DINNER

Hurtmark

DINNER

 絶えることなく轟き続ける叫喚と、視界を埋めつくす黒ずんだあか、皮膚を伝う温い粘液、今吐いてないのが不思議なくらいの由来不明の激臭。冷たい晦冥かいめいが総てを支配している。

 死神の、あるいはもっとおぞましいものの気配をすぐ隣に感じながら、僕たちは故郷を目指して駆けている。


「振り返るんじゃねえぞ!自分のことを第一に考えろ!」


 先頭を走る隊長が叫ぶ。後ろの仲間たちがどうなっているのか分からない。だが気にしたら終わりだ。精神も肉体もズタズタに引き裂かれてしまうことだろう。

 どれだけ走ったか、最早時間感覚など麻痺していたが、やがてささやかな避難所を見つけた。酸鼻さんびなる有機的な豪雨の中でも錆び付くことなく、僕たちの姿を歪に映し出す金属塊がいくつも散らばっている。その物陰に逃げ込み、窒息しそうな程に乱れた呼吸を整え、隊員たちを確認すると、人数は10人から8人に減っていた。


「この深度の“刻限”は観測史上最悪の気象だ。この世界における人類存続の可能性は零と断定していいだろう。無念なことだが」


 隊長が言い放った絶望的な言葉に、僕たちは騒然となった。積み上げてきたものが跡形もなく崩れ去ってしまう。それだけはあってはならないと、平穏な営みを取り戻したくて、命ある限り奮闘してきたというのに。

 抗議の声がすぐに上がる。


「それは悲観的な臆断です!文明最高クラスの防御機能を使用すれば、少数の人間を護ることはできるのではないでしょうか?」


「そうです。人類にはこれまで奴らから逆算的に獲得してきた技術があります。化け物には化け物の力で対応する。無理な話ではない筈です」


「稚拙な妄想は済んだか?」


 対する隊長の言葉は短く、冷たかった。


「これはとても単純な話なんだよ。ヒトは魔物どもには敵わない。越えられない境界があるんだ。蟻がどれだけ群れようが何しようが、食物連鎖で人類の上には行けないように」


 荒唐無稽ながらも正しい、救いのない論理だった。誰もが薄々分かっていて、目を背けていた現実であるが故に、反論できる者は居なかった。

 力無く、暫し隊員たちは黙り込んだ。その間にも脅威は僕たちを襲う。


А誰か...私のママを見ませんでしたか?А


 声がした方向へ、僕たちは一斉に銃を向けた。そこに立っていたのは一人の少女。奇形の獣を模した不気味なポシェットを身に着け、困ったような涙目でこちらを見ている。


А彼女とはぐれてしまいました。帰り道も分からなくなっちゃって...どうしようА


 今にも泣き出しそうな少女に、隊長が歩み寄っていく。彼女の目の前まで近寄ると、しゃがみ込んで目線を合わせ、優しい声音で話しかける。


「それは辛いね。お家まで送ってあげたいけれど、残念ながら、俺たちでは力になれない」


А私はもうママに会えないの?А


「そんなことはないよ。少しでも安全な場所でじっとしているといい。きっと迎えに来てくれるさ」


А悲しい時、怖い時は甘い物を食べなくちゃ。そうすればきっと、気持ちが落ち着くわА


 隊長は一瞬で少女から飛び退いた。


「撃て!」


 隊長の指示で、僕たちは躊躇なく引き金を引いた。銃弾が少女の身体を引き裂いていく。鮮血と見るには黒すぎる、それでも人間と同じ赤が弾けて、鉄臭さの代わりに菓子のような甘い薫りを撒く。すぐに彼女の身体は砕け散らばった。


「休憩は終わりだ。行くぞ。文明圏はもうすぐだ」


「隊長...どうして俺たちはこんなに必死になっているんでしょう?」


 一人の隊員が呟く。座り込んだまま目は虚ろで、どうやら心が折れてしまっている。


「どう足掻いたって、上位捕食者の爪牙そうがから逃れることはできません。そう遠くない内に、全人類は淘汰されてしまうことでしょう。もう諦めればいい。人類が居なくたって、星々は狂いなく廻っていきますから」


