2 真菜穂先生の韜晦 

 数日後の土曜日。時刻は三時半を回ったところ。

 ――ロングトーンを半端に止めたまま、早苗がぼんやり廊下の窓から外を眺めていると、初瀬はつせ真菜穂まなほがやってきた。片手に折り畳みイス、片手にミニスコアその他をまとめた袋を抱えた格好で、気さくに声をかけてくる。

「は~い」「ども」

 副顧問で、三十前後のさっぱりした音楽教師である。土曜日のメニューは前半が各パートに分かれての練習ということなんで、布施と手分けして、あちこちを回っているのだろう。イスを広げて、真菜穂は早苗の横に寄り添うように腰を下ろした。相手が生徒でも、真っ正面に腰を下ろして腕組みしながら出来具合をチェックする、なんてことは、まずしない人だ。

 真菜穂が指揮には関わろうとしないからだろうが、早苗は副顧問とはうまくやっている。今日も挨拶代わりに、借りていたCDをまず差し出した。国内外の吹奏楽や管楽器関係のCDを聴きあさるのは、早苗にとって楽器を吹くのと同じぐらい、毎日の大きな楽しみだ。顧問への横柄な態度はともかく、早苗のそんな熱心な面を真菜穂は高く買ってくれていた。

「ホルストの二組にくみ、どうだった?」

「もう感動です! あんなきれいな音で吹かれたら私、何も言えません!」

「音色だけなら早苗ちゃんのユーフォだって負けてないでしょ」

「またまた、そんな無謀なヨイショなんて……。されるだけ悲しくなります」

「まあ謙虚な子。我が部が誇るトッププレイヤーの言葉とも思えないわね」

「トップって……勝負したわけでもないんだし……」

 ユーフォニアムはチューバを一回り小さくした楕円形の金管楽器である。トロンボーンと同じ中低音域で、豊かな柔らかい音色と、細かいパッセージでも吹きこなせる機動力とを合わせ持つ楽器だが、普通の管弦楽では用いられないため、知名度は低い。音楽の教科書にもまず載っていなくて、吹奏楽部のある学校でさえ、部員以外の生徒に名前が知れ渡ることはなかなかない。

 知られざる楽器であるが故にユーフォ奏者が参考音源を探すのは至難の業だ。ネットで誰もが気楽に無名曲をアクセスできる今日こんにちになっても、動画サイトにしっかりした名演が高音質で公開されているとは限らないのだし。

 もちろん曲探しも大変だ。いきおい、ユーフォニアムの長いソロがあるというだけで、ホルストの「第二組曲」などというクラシックマニアも知らない吹奏楽曲が、早苗には「運命」や「第九」などよりもありがたみのある曲となっている。

 そんな報われないところだらけの楽器なのに、早苗は今やすっかりユーフォニアム漬けの人生を歩んでいた。一年生の一学期に出会って以来、中学生活の半分はこの楽器を抱いて過ごしている気分だ。楽器に愛着を持つ吹奏楽部員は少なくないが、早苗のハマり方はいささか度を越えているところがあるかも知れない。何しろユーフォニアムという楽器本体だけでなく、その音楽や歴史にまで興味を広げ、専門誌を読み、貯金を崩して高い楽譜を躊躇なく買い揃え――女の子らしい方面には月に百円も使わないのに――とにかく、取り組み方が見るからに本格的なのだ。両親を始め、クラスメートも、以前の部員さえ、その姿勢には感心すると言うより、引きまくっていたというのが実情だ。

 入部三ヶ月後には親に無理を言って自前の楽器まで買ってもらい、古風な言い方をすれば、ユーフォニアムにみさおを立てていた。以前の部では、集団レッスンながらプロ講師から何度か受講の機会があり、練習環境と素質にも恵まれたのか、技術的にはすでに高校生並のレベルをものにしている。真菜穂の言葉は決してお世辞ではなかった。

「だって、鳴ってる音聞いたら一目瞭然じゃない。ほら先週の合奏練習、あの『ルスラン』(注1) なんて 、イントロの早吹きのとこ、クラリネットもサックスも軒並みユーフォに負けてたんだし」

「えっ!? あー、あれは私が音を走らせすぎたから――」

「あの時、木管パート全員本気になって最高速出してるつもりだったんだけど、見えてなかった? 音量だって、ユーフォ一本でタメ張ってたし」

「そ、それは……たまたま、ですよ……」

 一方、口先では言葉を濁してみるものの、早苗だってある程度の自覚はある。逆に、そんな発展途上のプライドが、やたらと顧問につっかかる材料になっている、と言うことも、ぼんやりと感じ取ってはいた。

