3 千歳の通察

「で? いったい俺にどうせよと?」

 予想はしていたが、千歳ちとしの返答は冷めたパイ生地みたいに味気ないものだった。けれども、まともに返事をする以上は一応興味を感じているはず、と、十四年間のつきあいの中で体得したつけ込みどころに、早苗はかすかな希望をつないだ。

 真菜穂先生との気がかりな対話を終えたその夜、椎路家のリビングキッチンでのことだった。首都圏の某音大作曲科に籍を置く早苗の兄は今年二年生。もっとも、二浪しているから結構いい年である。この週末は、浪人時代に書いた自作の楽譜を探しに帰省したようだ。近々作品発表会があるというので、そのネタ探しらしい。

 兄が音大生と聞けば、吹奏楽フリークの早苗と組み合わせて「いい兄妹だね」とクラスメート達は言ってくれるが、実のところ、相性は全く合わない。千歳が書いている曲は早苗には到底音楽と思えるものでなく、兄の方でも吹奏楽全般に軽蔑めいた感情を持っているようなのだ。あれは教育用の音楽であって、ゲージュツではない、というわけだ。

 口げんかで勝てる相手でないのはよく分かっているから、最近では早苗は兄と現実的に接することを心がけている。つまり、話せることを話せる角度で話す、というスタンスである。「ゴロちゃんともそうすればいいんだよ」とは夢子の弁である。冗談じゃない、と思う。それはつまり、千歳が二人いると思え、と言っているようなものではないのか? こんな面倒くさい兄がダブルになって、そのうち片方が毎日音楽室に居着く状況なんて、考えたくもない。

「だからあ。そんな〝呪いの曲〟なんて、どう考えたらいいか……っていうか、向き合い方? とか、教えてほしいな、と」

 どれほどの恐怖を体験しても、二時間もすればけろっとしてしまうのが、早苗の長所でもあり、短所でもある。この性格ゆえに、早苗は夢子達との誓約もやすやすと破り、真菜穂との口約束もほごにして、何らやましさなど感じずに済んでいる。

「対処法を訊いとるのか? 俺には、顧問が気に入らんとクソ生意気なガキが愚痴ってるだけにしか聞こえんが」

「いや、それはそれでその通りですが……」

「要するにどうしたいんだ? 呪いとやらの実在を証明して、その布施って先生がいかに非人間的な考えでいるかを暴露したい? でも、他の部員はみんな納得してるんだろ?」

「う……」

 その通りだ。誰も〝呪い〟についてまともに話してくれないし、きちんと調べようともしていないようなのに、当たり前のように受け入れている。のみならず、吾郎の人身御供方針を黙認までしている。

「お前、結局は、誰も自分の相手してくれんからムカついてるだけじゃないのか?」

「そ、そんなことは!………ある、のかな?」

「あるある。指導法がどうしたなんてのは、こじつけに過ぎん。だいたい、その〝呪い〟の件を除けば、決定的な不満なんてないんだろう?」

「そうかな……そうですね……はい」

 多少抵抗を感じつつも、早苗が千歳をわざわざ相談相手に選ぶのは、こういうやりとりができるからだ。つまり、問題の中身がわかりやすく言葉に翻訳されていく、ということ。むろん、いつも兄の言葉を全面的に受け入れられるとは限らないけれど、自分一人でいつまでもいじいじと悩むのはもっといやだった。

「周りになじめない転校生。ちょっとしたすれ違いから来る疎外感。よくあるパターンだわ。まあ、いちばん手近な解決法は、お前の友達同様、ひたすら〝呪い〟を畏れ、ひれ伏すことだな。みんなで一緒に震えればいい。そういう連帯感のための、虚構の伝承なんじゃないのか?」

 わざと中二には難しい言い回しで千歳が言う。隠れた皮肉を敏感に感じ取った早苗は、むっとした顔で反論した。

「何それ。トシちゃん、そんなので妹にアドバイス贈ってるつもり?」

「その呼び方よせ――だから、いちばんの近道ならって言ってるだろ。あえてイバラの道を歩みたいなら、そうするがよい、妹よ」

「イバラの道って?」

「例えば自由曲の変更運動を展開する」

「それは無理。春休みに決めた時だってほとんど反対もなかったらしいし。第一、コンクールも近いのに……」

「〝呪い〟とやらをいちばん効果的に避けたいなら、あらゆる方法でその曲をボツにすればいいと思うが?」

「そりゃ、反対できるものならしてるけど、あたし一人ではどうしようも……」

「矛盾してるじゃないか。本気で疑問を感じるんだったら、ストライキでも何でもすればいい。ユーフォニアム、お前だけなんだろ? 今お前が抜けたら致命的じゃないのか? 脅迫ぐらいには十分なるはずだ」

