13 風の往く末 

 日没には充分余裕を持って帰校したはずなのに、楽器の搬入は遅々として進まない。大舞台が終わった興奮に加え、想像も出来なかった歴史の真実を顧問から知らされて、部員達は手よりも口の方ばかり動いてしまうのだ。特別教室棟の入り口付近で、音楽準備室の片隅で、話の輪は何重にも咲いたまま、いつまでも散ることがない。

 混沌とした喧噪を背中で受け止めながら、早苗は一人、西日に彩られたグラウンドの外れで、治りかけの左足を引きずりつつ、じっとバックネット裏を眺めている。足元から長細く伸びた影が、時折夕風に揺らいでは止まる。南斜面のニレの木へ向かおうとして、結局歩き出せないままでいる。

 茜色の地面に漆黒の平行線が現れ、ゆっくり早苗の影に重なった。

「…………先生」

 振り返った先に、真菜穂が無言で佇んでいた。何かを言い出しかねているような顔を見て、早苗は疲れたように薄く笑った。

「実にまったく、春からお騒がせしました。……あは、大笑いですね。一人で迷信を暴いたつもりになってて、あたしだけ幻覚見てたなんて」

 無理にさばさばした声を作って、早苗はもう一度グラウンドの果てを見、目を逸らした。

「こういうの、イマジナリー・コンパニオンって言うんでしたっけ? 怪談話は全部デマだったし、もう、我ながら――」

「ううん。デマじゃない」

 真菜穂がまともに早苗の視線を捕えた。怖いぐらい真剣な目だったけれど、早苗ではなくて、どこかずっと遠くを見ているようでもあった。

「あなたは体験したの。ほんとの、楓谷の怪談をね。……いえ、怪談っていうのは違うかも。どっちかと言えば〝奇跡〟ね」

「〝奇跡〟って……え? え? 先生、あの女の人は……」

「まったく、ある意味、呪われた曲よね。毎回毎回、それこそ取り憑かれたみたいにこの曲に夢中になる人が出てくる。本人はただ一生懸命練習してるだけだと思うんでしょうけど。……そして、その人の前に、彼女は現れる」

「……ご存じなんですか、あの人を」

 心持ち恥ずかしそうに、妙に子供っぽい神妙さで真菜穂が頷いた。

「あの人は幻じゃないの。多分、あなたが見た通りの存在。そしてあなただけ見たと言うことは、まあ、今回の奇跡は早苗ちゃんの身に降りたってことでしょうね。そんなに何回も彼女と話をして、大事故まで未然に教えてもらったなんて」

「い、いったいあの人は……」

「さて。幽霊、と言うのとは違うんじゃないかな。十八年前に私達が会った時は、正直、座敷わらしかな、なんて噂したもんだったけど」

「! 『私達』って、それは……」

「まだ浸ってるのか。いい加減、搬入を終わらせたいんだがな」

 背中から声がして、夕闇の中から吾郎が近づいてきた。せりふとは裏腹に、それほど二人をせきたてる様子はない。

「せ、先生。先生もあの女の人を……」

 中途で浮いた質問には直接答えず、暮れなずむ空を吾郎はちょっとだけ遠い目で仰ぎ、独り言のように言った。

「スカイブルー……空色のワンピース、か。そうだよな。……もっと前からそう言ってくれれば、ピンと来たかも知れんが」

「あの人は何なんですか? 幽霊でもなかったら……」

「分からんか?」

「わ、分かりません」

「なら、無理に言葉にしなくてもいいんじゃないか? 正直、俺もわからん」

 危うく以前みたいに食ってかかろうとして、早苗は押し黙った。オレンジ色の残照を受けた吾郎の笑みは、いつになくいたずらっぽく、優しげに見えたからだ。

 不意に、三人の顔から影が消えた。まだしばらく続きそうな作業に、部長達が諦めて外灯をつけて回っているらしい。

 何気なく吾郎の手元に目を留めた早苗は、あっと声を上げた。

「先生、そのスコア……」

「んん? これがどうした?」

「いえその表紙……そんな色……でしたっけ?」

 手作りの装丁を施したらしいその総譜には、やたら仰々しいハードカバーがついていて、その色は大判の物々しさに似合わず、抜けようなスカイブルーだった。どことなくわざとらしく吾郎が笑い声を上げた。

「これか? なんだ今さら。別に何と言うことはない。章一のやつが、スコアには絶対ハードカバーをつけるべきだ、なんて言いやがって、そしたらこいつが『風追歌』にはこの色しかないって言い張ってな」

