鉛筆の勇者

湖城マコト

第1話 鉛筆の勇者

 セミの鳴き声もすっかり耳に馴染んだ七月上旬。僕の住む町も夏の熱気に包まれている。午後五時になっても太陽はまだ高くて、僕はここだよと激しく自己主張をしている。文字通り、夏の太陽は陽キャの頂点に立つ存在なのかもしれない。


「あれって、江夏えなつ?」


 遠回りをして家に帰っていた僕は、町はずれの無人の神社の境内に、見覚えのある女の子が立っていることに気付いた。同じ一年B組の生徒の江夏えなつ瑠璃るりだ。僕らの通う中学校はいわゆる進学校で、授業のレベルが高い。僕は頑張って勉強についていくので精一杯だけど、江夏は学年一位の秀才だ。学級委員長で、生徒会にも所属していて、家の方針でたくさんの習い事も頑張っている。毎日忙しいはずなのに、危なげなく好成績を維持していて、僕から見たら江夏は超人だった。


 放課後は習い事ですぐに下校してしまうはずだけど、どうして無人の神社の境内になんているのだろう? 今日は自由時間で、気分転換に散歩でもしていたのかな。


 立ち止まってそんなことを考えていると突然、僕の後ろから江夏の方に向けてぬるい風が通り抜けていく。それは江夏の意識が僕に向くには十分なきっかけだった。


「あれ、蒼佑そうすけくん?」


 こんなところで顔を合わせるとは思っていなかったのだろう。江夏は普段はあまり見せないようなキョトンとした顔で、僕の、春見はるみ蒼佑そうすけの名前を呼んだ。


「こんなところでどうしたの? 蒼佑くんのお家ってこっちじゃないよね」

「気晴らしに遠回りして帰りたい日だってあるよ。江夏こそこんなところで何を?」


 会話をするために、僕は駆け足で江夏の元へ合流した。


「旅に出ようかと思って」

「夏休みの予定の話?」


 二週間後から始まる夏休みの話だろうか? それにしては流れが急だ。


「ううん。今日これから」


 真剣な表情と口調は、とても冗談を言っているようには聞こえなかった。


「それって――」


 家出という言葉が頭をよぎった瞬間、肌に静電気のようなものを感じた。境内の空気感が一気に変わったような気がする。


「来たよ」


 江夏がそう言った瞬間、突然僕らの目の前にドアノブと鍵穴がついた赤い扉が出現した。それまでは存在してなかった物が突然出現する。常識では考えられない何かが目の前で起きている。


「蒼佑くんにもこの扉が見えるんだ。やっぱり君も私と同じだ」

「この扉はいったい……」

「この扉の先はね。フェアリーテイルと呼ばれる異世界に通じているんだよ」

「フェアリーテイル。それはおとぎ話のような?」

「そうだよ。自分らしくいられないこんな世界よりも、フェアリーテイルの方がきっと楽しい」


 異世界なんてありえない。言葉にするのは簡単だけど、結局は僕は言葉を飲み込んだ。江夏の表情は真剣そのもので、僕をからかっているようには見えない。事実、目の前には不思議な気配を持つ扉が存在している。


「私一人で行くつもりだったけど、蒼佑くんだったら一緒に連れていってあげてもいいよ。昔みたいにまた二人で遊ぼうよ」


 笑顔の江夏が僕に手を差し伸べた。この手を掴めば、僕も一緒に異世界へ行くことが出来るのか? だけどそれは……。


「……すぐには決めらないよ」


 江夏以外との人間関係を全て捨てて、異世界へと旅立つ。これはきっと、大きな決断になる。慎重な僕が即答できるはずはなかった。


「選択というのは待ってくれない時もあるんだよ」


 残念そうに呟くと、江夏は鞄から大きな鍵を取り出した。鍵の持ち手は本をイメージしたデザインになっている。

 江夏が鍵穴に金色を鍵を差し込むと、フェアリーテイルへと続く扉がゆっくりと開く。夏の日差しに負けない強い光が扉の向こうからあふれ出してくる。


「もう行かなきゃ。最後に君に会えてよかった」

「待ってくれ。江夏!」


 咄嗟に江夏を引き戻そうとすると、触れようとした瞬間、僕の体は強烈に弾かれてしまった。何か目には見えない謎の力が僕と江夏をさえぎっている。


「ばいばい。蒼佑くん」


 手を振りながら微笑むと、江夏の姿は扉の向こうのフェアリーテイルへと消えた。閉まった瞬間、何事もなかったかのように扉はその場から消滅してしまう。


「江夏……君は」


 汗ばむ七月上旬の夕方。江夏瑠璃はフェアリーテイルへと旅立った。

 僕だけがそのことを知っている。


 ※※※


 翌日から、江夏瑠璃の失踪は大きなニュースとなった。

 僕は江夏は不思議な扉を通って異世界フェアリーテイルへと行ってしまったことを知っているけど、誰にもそのことは話していない。話したところできっと誰も信じない。嘘つきと僕が怒られるだけだろう。