「そ、それは……」

 皮肉っぽく唇をゆがめる兄から、早苗はついつい目を背ける。分かってる。強攻策なら何通りもある。おかしいことをおかしいとただわめきたてるのは簡単だ。けど、それはもう部活動とは呼べないし……何よりも……。

 いささかばつが悪そうに、それでも視線を正面に戻すと早苗ははっきり告げた。

「あたし、『風追歌』はいい曲だと思う。ううん、最高の曲だよ。だから、あたしもあの曲吹きたい。コンクールにはこのまま出たい。でも、〝呪い〟は何とかしたいの」

「ふん、そういうことか」

 非論理的な奴め、とか何とか、嫌味の三つ四つは言うかと思ったのに、千歳は一つ鼻を鳴らしただけで頷いた。

「なら、お祓いでもするんだな。ここの神社はそういう商売もやってないのか?」

 話を切り上げようと腰を浮かしかけた千歳に、慌てて早苗は取りすがった。

「いや、だから、よく分かんないんだけど、音楽的な〝呪い〟なんだってば」

「ああん? まさかお前、曲の旋律やら形式やらに、不幸の要素がこめられているとか、そういうことが言いたいわけ?」

「そ、そうかもしんないし、そうじゃないかも……」

「単に罰当たりな曲をコンクールで演奏しようとしてるから、呪われるって話じゃなかったのか?」

「そうかもしんないし、やっぱりそうじゃないかも……つきましては、その辺も含めて、何かお知恵をいただきたく」

「はてさて面妖なことよ。構造的に呪いが入ってる音楽なんて、信じたくもないが。どれ、その曲の音源とか、今持ってないのか?」

 何とか千歳の興味を曲の試聴にまで引っ張ることに成功したようだ。よっしゃあ、と心の中でこぶしを握りしめながら、早苗は二つ返事で自室のCD-Rを取ってきた。七年前の演奏記録だ。プロのCDなんてもちろんない曲なので、参考演奏は過去の楓谷のコンクール音源を部長グループが動画サイトに限定公開でアップしていて、希望者にはCD−Rも配っていた。

 早苗がリビングのコンポで曲を再生し始めた。平素は曲の途中で頼みもしない批評をあれこれ口にする千歳だったが、その時はずいぶんおとなしかった。ステレオスピーカーの真ん前であぐらをかいたままじっと耳を傾け、驚いたことに、終了後には好意的な反応を見せたのだ。

「悪くない。ずいぶん面白い響きをしている。構造も結構凝ってるし。作曲者、何て言った?」

「ソウミツハルって言ってたっけ。ああ、この名前。宋光春」

 CDケースに付いていた手製のインデックスを早苗が指さす。千歳はわざとらしく大きく首を傾げた。

「知らんなあ。何者? 日本人?」

「さあ。トシちゃん、作曲科なんだから調べてよ。自筆譜を後生大事に使わせてるくせに、ゴローも作曲者のことなんて何も教えないし」

 この時間が過ぎれば、自分が妹のために働くはずがないと自覚しているのだろう。千歳はコンポの横にあったホームパソコンを起動すると、その場でネット情報を漁りだした。一分もしないうちに何かを見つけたらしく、あるサイトの文章にしきりに頷いている。

「お前、そんだけ〝呪い〟だ何だって叫ぶぐらいなら、少しはネットで情報を調べようとか思わなかったのか?」

「機械は嫌い。分かってるくせに言わないでよ。なに、何か見つかったの?」

「まあ、無責任な書き込みの一つだけどね」

 それは吹奏楽好きの誰かが調べた、とある音楽系SNSの記事だった。要約すれば、「吹奏楽のための風追歌」には盗作の疑いがある、と言う指摘だった。津見倉つみくらしゅんという作曲家の作品のあちこちに類似のフレーズが見られる、というのだ。どうやら過去の演奏を会場で聴いたマニアが独自に色々調査したようだ。しかもその記事によれば「風追歌」の〝盗作疑惑〟は上級吹奏楽ファンの間でかなり広く囁かれているらしい。

「津見倉さんって言やあ、管弦楽もピアノ曲も書くし、まあクラシックの世界では中堅どころの売れっ子ではあるな。もう五十半ばだけど」

 そう言って千歳は、ネットから津見倉峻の写真まで探し出してきた。目から離れた丸っこい眉毛が柴犬みたいだ。話題にそぐわない優しそうな顔の造作に、早苗はつい微笑ましい気分になる。作曲家の人相に別段興味はないのか、千歳が淡々と続ける。

