2:ラシュレーとの出逢い

「はぁ…はぁ…」


 やっとの事で自室へと戻った私は、飾り気のないベッドの上に力なく座り込んだ。右肩から波及した熱は全身に回り、すでに思考も覚束なくなってきている。私は朦朧とした意識に鞭を打ち、左手指を襟元に挿し込んで緩めると、衣服を引き千切る勢いで一気に引き下げ、右肩をさらけ出した。


 向かいの壁に無造作に立てかけられた鏡に、ベッドに力なく腰掛け、服がはだけたままの、熱にうなされる女の姿が浮かび上がる。その細い首には漆黒のチョーカーが絡み付き、剥き出しの右肩には白い肌と対照的な黒い大きな痣が幾つも浮かんでいた。黒い痣は右肩と首元を両端として半円状に列を成し、まるで中から膿が噴き出すかのように、至る所で禍々しい橙色の輝きを放っている。鏡に映し出されていない背中側にも、同じような不吉な半円が描かれているはずだ。


「はぁ…はぁ…」


 私はゆるゆるとした動きでベッド脇の小箱に左手を伸ばし、中に納められていた袋に手を突っ込んで塩を一掴みする。上を向いて乱れた深呼吸を繰り返し、覚悟を決めると、塩に塗れた左掌を一気に右肩へと擦り付けた。


「あぐっ!…っ…ぅうう…ぅ…!」


 文字通り傷口に塩を擦り付ける行為に右肩が悲鳴を上げ、激痛が駆け巡る。慣れる事のできない痛みに私は身を捩り、ベッドに倒れ込んで蹲った。拒否反応を示す左腕を叱咤し、背中にも満遍なく塩を塗り込んでいく。シュウシュウという不吉な音が、右肩から絶え間なく聞こえる。私にはもう目を向ける余裕がないが、橙色の輝きと塩が合わさって白い煙が噴き上がっているはずだ。


「…ぅ…ぐ…」


 私はベッドの上で蹲ったまま指先の感触だけを頼りに左手を小箱へと伸ばし、中に納められた壺に指を突っ込んで粘状の緑色の液体を掬い出した。薬草から作り出された、消炎と沈痛効果のあるその塗り薬を右肩へと乱暴に塗りたくっていく。右肩を労わるように何度も撫でていると、やがて少しずつ痛みが引き、熱が下がっていく。それと入れ替わるように体の中から疲労と睡魔が頭をもたげ、いつしか私はベッドに蹲ったまま、泥の様な眠りに落ちていった。




 ふと目を覚ますと、すでに陽の光が橙色に変化し、ひさしの下へと潜り込んで横殴りに部屋の中へと飛び込んでいた。私はベッドに蹲ったまま顔を上げてもぞもぞと周囲を見渡し、やがて意識がはっきりしてくるとベッドの上で身を起こす。傷口に塩を塗りたくった直後に気絶するように眠りに落ちたので、衣服は乱れ右肩が露わになったまま、全身が汗でびっしょりと濡れていた。湯浴みなんて贅沢は言わないけど、せめて水拭きがしたい。私はベッドの上に座ったまま溜息をつき、袖を引き上げて右肩を隠し、動かせない右腕をそのままにして、左手一本で衣服を整えた。


 立ち上がって腰回りを確認していると、左の手の甲に硬く冷たい感触が走る。馴染み深い感触に私は左手を背中に回し、腰に据えられた硬い柄を掴んで横に引き抜いた。左手を目の前に掲げると、逆手に持った、銀色の輝きを放つ短剣が現れる。私は逆手に納められた短剣に感謝の気持ちを籠め、静かに語り掛けた。


「お父さん、お母さん…そして、お婆ちゃん。今日も無事、乗り越えられたよ。ありがとう」




 ***


 私は12歳の時に旦那様に召し抱えられて騎士を志し、18歳で騎士に叙任され、――― 2ヶ月で騎士を辞した。




 旦那様は、私の命の恩人だ。


 あの日、私達一家の属する隊商キャラバンが盗賊に襲われ、父と母は命を落とした。多くの商人が殺され、当時12歳の私もあのまま見つかっていればきっと殺されるか、でなければ慰み者になっていただろう。だが旦那様が率いる討伐隊が間に合い、私は間一髪で助け出された。その時の光景は、今も瞼の裏に焼き付いている。


 横転した馬車の陰に隠れ、祖母の形見の短剣を胸に抱えていた私に、旦那様は公爵家の当主にもかかわらず自ら頭を下げ、手を差し伸べて下さった。お嬢さん、遅くなって申し訳ない、と。その、月明かりを背に浮かび上がる、憂いを含んだ表情に私は惹き込まれ、場違いにも胸の高鳴りを覚えた。あれがきっと、私の初めての恋だった。