 江夏がいなくなったことで気づいたことがある。

 クラスメイトはあの何で学級委員長がと驚く。

 先生たちはあの優等生がどうしてと頭を抱える。

 周りの大人達はあんなに手のかからなそうな子が家出なんてと首を傾げる。


 誰も江夏瑠璃の中身を見ていない。

 優等生や学級委員長としての外見だけを見ているのだ。

 中学入学以来、江夏はいつだって笑顔だったけど、小学生の頃から江夏を知っている僕には、その笑顔は無理をしているように見えた。小学生の頃、一緒に遊んでいた頃の江夏はもっと自然に笑っていたはずだ。周りはきっと、そのことにすら気づいてはいない。


 自分らしくいられないこんな世界。旅立つ直前に江夏は今の生活をそう表現した。江夏はこの世界で過ごす日常を窮屈に感じていたのかもしれない。僕も似たような感情を抱えているから、江夏の気持ちが少し理解出来る。


「委員長どこ行ったんだろうな?」

「家出じゃないの。真面目な顔してよくやるよね」


 江夏の失踪から三日経った。同級生たちが無神経に江夏の話題を口にしている。普段なら気にも留めないのに、今の僕は苛立っていた。


「何も知らずに、勝手なことを言うなよ!」


 普段物静かな僕が声を荒げたことで、教室が一瞬で静まり返った。


 ……何も知らないのは僕も同じじゃないか。これじゃただの八つ当たりだ。


 一緒によく遊んでいた、小学生の頃の江夏のことは知っているけど、中学に入学してからの江夏のことを、僕はどれだけ知っているのだろうか。

 江夏の心の葛藤を、僕は何も理解出来ていなかった。友達だったのに、僕は毎日授業についていくのがやっとで、江夏を気にする余裕がなかった。僕がもっと江夏の気持ちに寄り添えていたならあの時、彼女を引き留めることが出来ただろうか?


 いるのが当たり前だと思っていた江夏はもうこの世界にいない。失って初めてその存在の大きさに気付いた。もう一度江夏に会いたい。僕たちは友達だから。


 ※※※


 放課後。僕は制服姿で、三日前に江夏が消えた神社の境内を訪れていた。

 彼女が旅立ったフェアリーテイルの手掛かりはここだけだ。もう一度あの扉が出現したら、僕もフェアリーテイルへと行くことが出来るかもしれない。


「現れろ! フェアリーテイルへの扉!」


 江夏と同じ場所に立ってとりあえず叫んでみたけど、扉が出現する気配はない。恥ずかしさで僕の顔が熱くなっただけだ。


「……江夏。僕がそっちに行くにはどうしたらいい?」


 夏の暑さに耐え兼ねて、僕はその場に座り込んだ。腰を下ろした瞬間、ズボンの後ろポケットに入った何かに触れた感触があった。スマホは右のポケットに入れているし、家の鍵は鞄に入っている。後ろポケットには何も入れていないはずだ。


「鍵?」


 もう一度立ち上がって後ろポケットを確認してみると、一本の大きな鍵が出てきた。鍵の部分が鉛筆の芯のように真っ黒で、持ち手は木で出来ている。この鍵はいつの間に僕のズボンの後ろポケットに入ったのだろう? まったく心当たりがないし、少なくとも学校にいる間は、椅子に座っていても違和感はなかったはずだ。