「確かにさっきの……『風追歌』って言ったか? 楽器の使い方とか、テーマの処理とか、俺も津見倉峻に似ていると思う。しかし、だ」

 液晶画面を軽くコンコンと叩いて、千歳が笑った。トリックを見破った名探偵みたいに、得意げな顔だ。

「しょせん素人の音楽評だな。俺はこの話、逆だと思う」

「逆って?」

「その曲を最初にコンクールで演奏したのは十八年前だろ。しかも、事情から察するに、それが初演だ。十八年前、津見倉峻がどんな作品を書いていたと思う? 少なくとも、この文章で指摘するような、よく知られた曲はまだ出ていない。確か、もっと取っつきにくい作風だったんじゃないかな」

「それはつまり……」

 プロの作曲家センセイが、無名人の手による作品を勝手に召し上げたってこと? にわかに不穏な気配を感じて、早苗はごくりとつばを呑み込んだ。千歳がわざわざ顔まで寄せて、打ち明けるように続けた。

「いいこと教えてやるよ。津見倉峻が売れっ子になったのは、ちょうど十八年ぐらい前からだ。今みたいな作風が固まってきたのも、同じ頃だったはず。何なんだろうな、これは?」

「な、何なんだろうって……」

「何か創作上のヒントでも授かったのか。それも、あまり他人にはうち明けたくないような形で」

 昼間、真菜穂を相手に怖い思いをした分、回路が出来上がっているのか、早苗は得体の知れない不気味さに、早くも背筋がうそ寒くなってきていた。なんだか見たくもない人の悪意が、次々と目の前で広がっていきそうな気配。あ、そんな話はもう結構ですから、と言いたいのに、両手で口元を被ったまま、何も言葉が出ない。

「一方で、これだけの曲を作った宋光春氏は、ほとんど検索にも引っかからない。おかしな話じゃないか? 音楽界から抹殺されたような扱いだ。……いや、ほんとに抹殺されたのか」

「ちょっと! やめてよ!」

 やっぱりあたしはバカだ、と思う。真菜穂先生の前で、今後は謙虚な部員となることを神様に誓うべきだったのだ。いや、あの時はほんとにそのつもりだった。なんで一日に二回もおんなじような怖い思いをしなくちゃならないんだろう。ほんとに、何て曲を選んでくれたんだ、あの顧問は――。

「もうたくさんだよ……これ以上怖い話はいいよぉ……」

「別にそれほど怖い話にも思えんが」

「だって! その宋光春って人が抹殺されたんなら、曲にかかってる呪いってダブルになるじゃない!」

「死んだ作曲者が自分の作品を演じてくれる少年少女に祟りをなすはずがなかろう」

「そ、それはそうかも知れないけど……」

 そこまで死者の怨念をシンプルに割り切っていいものだろうか? 何も分からない。何も考えたくない。いちばん理性的な対話が期待できると思っていた兄なのに、〝呪い〟の闇が一層深まっただけだ。なんてオチだろう。早苗は深々とため息をついて、パソコンデスクに突っ伏した。

「あらあら、いつも仲がいいのね、あんた達」

 風呂上がりの母親が、寄り添ってパソコンに向かっている(と見える)子供達に微笑みかけた。音楽好きでもなく、子供の生活にほとんど干渉してこない母親は、こういう時にとても頼れる相手ではない。自動車保険会社でいつも夜遅い父とて同様だ。ユーフォニアムを娘へ買い与える程度に余裕のある家庭環境にはそれなりに感謝しているが、今早苗がもっとも求めているのは、演奏活動上における〝呪い〟について、深い見識と的確な判断力を有している人間である。……少なくとも、身近な所にそんな奇特な人はいそうになかった。

「ま、俺も何か分かったら教えてやるから。そう死にそうな顔をするな」

 さすがに見かねた千歳が、苦笑しながら声をかけた。うん、と小さく早苗は頷いた。

「とにかく、知ることだ。その〝呪い〟が本物でも偽物でも、情報を集めて実体を見極めることが第一じゃないか? 世の中すべからく、探求に向かうほど恐怖は薄れるものだ」

 多分、いちばん建設的なアドバイスだったのだろうけれど、それを受け止めるのは一抹の重苦しさが伴った。

(結局みんなから怒られるようなこと、しなくちゃいけないのか……。そのうちばれそうだなー)

 確かに、他の部員と一緒になってただ怖がるだけの生徒を演じていれば、いちばん楽なのだろう。でも、それでは却って「風追歌」という曲に失礼な気がした。吾郎に対してもどこか収まりがつかないし、万事納得できないままだ。

 早くすっきりしたい。何もかもはっきりさせて、楽な気持ちで曲に取り組みたい――。

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