 悲嘆に満ちた悟りが、彼の最期の言葉となった。

 赤紫色の液体が彼を染め上げた。身体がラズベリーソースの様に弾けて消える。


А甘い。上出来。やっぱり手作りのお菓子は美味しい。元気が出たわА


 今殺したばかりだというのに、身体を再構成し、元通りになっている少女。一切れのショートケーキが乗った皿とフォークを手に持ち、僕たちを凝視していた。食材を見るような目で。

 ケーキの上にはメレンゲドールが乗っている。それは消失した隊員をそっくり模していた。少女はそれを摘まみ上げて口へ運び、ボリボリと噛み砕いた。


Аママにも持って帰ってあげよう。きっと喜んで、抱きしめてくれるよねА


 隊長の指示を待つまでもなく、隊員各々が逃げ出した。戦うだけ無駄だ。1秒でも早く文明圏へ帰らなければ。死ぬならそこで、同胞たちと運命を共にするのだ。この魔境で、得体の知れない化け物どもの餌になるなんて嫌だ。


А一生懸命で可愛いけど、逃がさないよА


 宙から巨大なアイスクリームコーンが落下してくる。僕たちを囲むように着地したかと思えば、内側からアイスクリームが溢れ出し、それらが蝸牛かたつむりのような軟体生物の形態を取った。


А貴方たちは貴重な糖分なの。痛いことはしたくないから、どうか大人しくしてА


「なあお嬢ちゃん、こんなことをしても、君自身の為にならないと思うんだ」


 隊長が少女へ訴えかけるが、少女は応えない。命乞いの言葉は続く。


「俺たちには構わず身を隠して、“夜明け”を待つべきじゃないか?」


 少女の顔が苛立たし気に歪み、地団駄を踏んだ。


А暗黒の怖さは貴方たちよりよく分かっているわ。逃げ場なんてない。きっとお家には二度と帰れない。ごめんなさいママ。家出なんてしなきゃよかったА


 突如として、少女の姿が消えた。僕たちを取り囲んでいた蝸牛もどきが蕩けて消失していく。現れた魔獣の姿に、皆が反吐の出る思いだったことだろう。

一言で表すならば“死肉を捏ねて作った達磨だるま人形”。中層の建造物程もある体躯は腐食した血液のような黒い粘液で覆われ、何百もの奇形の偽足が伸び、皮膚と肉が所々欠けているせいで、骨格の奥で脈打つ何百もの臓腑が見えてしまう。それらは歪な生々しさがあり、通常の自然界における如何なる生物の解剖学的構造とも一致しなかった。

 ソレの腕の一つに、少女は捕らえられていた。逃れようと必死で藻掻いているが、意義ある抵抗にはなっていない。


Аやめろ!放してっ。ママが待ってるの!А


 少女の口からチューインガムのような風船が膨らみ、すぐに彼女の身体よりも大きくなる。風船は口元から離れると、魔獣の頭上へと飛んでいき、ピニャータのように弾けた。中から飴を思わせる大振りの塊が飛び出し、鋭利な刃となって降り注ぐ。それは魔獣の皮膚を貫き、深々と肉へ突き刺さったが、魔獣は意に介していないようだ。

 抵抗虚しく、少女は魔獣の口へと運ばれていく。


Аこの腐れっ、醜い木偶でくがぁ!!放せええええええ――!!!А


 獰猛な絶叫が少女の断末魔となった。

 何本もの太い牙が彼女を刺し貫き、生クリームの様に粘着く血汐が身体を染める。


Аいっ、グ...あははっ...早く帰らなきゃ...ママに、叱られちゃうのになあ...А


 少女は咀嚼され、魔獣の胃袋の中へと消えて行った。仲間を殺した存在ではあれど、子供がこのように凄惨な最期を迎えるなんて...決していい気分にはなれなかった。

 次の獲物を求めて、魔獣の目がこちらを向いた。

 ああ、終わりだ。僕は悍ましい死に様を覚悟した。少女相手でさえ何もできなかったというのに、彼女を一方的に捕食したこの魔獣をどうこうできる訳がない。僕たちは任務を全うできないまま、無為に死ぬのだ。