「布施先生も頼りにしてるんだし、もっと自信持ったら」

 さりげなく出された言葉に、早苗はちょっとだけ眉をひそめた。立場上仕方がないのだろうけど、真菜穂は時々吾郎と部員の間を取り持とうとし過ぎるように思える。

「頼りにしてるなんて……一人だけのユーフォだからでしょ」

 五十人近くの編成なら、本来ユーフォパートは二~三人で構成されるものだが、四月に転校してきた時、たまたまユーフォニアムは奏者ゼロの状態だった。半年後にはトロンボーンから新入生が一人回ってくることになっているものの、それまでこのパートは早苗一人ということになる。

「ほんとに頼れないと思ったら、他からパート変更してでもユーフォを二人にしてるはず。ましてあんな曲が自由曲ではね。でも、早苗ちゃん一人に任せきってるでしょ?」

「一人のユーフォで充分出来る曲だからですよ」

「ほんとにそう思ってる? 『風追歌』はね、ユーフォが要の一つなのよ。ソロも多いし、歴代の先輩達、みんな音が出る出ないのレベルでそれはそれは苦労してたんだから」

 口を開きかけた早苗が、すぐに顔を伏せた。見え透いたおだてを受け入れたとは思われたくないけれども、布施が出ている話の中でこれ以上自分を卑下するのもいやだった。

「実際は気がついてるんでしょ? 布施先生が早苗ちゃんに出す注文だけ、他よりも高いレベルのものになってるの。楽にクリアできる内容じゃないでしょうけど、だからと言ってダダをこねてても早苗ちゃんの腕が止まるだけよ」

 手厳しくも優しい声で道理を説く副顧問に、早苗は目を伏せて降参した。この人が相手だったら、何でも素直に聞けそうだし、何でも話せそうな気がする、と思う。

 ふと、先日の夏実達との会話が脳裏をよぎる。真菜穂先生なら……でも、なんて訊けば……。

「あ、あの、先生……」

「なあに?」

 いくつか言い出し方を考えて、早々に諦める。遠回りな言葉遣いなんて、するのもされるのも苦手なのだ。

「その……この曲って、演奏すると部員一人が確実に不幸になるって話、本当ですか?」

 途端に真菜穂の瞳から一切の光が失せ、みるみる顔色が悪く――なったりはしなかった。ぷっと小さく空気が吹き出る音がして、あっははははは、と実に晴れ晴れとした笑い声が廊下いっぱいに広がった。何だ何だ、とあちこちの空き教室から、他のパートの部員達が顔をのぞかせる。

「あああ、あの、先生?」

 いちばん予想していなかった反応に面食らっている早苗の前で、真菜穂は延々と笑い続けた。五分ぐらいは笑われていた気分だ。

「もう、深刻な顔して何を訊くかと思えば……早苗ちゃんまでがねえ」

「笑いすぎです、先生」

「あはは、ごめんごめん。だって、この部でその種の迷信からいちばん遠いタイプだと思ってたのに」

「迷信……なんですか?」

「迷信よ。なんでも、物の怪を呼び込んでしまう音楽ってのも世の中にはあるとか言うけどね。あんなエキサイティングな曲が、不幸な曲のはずないじゃない」

「それはそうですが……」

 ぽん、と早苗の肩を叩くと、真菜穂は立ち上がった。片手に吹奏楽CDみたいなジャケットのDVDをかざしている。

「今度はこれ貸したげるから、テンション上げなさい。あ、でもストーリーは寂しい話だから、音楽だけに心酔するのよ」

 難しい注文に小難しい表情を返しながら受け取ったDVDは、イギリス映画だった。タイトルに「ブラス!」とある。

「そう言えば、その映画のヒロインって、どこか今の早苗ちゃんみたいだしね」

 ジャケット写真の下、フリューゲルホルンを手に微笑む女優を目で指しながら、真菜穂が言った。

「えっ、そんな、私、こんなに目が可愛く……」

「いやいや、話の中での彼女の立場が、しばらくの間、憎まれ役だってことが」

 がくっと肩を落として、ため息と共になんだかやさぐれた笑みが浮かんでしまう。イスをたたんで撤収しようとしている真菜穂を見て、ふと、抑えていた疑問のあぶくがもう一つ、ぽっかりと浮かんでくるのを感じた。質問は言葉を選ぶより先に出てしまっていた。