『それはフェアリーテイルへ行くための鍵だよ』

「えっ?」


 謎の声に導かれて顔をあげた瞬間、突然目の前に、三日前と同じ赤い扉が出現していた。


『その鍵は選ばれし者の証。君にはフェアリーテイル行く資格がある』


 幼い少年のような声の持ち主は目の前にはいない。声は扉の奥から聞こえてくる。


「フェアリーテイルに江夏瑠璃はいるんだね?」


 正体を問い掛けるよりも、江夏がそこにいるという確認の方が僕には大事だった。


『三日前にやってきた女の子だね。彼女は確かにフェアリーテイルで暮らしているよ』

「僕はもう一度江夏に会いたい。会って江夏を連れ戻したい」

『彼女に会うまでには様々な試練が待ち構えている。それに彼女自身が元の世界に戻ることを望んではいない。それでも君は彼女に会いに行くのかい?』


 そうだ。江夏は進んでフェアリーテイルへと旅立った。僕がやろうとしていることは自己満足なのかもしれない。それでも僕は。


「最後に決めるのは江夏だ。だけど僕は僕の気持ちを伝えないといけない」

『迷いのない良い声だ。覚悟が決まっているのなら、僕はもう止めないよ』


 扉の向こうの誰かがそう言った瞬間、僕の握っている鍵が光を放った。


『鍵を開けてこちらへおいで』


 声に導かれた僕は扉の鍵穴に鍵を差し込んで回した。扉の隙間からは光があふれ出している。


「江夏。今から僕もそっちに行くよ」


 扉を引いて、僕は光の中へと一歩を踏み出した。


 ※※※


「ここがフェアリーテイル。綺麗な場所だ」


 扉の先は、自然豊かで、現実には存在しない幻想的な生物が行き交う、おとぎ話の世界を思わせる場所だった。僕は今、森の中の湖のそばにいるらしい。


「もう後戻りは出来ない……」


 振り返って見ると、フェアリーテイルへとやってくるために使った扉が消滅していた。江夏を連れ戻すためにやってきたのはいいけど、そもそも僕が元の世界へと帰れるのか。いまさらだけど不安になってきた。


「フェアリーテイルへとようこそ」


 頭上から幼い少年のような声が聞こえた。扉の向こうから僕に話しかけてきた存在だ。ゆっくりと顔を上げてみるとそこには。


「ち、小さいドラコン?」


 僕の頭上を羽ばたいていたのは、青い宝石のような色をした、小型犬サイズのドラコンだった。目がクリっとしていて、マスコットキャラクターのような愛くるしさがある。現実には存在しない生物なのに、思ったよりも出会った時の驚きは少ない。不思議とこのドラゴンにはどこかで見覚えがあるような気がする。


「僕はラピスラズリ。ラピスと呼んでくれたまえ。ようやく会えたね、蒼佑」

「どうして僕の名前を?」

「僕だけじゃない。この世界の全ての住人は君のことを知っているよ。君はフェアリーテイルへと導かれた、選ばれし者だから」

「僕が選ばれし者?」

「そうだよ。だから君の前には扉や、それを開けるための鍵が現れた」


 だとすれば、江夏もやはり選ばれし者なのだろうか。どうして僕たちは選ばれたのだろう。


「僕がフェアリーテイルを案内するよ。何か分からないことがあれば、遠慮なく聞いてくれたまえ」


 フェアリーテイルに江夏以外の知り合いはいないし、その江夏がどこにいるかも分からない。今僕が頼れるのはドラゴンのラピスだけだ。


「江夏に会いたい。どこに行けば彼女に会えるかな?」

「瑠璃はフェアリーテイルの中心部。想像と創造の塔にいるよ。だけどごめん。今は詳しい説明をしている時間はないみたいだ」

「どういう意味――」


 言いかけて、突然後ろから何か大きな影が僕に差してきた。恐る恐る振り返ってみるとそこには、実体化した影のような、闇の巨人が僕を見下ろしていた。その大きさは四メートルは超えている。


「な、なんだよあれ」

「フェアリーテイルの魔物、リグレットだよ。気をつけて、リグレットは異なる世界からやってきた君を排除しようと襲ってくる」


 慌てて闇の巨人リグレットから距離を取る。幸い動きは遅そうだ。


「早く逃げないと」

「ここで逃げてしまったら、君は瑠璃の元へは辿り着けないよ」


 この場から逃げ出そうとする僕のシャツの襟を噛んで、ラピスが引き留めた。


「瑠璃の元へ近づけば近づくほどたくさんのリグレットが待ち受けている。リグレットと戦わなければ、瑠璃と再会することは出来ない」

「僕があの闇の巨人と戦う? そんな無茶な」

「無茶なんかじゃない。君はフェアリーテイルへとやってきた選ばれし者だよ。戦うための力を持っている」

「僕はただの中学生だよ」

「思い出して。君自身が見失いかけていた君自身のことを。思い出して、扉を開ける鍵は何だった?」

「そういえば、この鍵って」


 ポケットから取り出した鍵を見て、あらためてその形の正体を知る。これは鍵の形をした鉛筆だ。中学校に入学してからは、勉強の時ぐらいしか握っていなかった鉛筆を、僕はちょっと前までは違った使い方をしていた。