 他の隊員達も同じ想いらしく、皆が瞑目して終わりの時を待っていた。その中で、隊長だけがまだ諦めていない。確と目を開き、絶望的な現実を直視していた。

 ――なるほど。貴方は正しい。


「隊長。僕が時間を稼ぎます。行ってください」


 前に進み出た僕を、仲間たちが驚きの目で見る。隊長の目は険しく、僕を咎(とが)めているようだった。


「本気で言っているのか、馬鹿が。お前如きでは相手にならんぞ」


「大事なのは僕の力ではなく、貴方の足の速さでしょう。5秒、否、6秒稼いでみせます。それだけあれば逃げられますよね?」


 絶望が許される段階は過ぎている。どうせ死ぬと決まっているのだ。種の存続、未来の世代が少しでも平穏な歴史を営めるよう、この命を使い潰そう。貴方もそうお考えでしょう。

 僕の言葉を聞いた隊長の表情が緩む。何か、安堵したような...?

 魔獣が蠢き出す。隊長の指示を待つ暇はなかった。自分の身体と銃一丁だけを頼りに、僕は駆け出す――


――InVeniIdミツケタ――


 鴻大こうだいなるこえが轟いた。


 其処彼処そこかしこから聞こえて止まなかった阿鼻叫喚が静かになる。血の雨が揮発し、荒れ狂う竜巻や霹靂へきれきことごとく鎮まる。まるで世界が廻り巡ることを忘れ、停止したかのようだ。

 頭が、魂の髄まで真っ白になり、無に焼け堕ちて行くような圧倒的威圧。この一帯で跳梁跋扈ちょうりょうばっこしていた全ての魔物が弱肉強食の営みを中断したことだろう。僕たちに許されたのは、唯、遥か天空を仰ぎ見ることだけだった。


 まなこが、総てを見下ろしていた。

 ソレは夜空を覆い尽くし、位置する在処すら理解できぬ測り知れないスケールで、雲が払われた暗綠あんりょくそら黝晃くろびかりする太陽すらも前方にあることから、長径はどんな星も凌駕しているだろう。

 頂点捕食者ですら足元にも及ばない存在。食物連鎖の外側、“何処か名も識れぬ奈落の絶頂、或いは熾天してん真底しんそこを泳ぎ、兆乗なる森羅を嘲笑うモノ”。

 仮称“妖鬼”――世界が一つ潰えたところで視界の端にも映らないだろう。ソレがどうしてこんな処に?

 其の瞳は憤怒の色に燃えている。ちっぽけな世界の何かが、此の存在の逆鱗に触れたようだ。


 掛け離れた天上の領域より、五本の指を持つ人間の手のようなものが現れ、僕たちの目の前にいる魔獣を掴み上げた。矮小な下等生物の叫喚は、無間の獄炎に焼かれる罪人のようで、“死”は決して恐怖の最高などではなく、より深淵なる破滅が宇宙には内包されていると知る。


Я空虚を喰らい快楽に耽溺する埃屑風情が。私の愛し仔を返してもらうЯ


 き叫ぶ魔獣の身体が変質し始める。無名の異種金属もしくは貴石のような、光沢の無い漆黒の物質へと固められていく。一厘たりとも成す術がないまま、恐怖とも苦痛とも表せない筆舌を絶する表情で彫像と化した魔獣を、手は紙屑の様に握り潰した。残骸が堕ちて散らばると、巨大なナニカの気配は消え去り、世界は再び荒れ狂うように動き出す。


 神罰としか言い様のない光景を目にした僕たちは、身に余る衝撃に暫し呆然と立ち尽くし、ついさっきまで勝ち目のない脅威だったモノの成れ果てを見つめた。そこに、一つの人影が目に入る。

 壮麗なる煌きを帯びた白銀の外套を纏った女。魔獣の歪な死骸へと歩み寄っていく。

 残骸の表面には無数の眼球が出現し、混乱するようにギョロギョロと蠢いている。そんな破片の一つに、先程捕食された少女の顔が浮かび上がる。


Аママ...こっち!А


 彼女が呼びかけると、外套の女は彼女の許へと駆け付けた。破片に手を突き入れると、その中から少女の身体が引っ張り出される。女は少女を強く抱きしめ、少女もまた抱擁を返した。