 旦那様に助け出された私は小間使いとしてラシュレー家に召し抱えられるところだったが、私は旦那様に無理を言い、兵士見習いとして雇っていただいた。旦那様は私の初恋の人だけど、だからと言って身分違いの恋が叶うとは思っていない。旦那様にはすでにマリアンヌ様という素敵な奥様がいらっしゃったし、お二方の間にはすでに坊ちゃんがお生まれになられている。もし旦那様が私を求めるのであれば二つ返事でお応えするところだが、それが叶わない以上、違う形でご奉仕する他にない。そうして私が行き着いた結論は、騎士として旦那様のお傍にお仕えする事だった。


 旦那様は公爵家の当主でありながら、ご自身も優れた剣士だった。その細く引き締まった体から繰り出される数々の剣技は鋭く、華麗で、あの時の私は横倒しとなった馬車の陰から顔を覗かせ、月の光を浴びて光り輝く幾筋もの流星に魅入っていた。あの方の隣で、共に剣を振るいたい。その想いを叶えるべく、私は騎士を志した。


 幸い私は剣の才能に恵まれていたようで、体格に勝る兵士達を押し退け上位に食い込む事ができた。私は16歳の時に騎士見習いに立てられ、当時12歳の、坊ちゃんことシリル様の傍仕えを命じられた。


「はっ!女だてらに剣を振るうなんて、生意気だ!」


 これが、初めて坊ちゃんとお会いした際に賜った、彼の有難い御言葉である。あの時は私も若かったし、元々は礼儀を知らない只の平民だ。あの方のご子息とは到底思えない横柄な口ぶりに私も頭に血が上り、身分の違いをわきまえず、つい説教を施してしまった。


「まったく、もう!何ですか、その口の利き方は!?いいですか、坊ちゃん。ラシュレー家の男子たるもの、例え自分の意に副わない相手だとしても、思うままに口に出してはいけません!相手の意を汲み取り、当家の立場を考え、でき得る事ならお互い最も良い関係になれるよう、相手を導くのです。坊ちゃんの言葉は、坊ちゃんだけのものではありません。ラシュレー家のみならず、この広大な領地に生きる民はおろか、帝国西方の安寧にも繋がるのです。言葉だけではありません。坊ちゃんの一挙一動がそれだけ重い意味を持つものだと、弁えて下さい」

「な、何だよ、小難しい事並べやがって!平民のくせに、偉そうな事を言うな!」

「平民だからこそ、世の中の苦しみを知り尽くしているのです。坊ちゃんは、その日の食べ物に困った事はありますか?明日のを拝む事ができないかも知れないと、絶望した事はありますか?平民達はそれこそ毎日のように苦しみ、不安を抱えながら働き続け、何の保障もない明日に全てを託すのです。そしてラシュレー家は、帝国は、その平民達の幾万もの苦しみの上に成り立っているのです。坊ちゃん、決してそれを忘れてはいけません」

「坊ちゃん、坊ちゃんって言うなっ!僕はもう12歳だぞ!」


 坊ちゃんは目を剥いて拳を振り上げ、大声でがなり立てるが、私の胸元ほどの高さから見上げているようでは、威厳もひったくれもない。私は両手を左右に広げて掌を上に向け、坊ちゃんから目を逸らし、肩をすくめた。


「はぁぁぁ…。これだから、坊ちゃんって言われるんですよ。そんなに坊ちゃんって呼ばれるのが嫌なら、一日も早く旦那様のような、思慮深くて剣の腕の立つ素敵な男性になって下さい」

「何おぅ!?」


 まぁぁぁ…公爵家の跡継ぎに何て事を言ってしまったんだと後で青くなったものだが、そこは流石、愛しの…おっと…旦那様!私みたいな下々の言葉にわざわざ耳を傾けて下さった上に、あまつさえ「よく言ってくれた。これからも息子に忌憚ない意見を述べて欲しい」との御声をいただいた日にはもう!官舎に戻ったその足でベッドにダイブしてバタ足を繰り返す他ないですよ。


 まぁ、坊ちゃんにはご兄弟もいらっしゃらないし、その高貴なご身分も手伝って皆遠慮していた事もあり、年が近く、物怖じせず遠慮ない言葉を吐く私は姉の代わりとして歓迎されたのかも知れない。坊ちゃんには事ある度にやんややんや言われたが、私も負けじとやんのかんのと言い返して、なんだかんだで2年が経過する。




 そうして私は18歳になって念願の騎士の叙任を受け、――― そして、運命の日を迎える。

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