊ちゃんと共に…此処から生きて帰ること、と…はっ、はっ、はっ…帰ったら、坊ちゃんの言う通りに、する、こと、を…誓い…ます…」

「確かに聞■■ぞ!?リュシー!絶■に守れよ!?」

「静かにして下さいよ…坊ちゃんこそ、例え私の身に何が起きようとも…必ず、約束を守って下さいね…」

「…おい?おいっ!?■■シー、しっかり■ろ!?」


 坊ちゃんの脅迫めいた押し付けに、私は目を閉じ仰向けに寝っ転がったまま、言われるままに宣誓する。見返りとして坊ちゃんから言質を取った私は、言質を抱えたまま即座に意識を手放し、追及の声を振り切って心の奥の深い闇の中へと堕ちていった。




 ***


「…シー。リュシー・オランド。しっかりせんか」

「…ん…」


 深みのある心地良い声が耳朶を擽り、頬がリズミカルにはたかれる。薄っすらと目を開くと、陽の光を背にして輝く、凛々しい顔を持った年嵩の男性の姿が、浮かび上がった。ロマンス・グレーの髪は風を切るように後方へと流れ、綺麗に整えられた髭が口元を飾る。私は憂いを含んだ男性の眼差しに見惚れながら、ぼんやりと考えた。


 …あぁ、これこそ、まさに天国。旦那様そっくりの天使に、お出迎えいただけるだなんて…。


「大丈夫か、リュシー?私が誰か、わかるか?」

「…旦那…様…?」

「いかにも」


 天使が口を開き、私は現実へと引き戻される。目を凝らすと、旦那様の周りを幾人もの騎士達が取り囲み、皆一同に私を見下ろしていた。旦那様は、騎士達が構成する円陣の中央で片膝をつき、地面に横たわっていた私の背中に腕を回して抱き上げている。私は、後頭部を支える手の温もりと、射込む様な眼差しに前後を挟まれ、ぼぉっとしながら旦那様の顔を見つめ続けた。


「…リュシー、報告を」

「…はい」


 旦那様に促され、私は我に返った。私は旦那様の掌に後頭部を預け、熱と痛みに蝕まれながら、うわ言のように報告する。


「…さそりの月の…5日、護衛隊は村の…要請に…応える形で、盗賊達の…棲み処へと…進攻。…其処で…ゾンビと化、した…盗賊達、と…交戦状態に入り…ました。…途中、盗賊をゾンビへと変えた…ワイトの襲撃を受け…隊は全滅。私はワイトと刺し違え、討伐に成功…する…も、重傷。護衛隊長、アンドレ・ロワより、坊ちゃんの…護…衛の命を受け、戦場を…離脱、撤退を開始…しました。隊長は…単身で殿しんがりを務め、現在…行方不明。他、複数の騎士が…ゾンビ化して…おり、二次討伐が必要、です…職務を全う…しえ、ず…坊ちゃんを危険に晒しました…こと…お詫びのしようも、あり、ません…」

「御苦労」

「…あの、旦那様…坊ちゃんは?」


 報告を終えた私は、姿の見えない坊ちゃんの様子を尋ねた。旦那様は私の問いに目を閉じ、静かに頷く。


「…君のお陰で、無事だ。一足先に馬車で休んでいる」

「あ…」


 私の体が、旦那様に横抱きに抱えられたまま、空中へと浮かび上がった。幼い頃に味わった以来の心地良い浮遊感に、弱った心臓が波打つ。旦那様に為されるがまま、ぼぉっと眺めているだけの私に、旦那様の労りの言葉が投げ掛けられる。


「リュシー、よく生きて戻って来てくれた。後は私に任せて、体を癒しなさい」

「…あ、りがと…ぅ…ご…」


 私は最後まで言い残す事ができず、旦那様の腕に抱かれたまま意識を手放す。


 こうして坊ちゃんと私は生還し、――― 私の騎士人生が、終わりを告げる事になる。

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