Яかった...無事で、本当にЯ


Аごめんねママ。もう夜遊びなんてしないから許してА


Я可哀そうな我が仔。怖かったでしょう、痛かったでしょう。帰ったら甘美な菓子を喰らいましょうねЯ


Аやった!それは愉しそうな夜食ね。血の味はもう懲り懲りだからА


 女と少女は手を繋ぎ、狂気と破壊の嵐が吹き荒れる闇夜の奥へと去って行く。


Яもう無茶なことはしないでね。貴女が大人になったら、至上の傑作を食べさせてくれるのでしょう。楽しみにしているのだからЯ


Аええ、夢みたいに甘ったるく作ってあげる。貴女の顔もきっと緩めてみせるんだからА


 二人の姿が見えなくなって、ようやく僕たちは我に返った。

 一つの脅威が消えたが、また新たな脅威が現れる。生き返ったのは少女だけではない。魔獣の残骸から多様な姿の魔物たちが這い出して来る。かつて捕食され、異常な生命力故に消化されることなく体内で生き続けていたモノたちだ。その数は数十にも及ぶ。


「この数を相手に時間を稼ぐのは無理があるな」


「ええ。分かっていますので黙ってください。今考えてますから」


「指揮も役立たん状況とは言え、死に急ぐことをするな。俺が最後まで上官の役を果たす」


 隊長の言葉を受けつつも、判断を投げて思考を止める訳にはいかない。どうしたものかと全霊で頭を回していると、都合の良い事態に気が付いた。

 魔物たちが襲い掛かってこないのだ。皆身体の震えが止まらないでいる。自分たちを取り込んだ魔獣と共に、遥か格上の上位存在に掴み上げられた恐慌の余韻と闘っているのだろう。今なら逃げられる。


「奇しくも旨い状況です。隊長、ご指示を!」


 逃走の指令を求めた、直後のことだった。先端が二つに分かれた太い舌が高速で接近し、動けずにいた魔物たちの何体かが捕らえられる。残りは震える身体に鞭打って逃げ出し、次なる捕食者の前には僕たちだけが残された。

 折角魔獣の腹から出られたというのに、また別の腹へと移されていく憐れな魔物たちを眺める。彼らを呑み込んだのは、背にびっしりと棘を持った、小さな山程もある芋虫のような生物だった。脅威の程はどうか。“死肉達磨”より強く、僕の実力で1秒保つかどうかの難敵であることを危機管理の知覚で測り取った。くそ、現実的な案が浮かばない。

 好都合から一転、状況は最悪を通り越して悪化していく。


 地響きと共に、血煙の奥から沢山の影が向かって来た。


「そんな...」


 思わず、捨てた感情であるはずの絶望が声となって表出していた。

 この芋虫擬きは、上位捕食者などではない。身を護るために“群れ”を成す、中級の消費者に過ぎないのだ。

 姿を現したのは数百体の同一の魔獣。僕たちの前で止まり、残忍な知性を感じる目で見下ろしている。

 できることが何もなくなり、僕も――ようやくの諦めがついた。


「ハイラム大尉、命令だ」


 凛とした隊長の声に、意識が死の淵から地獄へと引き戻される。


「もう少しだけでいい。逃げ回れ」


 そう言った隊長は、僕を強く突き飛ばした。

 身体が地面を転がった末、仲間たちの方へ目を向ける。そこに彼らの姿はなく、灰色によどんだ粘液のプールがあった。浮かんでいる襤褸ぼろのような白い物体が何かは明白だ。僕もすぐに同じ末路を辿るだろう。


「ははっ。少しは綺麗にくたばることができそうじゃねえか。俺も、お前も」


 僕の傍に隊長が倒れていた。脚を酸に焼かれており、見るも無残な有様で。

 奴らにとって、これは遊びだ。人間が小動物を殺すような邪悪な意思、それを種族共通の性質として持っているらしい。これから魔獣の慰み者となって死ぬというのに、何が綺麗だというのだろう?僕は隊長を非難せずにはいられない。


