お前を絶対に離さない。 ~役立たずの侍女はポンコツなので公爵令息の執心に気づかない~

瑪瑙 鼎

1:役立たずの侍女

「…あ、こりゃ、また駄目だわ」

「…お前、開口一番がそれかよ…」


 背後の扉の開く音を聞いた私は、振り返りざまに眉間に刻まれた深い皴を認め、思わず口に出してしまった。私の呟きを聞いたこの部屋の主人は、眉間に深い皴を刻んだまま口角を下げ、秀麗な顔を渋そうに歪めながら苦言を呈する。


「お帰りなさいませ、坊ちゃん」

「坊ちゃんは止めろ」


 私が悪びれもせず頭を下げると、坊ちゃんは不貞腐れたまま私の目の前を横切り、部屋の中央にしつらえたソファへと腰を下ろす。後を追って入室したメイドに羽織っていた上着を渡すと、坊ちゃんは心底くたびれた様子で大きな溜息をついた。


「…何か、お飲みになりますか?」

「ああ、頼む」

「畏まりました。…ノエミ、ハーブティーをお持ちして」

「はい」


 坊ちゃんの意向を聞いた私は、上着を受け取ったメイドにそのまま給仕を依頼する。ノエミは私の言葉に一つ頷くと上着を持ったまま一礼し、部屋を出て行った。坊ちゃんと二人きりで部屋に残された私は、何をするわけでもなく、ソファに腰を下ろしたまま伸びている坊ちゃんの姿を眺める。私には、何もできない。お茶を淹れる事も、部屋の掃除をする事もできない。私にできる事と言えば、せいぜい坊ちゃんの愚痴を聞くくらいだ。


「…その様子では聞くまでもないですが、何が駄目だったんですか?」

「全部だよ、全部。彼女達の頭の中には、中央で流行りの衣装と戯曲と、舞踏会の出席名簿しか入っていない。こちとら冬明けの駐屯地への報賞と、軍の再編と、新任の部隊長選出で頭が一杯だと言うのに。下手に彼女達の話を頭に入れたら、次の部隊長に誤って伯爵令嬢を任命しそうだ」

「お茶会に臨む時くらい、御令嬢方のお気に召す話題を仕込んで下さいよ、坊ちゃん」

「いい加減、坊ちゃんは止めろ。俺はもう18だぞ?」


 坊ちゃんがソファに背中を預け、上を向いたまま、私を睨みつける。その眉目は秀麗で艶があり、橙めいた明るい髪を長めに整えている事もあって、ここ1年ほどで急に大人び、何やら色気までついている。ただでさえ目力があり過ぎるのに、公爵家の次期当主でもある坊ちゃんに睨みつけられようものなら、市井の民はおろか爵位持ちでさえ震え上がるだろうが、坊ちゃんの下ですでに6年を過ごした私は何の痛痒も感じない。私はソファの脇に佇み、坊ちゃんにジト目を向けながら言い放った。


「坊ちゃんこそ、いい加減、私の事を『お前』呼ばわりしないで下さい。私にはリュシー・オランドという、立派な名前があるんですからね?」

「お前が俺の事を『シリル様』と呼んでくれたら、考えてやるよ」


 はぁ。やっぱり、いつもの堂々巡り。私も意固地だが、坊ちゃんも頑固な事この上ない。幾度となく繰り返された同じ台詞に、私は思わず溜息をついてしまう。


「まったく。坊ちゃんときたら、こんな小っちゃい時から言っている事が全く同じなんですから…少しは成長して下さいよ」

「おい、幾ら何でもサバ読み過ぎだろ。それじゃ、6歳児の背丈じゃないか!?」


 私が自分の腰の高さに掌を掲げ、こめかみに指を添えて頭を振ると、すかさず坊ちゃんの指摘が入る。侍女とは思えない言い草だと自分でも思うが、もう何年もこの調子だから、今更改めようとも思わない。私はもう一度盛大な溜息をつき、左人差し指を立てると、坊ちゃんに説教を始めた。


「いいですか、坊ちゃん。貴方は帝国の西の防衛の要たる、ラシュレー家のたった一人の跡継ぎなんですからね!?坊ちゃんの、帝国の藩屏としての心構えは確かに立派ですが、だからと言って妻を娶りお世継ぎを設ける事を、疎かにされてはいけません!帝国有数の公爵家で、しかもそれほどの美貌をお持ちなんですから、眉間の皴と減らず口さえなくせば選り取り見取りじゃないですか!?」

「二言多いぞ、お前!?」


 なんか坊ちゃんが口答えしてくるが、私はそれに耳を貸さない。右手が震え始め、右肩が次第に熱を帯びてきた。


「旦那様だって、坊ちゃんの結婚とお孫さんの誕生を、あれほど待ち望んでいるのですから。坊ちゃんが早いトコその気にならないと、いつまで経っても私の肩の荷が下りないんですからね?」

「何で俺の結婚が、お前の肩の荷に関係あるんだ?」

「関係ありますよ。私は旦那様に、一生かけても返せないほどの御恩があるんです。あの時、旦那様に命を助けて貰わなければ、今の私はありません。それどころか、何の仕事もできず穀潰しでしかないはずの私を侍女として雇っていただき、お給金までいただいているんですから。とてもじゃないですけど私一人じゃ返しきれないので、私の代わりに坊ちゃんに頑張っていただかなければならないのです」