 忘れかけていた僕自身のこと。新しい環境と勉強についていくので精一杯で手が遠のいていたけど、僕は絵を描くことが大好きだった。


 鍵が光を放つと同時に、手のひらサイズの大きな鉛筆へと姿を変える。異世界での僕の装備は剣や盾ではなく鉛筆なのだ。それが一番しっくりくる。これこそが僕の武器で、僕の強さで、僕の個性だ。


「これさえあれば戦える」


 恐怖はいつの間にか消えていた。鉛筆でどう戦えばいいのか。感覚的に理解出来た。鉛筆とは文字を書いたり絵を描いたりするための道具。これさえあれば、僕は勇者になれる。


「来るよ、蒼佑!」


 闇の巨人リグレットが巨大な拳を振り上げて襲い掛かってきた。

 僕は鉛筆で空中に巨大な逆三角形の盾を描いた。すると鉛筆の線に沿って立体的なモノクロの盾が出現し、リグレットの拳を正面から受け止める。僕の生み出した頑丈な盾はビクともせず、反動でリグレットの巨体が倒れた。


「今だよ、蒼佑!」

「分かってる。これで終わりだ!」


 僕は空中に、漫画の斬撃のエフェクトをイメージした三日月形を描き、それをリグレット目掛けて飛ばす。強烈な斬撃で大ダメージを受けたリグレットは、太陽の光を浴びた吸血鬼のように消滅した。


「勝てた……」


 急に力が抜けて、僕はその場に座り込んだ。戦いが終わったことで大きな鉛筆は、元の鍵へと戻っていた。


「描いた物を実体化させる鉛筆。それが君のアタッチメントだよ」

「アタッチメント?」

「特殊な力を持つ道具を、フェアリーテイルではそう呼ぶんだ。能力者の愛着や思い入れが力を貸してくれると言われているよ」

「僕にとってのそれは、絵を描くための鉛筆」


 そうだ。中学受験を機に勉強時間に追われて、入学後も授業についていくのがやっとで、ずっと遠のいていた僕の生きがい。僕は小さい頃から絵を描くことが大好きだった。一緒に生きてきたこの感覚を、すっかり忘れかけていた。


「君の能力をイラストレーターと名付けよう。その力があれば君は戦える」

「ペンは剣よりも強しか」


 正しい言葉の使い方じゃないことは分かっているけど、そう言いたくてたまらなかった。


「リグレットの襲撃で話が途中になってしまったね。江夏瑠璃がどこにいるのか、改めて説明しよう。これを見て」


 ラピスが口から青い宝石を一個吐き出し、それが一瞬で地図へと変わった。いったいどういう原理なのだろう?


「これはフェアリーテイルの地図。僕たちがいるのはここだよ」


 地図を地面に置くと、ラピスは小さな手で現在地を教えてくれた。フェアリーテイルは大きな横長の形をした島で、僕たちは東にある森林地帯、導きの森にいるようだ。


「導きの森を抜けた先にある街道を西に進んで、大きな町を三つ越えたら、フェアリーテイルの中心にそびえたつ、想像と創造の塔に辿り着く。江夏瑠璃はそこにいるよ」


 ラピスが指先で丁寧に、進むべきルートをなぞってくれた。

 地名は見慣れない言語で書かれているはずなのに、自然とその意味を理解することが出来た。機械の町。歌い手の町。絵描きの町。三つの町を越えた先に、江夏の待つ想像と創造の塔がそびえ立っている。


「塔に近づくにつれて、リグレットは強くなっていく。君だけじゃ苦戦を強いられるかもしれない。途中の町で仲間を増やした方が良いかもしれないね」

「仲間?」

「この世界にやって来たのは君や瑠璃だけじゃない。他にも二人、同年代の男の子と女の子がフェアリーテイルへとやってきている」

「驚いた。僕たち以外にもフェアリーテイルにやってきた人間がいたなんて」


 同時に、ラピスの話を聞いて安心した。江夏に会うまでは孤独なんじゃないかと思っていたけど、同年代の子達がいると分かれば心強い。


「だけど、彼らを仲間に出来るかどうかは蒼佑次第だよ。君は瑠璃と説得して元の世界に帰ることを目標としているけど、彼らが必ずしも元いた世界に帰ることを望んでいるとは限らないからね」

「会ってみなければ何も始まらないよ。彼らとも友達になれたらいいな」

「その意気だ。まずは一番近い、機械の町を目指そう。そこには冬木景という男の子がいるはずだ。案内するからついてきて」

「冬木景か」


 案内人であるラピスの後を追って、僕は導きの森から旅立った。

 江夏の元へ辿り着くためにも、先ずは仲間を集めなくてはいけない。僕たちは冬木景に会うために、機械の町へと向かった。



 了

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