「じゃあ、十八年前の支部大会の写真で右上に写ってた子って?」

 真菜穂が一瞬で鋭く振り返る。人相が一変していた。まるで殺したはずの相手を前にした殺人犯みたいな。息も止めて全身を硬直させ、見開いたままの両目はそのまま早苗にかぶりつきそうだ。よほど衝撃を受けたのだろう、口元から噛みしめた歯がのぞいていて、殺気まで感じさせる。

 ショックを受けたのは早苗も同様だった。親しんでいたはずの人から強烈な視線で睨みつけられて、全身からいっぺんに生気が吹き飛んでしまったような感じだ。あちこちの教室から聞こえるパート練習の音が、急に幻覚じみたとりとめのないノイズの群れに化けた。廊下のその一角だけ、時間も空気も止まっていた。

 だいぶん経ってから、真菜穂が静かに口を開いた。

「どこで、それを?」

「あの……準備室の奥……む、昔のプログラムに……挟まってて、写真が……」

「…………そう……見たのね」

 うわ、映画みたいなセリフですね、と、いつもなら笑って一人ウケてたかも知れないが、もちろんそんなシチュエーションではない。目の前の先生は本気だし、次に行動を起こすとすれば、それも本気だろう。例えば、早苗の首に両手をかけて、骨が折れるまで締め続けるような行動だとしても、だ。

 額からじわっと垂れてくる感触に、ああ、ほんとに冷や汗ってかくもんなんだ、と早苗は思った。触れるべきではなかったのだ。これまで何度も学んできたではないか。知らなくてもいいことに首を突っ込んで真っ先に殺されるのは、ムダに詮索好きなお調子者と決まっている。ハリウッド映画でも、サスペンス劇場でもだ。

 けれども、真菜穂は疲れたように肩で一つ息をつくと、怯えたような目の教え子へ、ゆっくり微笑んだだけだった――すごくぎこちない、嘘っぽい微笑みだったけれども。

「ごめん。びっくりさせた? 見たのならしょうがないな。でもね、あれは呪いとかそう言うものではないの。その写真の子も……本当は……」

 言いながら、自分でどんどん困惑していくような真菜穂。秘密を打ち明けるべきか、迷いに迷っている。さすがにその時の早苗は生存本能に忠実だった。

「あの、いいんです。事情がおありでしたら、写真のこと、誰にも言ってませんし、言いません。私だって本気で呪いなんて信じてませんから。あは。あはははは」

 だから殺さないでください!と続けたくなるのを何とか呑み込むと、恐る恐る真菜穂の顔を見上げる。副顧問はただ苦笑していた。それは、もう授業で見せる表情と同じものにも見えたけれども、〝知りすぎた〟生徒の命乞いをただ面白がっているようにも見えた。

 もう一度、早苗の肩を、ぽん、と叩くと、真菜穂はイスを担ぎ上げた。

「ま、そう言ってくれると助かるんだけどね。私も余計な混乱は招きたくないから……んじゃ、気持ち切り替えてがんばるんだよ」

 来た時と同じような飄々とした態度で背中を向けると、真菜穂は近くの教室へと入っていった。ゾウの鳴き真似をして遊んでいたホルンパートが、すぐにきっちりしたパート練習に切り替わる。

 早苗は長い間放心状態だった。

 気がついた時は、廊下の窓から見下ろせる校舎の影が、斜めに長く傾いでいた。じきに合奏練習だ。いけない。ロングトーンも終わってないままなのに。

 マウスピースを一度口に寄せて、すぐに構えを解く。ドキドキが収まらない。数回深呼吸を繰り返して、もう一度。今度は音階練習の半分で止まってしまう。曲の難所をさらうのはおろか、息もろくに続かない。

 困った。これは、練習どころじゃないかも。




(注1) 「ルスラン」……グリンカ作曲「ルスランとリュドミラ」序曲のこと。原曲は管弦楽。冒頭十五秒ほどが、ヴァイオリンからコントラバスまでの弦楽器全員での上下に激しくうねる高速パッセージの難所になっている。吹奏楽編曲版では元の低音弦の声部にユーフォニアムが参加する形になっていることがしばしばあり、たとえば木管がヘタレ揃いでユーフォが名人級だったりすると、この会話のように木管が金管にスピードで負けるという珍事が、すごくわかりやすい形で起きてしまう。いや、ほんとに。

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