「最後の一言、全然脈略がないだろ!?…って、お前、大丈夫か?」

「…っ」


 私にとっては至極真っ当な代替案を聞き、坊ちゃんが抗議の声を上げかけるが、その語尾が急速にトーンダウンして気遣わし気な口調へと変化する。眉間に刻まれていた深い皴が緩み、秀麗な眉の端が下がるのを認めたが、私は坊ちゃんに気を遣う余裕がない。私の右手はもはや明らかに異常なほど震えており、私は痛みに顔を顰め、灼けるほどに熱を持った右肩を左手で押さえながら答えた。


「…すみません。今日はもう無理そうです。失礼してもよろしいでしょうか?」

「ああ、構わん。ゆっくり休め」

「ありがとうございます。…丁度良かった、ノエミ。後をお願いするわ」

「畏まりました。リュシーさん、お大事に」


 私は、ティーセットを持って戻って来たノエミに後を託すと、右肩を押さえたまま坊ちゃんに頭を下げ、部屋を出る。右肩の痛みは激しさを増し、痺れるような感覚が右腕を覆い尽くし、もはや指一本動かす事ができない。私は額に玉のような汗を幾つも浮かべながら、館の隅に据え置かれた自室へと向かった。




 ***


 リュシーが退室した後、部屋には主人であるシリルとノエミの二人だけが残された。少しの間、二人は誰もいなくなった入口の扉を見つめていたが、やがてノエミが一礼し、持ってきたティーポットからハーブティーを注ぐ。彼女は腰を折り、湯気と爽やかな香りが立ち昇るティーカップを、シリルの前に静かに差し出した。


「シリル様、どうぞ」

「ああ」


 ノエミの言葉にシリルは頷き、ティーカップを手に取って口元へと運ぶ。その動きはカップに口を付ける寸前で止まり、ティーカップから立ち昇る香りを楽しんでいるようにも見えるが、表情は晴れない。シリルは口元にティーカップを添えたまま、眉間に皴を寄せ、誰も居ない扉を見つめている。その眉間の皴は、彼の心の内を存分に表していた。


「…あの、シリル様」

「…どうした?」


 ノエミが声をかけると、シリルは我に返り、眉間の皴を解いてノエミに目を向ける。意図せず声を掛けてしまったノエミは内心で慌て、考えの纏まらないまま、思った事をそのまま口にしてしまった。


「リュシーさんは、何故、此処にいらっしゃるのでしょうか?」

「…」


 言い出した手前、彼女は口を噤むわけにもいかず、積年の疑問を晴らすかのように、シリルに質問を投げ続ける。


「私がこの家に仕えるようになってすでに2年が経ちますが、初対面の時からずっと、リュシーさんは変わっていません。シリル様付の侍女として此処にいらっしゃいますが、その間、あの人は何もしていません。シリル様の身の回りの世話をするわけでもなく、ラシュレー家のために働くわけでもなく、ただシリル様のお部屋に居て、戻られたシリル様に対し小言ばかり繰り返している。しかも公爵家の嫡子であるシリル様に対し、ときに失礼とも思える口ぶりを交えて。にもかかわらず、シリル様は勿論、旦那様や奥様さえも何も仰られない。

 私もこの2年ラシュレー家にお仕えし、何か事情があるだろうとは、薄々感じております。ですが、せめて、そのご事情を教えていただけませんか?そうしていただかないと、頭では理解していても、いずれ感情を抑える事ができなくなります」

「…」


 ノエミが発する数々の疑問に対し、シリルは言葉を遮ろうとせず、黙って耳を傾けている。ノエミが口を閉ざすと、部屋の中には少しの間沈黙が漂う。やがてシリルが溜息をつき、ティーカップをテーブルに戻すとソファに深く座り直し、身を沈めた。


「…アイツは、元々騎士なんだ。と言っても、新米同然だったがな」

「騎士って…リュシーさんが、ですか?」

「ああ」


 シリルの言葉に、ノエミは目を瞠る。確かにリュシーは女性にしては背が高く、シリルと並んで立っても見劣りしない。侍女には不釣り合いな凛とした佇まいが特徴で、生半可な者では到底太刀打ちできないはずのシリルの眼光を受けても全く動じない胆力は、言われてみれば騎士に通ずるものがある。だが、鎧を纏ったリュシーを知らず、侍女の姿しか見た事のないノエミにとっては、にわかには信じがたい事実だった。内心で驚くノエミを余所に、シリルの独白が続く。


「アイツの右腕が役に立たないのは、俺のせいだ。…俺は、アイツに借りがある」

「…リュシーさんに?」

「ああ。だから、俺はアイツに借りを返すまで、此処に居させる。親父…父上や母上もそれを知っているから、何も言わない。…これでいいか、ノエミ?」

「え?…あ、はい。私如きの質問にお答えいただき、ありがとうございました」


 シリルに促され、ノエミは慌てて頭を下げる。正直なところ、肝心の理由を明かしてくれないのが心残りだが、主人が話を打ち切った以上、従う他にない。ノエミが頭を上げると、シリルは一つ頷き、右手の甲で払うような仕草を見せた。


「少し考え事をしたい。ノエミ、下がってくれるか。何かあればベルを鳴らす」

「畏まりました。失礼します」


 シリルの言葉にノエミはもう一度深く一礼し、部屋を出て行く。扉が閉まり一人部屋に残されたシリルは、ソファから身を起こして両膝に肘を乗せ手を組むと、前屈みになって扉を睨みつける。その秀麗な眉間には、先ほどと同じ、深い縦皴が刻まれていた。


「…クソ。人の気も知らないで、結婚結婚繰り返しやがって。覚えていろ、――― 俺は絶対に、お前を離さないからな」

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