「実際、ないんじゃないの、この色しか」

 真菜穂が言った。少しだけ拗ねるように、そして懐かしそうに、誇らしげに。

「ってことは、十八年前……」

「そうだ。十八年間、ずっとこの表紙でこの色だ。十八年後も、それからもな」

 いきなり、音楽室の方向から「風追歌」の演奏が鳴り響いた。誰かが勝手にオーディオコンポへ県大会のCDでも放り込んだのだろう。延々とお喋りに興じていた者も、真面目に搬入を続けていた者も、思わず手を止めた。吾郎と真菜穂も怒鳴りに行こうとはしないようで、苦笑しながら耳を傾けている。みんな知っていた。今日を限りに、この曲は思い出の音楽になってしまうということを。夏は終わったのだと言うことを。

 南側から、さあっと冷やかすように夕風が吹きつけた。風の行方を目で追ってから、白抜き文字でタイトルが記されたスコアへ、吾郎はいとおしむように手を置いた。

 ああそうか、とようやく早苗は理解した。この色は青春の色なんだ。かつて先生達が、歴代の部員達が、そしてあたし達が情熱を燃やし、全力でぶつかってきた、音楽の色。いつまでも変わらない、青。

 CDのボリュームが上がった。部員達は流れてくる音楽に合わせて頭や指や足でテンポを取りながら、陽気に自分のパートを口ずさんでいる。早苗も右手で見えないヴァルブを押さえながら、体を揺らせていた。

「あれ?」

 ふと、目が天空の一角に吸い寄せられた。早苗を振り返った真菜穂と吾郎に、黙って指で指し示す。細かい説明は必要なかったようだ。二人とも、ほう、と目を瞠り、そのまましばらく不思議な景観に見とれている。

 夏の水蒸気が陽光を不規則に拡散でもしたのか、茜色が拡がりつつある西空のグラデーションに、一箇所、青の領域からまっすぐ夕陽に向かって帯のような突出部分が出来ていた。まるで、去り行く何かのために、スカイブルーの空の道が束の間できているような。

「また、来てくれるんでしょうか?」

 二人とも、誰が、とは尋ねず、問いに応えることもなかった。それでも、感じたことのない満ち足りた気持ちに、早苗はただ小さい子供のような笑みを浮かべていた。どこまでも風が駆け上がっていく、果てしない夏の空色の、その先を見つめながら。


     ◆◆◆


「風追歌」の楽譜に興味を持ってくださった、親愛なるみなさまがたへ


 この曲は、今から十九年前にわが楓谷中学校吹奏楽部がコンクールの自由曲として取り上げ、世に知られるようになった音楽です。参考CDに収められているのは、楓谷中学の昨年度の支部大会での演奏ですが、わが校がコンクールで「風追歌」を取り上げたのは、これで四回目となります。

 当初はそう光春みつはる作曲と発表され、けれども作曲者本人の情報がいっさい明らかにされなかったため、さまざまな噂が飛び交いました。実はこの曲は、正真正銘、津見倉つみくらしゅん先生の手によるものです。なぜ変名での発表になったのか、どのような事情があったのか、ということは、そのうちに誰かがおはなしにでもするかも知れません(しないかも知れません)。現在では関係者の間でもすべて話の整理がつき、みなさま笑顔で今回の「『吹奏楽のための風追歌』 吹奏楽楽譜フルセット」の出版を迎えられたのは、この曲にとっても吹奏楽界にとってもたいへん喜ばしいことだと思います。

「風追歌」の演奏楽譜は、実に十九年間の間、楓谷中学だけに存在し、いわば私たちがこの曲を独り占めしていたわけですが、ここだけの話、この曲をめぐってはさまざまな奇妙なエピソードがあります。ちょっと不思議な目撃談、かなり神秘的な報告、奇跡のような伝承も。中身は楓谷だけの秘密とさせていただきたいのですが、これもそのうち誰かが小説にでもするかも知れません(しないかも知れません)。

 もしかしたら、この曲を手がけるあなたの楽団で、同じような不可思議な出来事が起きるかも知れない。でも、安心してください。それはきっと、素晴らしい音楽が出来つつあるというそのことに対しての、この曲からの祝福のようなものですから。そう、この曲は音楽自体が演奏者と対話します。ダメな時は励まし、キマった時は大喜びしてくれます。まるで生き物のように。

 僭越な言い方になってしまって恐縮ですが、私たちも心からの喜びをこめて、この曲を、魅惑の響きが息づいているアメイジングな音の妖精を、楓谷から世界へ送り出したいと思います。

 一人でも多くの方が、「風追歌」の祝福にあずかれますように。そして、この楽譜で、この曲で、みなさまが一層音楽を愛し、愛されるようになることを、願ってやみません。

 

                        20xx年 3月


 楓谷中学校吹奏楽部 部長   椎路早苗






   「風追歌の夏」  <完>


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