「どうして僕みたいな雑兵ぞうひょうを庇ったんですか!貴方が唯一の希望だったのに」


「いいや。希望はお前だよ、若造」


 隊長は何かのスイッチと、小袋を僕に手渡した。


「それを押せば本部まで転移できる。“ガラクタ”を“朧月おぼろづき”へ送り届けるんだ」


「...っ。そんな物があるなら、隊長が使うべきです」


「余裕があれば、“小惑星”へ向かうといい。可能性はかなり低いが、あわよくば乗り込めるかもしれないぜ」


 どういうことだ?隊長は何を考えている。最も任務に貢献した身でありながら、自分が生存する可能性と権利を捨てるなんて。

 困惑する僕に、隊長は話し始めた。


「俺はな、このイカレた滅亡に乗じて眠ると決めてんだ」


「上官として、生きて帰る気はないという覚悟ですね」


「いいや。こういう機会でもなきゃ死ねないからだよ」


 脚の肉が溶解しているにも関わらず、隊長は軽々と立ち上がった。損傷が有り得ない速度で回復していく。特上の薬品を使えば身体の再生は可能だが、衣服まで一緒に修復されていくのは生化学的な範疇を超えている。


「任務の仕上げは部隊の誰かに任せるつもりだった。最後まで生き残った奴か、或いは、死を確信して尚折れないタフな野郎にな。仕事を肝心なところで放棄するなんて軍人として恥ずかしい限りだが、俺はどうしても死に損ないたくないし、他人に微かな希望を譲る必要があったんだ」


「隊長...その脚は...」


А不思議だろ、化け物の身体はА


 自嘲するように隊長は笑う。既に脚は傷一つなく元通りになっていた。


「否、違うな。俺は境界の向こうへ片足を突っ込み、ヒトにも魔物にも成り切れない惨めな半端モノに成り果てた。“彼方あちら側”へは絶対に行きたくない。この地獄ならば、俺を眠らせてくれそうだ」


 隊長はとても強い人だ。だが、ヒトとしては強すぎたのだろう。天才故に、辿り着いてはいけない境地へと達してしまったのかもしれない。

 意志は分かったし、隊長を押し潰す恐怖を慰めることは到底できなかった。僕は敬礼し、隊長の死を祝福する。


「後のことはお任せを。どうか安らかに逝ってください」


「さっさと行け。奴らは何時までも待ってはくれないぞ」


 魔獣たちは静かに僕たちを見つめている。無抵抗の生き物を殺しても楽しくないのだろう。だが、長話が過ぎれば流石に苛立って襲い掛かってくるかもしれない。

 隊長は銃から剣に持ち替え、悠然と歩いて行く。


「さようなら」


「じゃあな」


 挨拶を交わし、スイッチを押す。最後に見えた光景は、一瞬の内に標的へと斬り掛かった隊長と、血飛沫を上げて咆える魔獣の姿だった。


            ▼  ▼  ▼  ▼  ▼


「お帰りなさいませ、ハイラム大尉。生成物プロダクトは回収できましたか?」


 本部に帰還した僕を出迎えたのは、不気味な程に無垢な微笑みを浮かべた少年だった。

 生まれながらに自意識を剝奪され、特定の作業を処理するだけの人形。“瓶詰めの生命ホムンクルス”の一種で、この個体は“朧月”へのアクセスを担当している。


「4つの“ガラクタ”がこの中に。“流れ星”への積載をよろしく頼みます」


「御苦労でした。貴方の任務は完了となります。後はご自由になさってください」


 小袋を渡し、あっさりと言い渡されたのは、“用は済んだから好きに死ね”という許可だった。恵まれたことではある。他の隊員たちの死に様は隊長以外、悲惨と言わざるを得ないものだったから。あの惨劇も、この世界共々忘れ去られるのだろうか。


「あの...人類の滅亡って、どこまで詳細に記録されるのでしょうか?」


「概要のみの記述となります。“流れ星”データバンクへの書き込みには時間がかかる上、容易ならざる作業であるため、余分な情報は削ぎ落さなくてはなりません」


 膝を付く絶望も、命を振り絞る勇気も、全てを“余分”と切り捨てた少年に怒りが湧いたが、すぐに呑み込んだ。彼はプログラムされた通りに応答しているだけだ。悪いのは、彼らから一切の意思と感情、そして未来を奪った、非人道的と言わざるを得ない所業だろう。

 任務は終わったが、僕は生きるために、まだ足掻くつもりだ。急がなければいけない。


「貴方も、どうか安らかな最期を」


 ことほぎの言葉を少年に手向け、僕は駆け出した。

 出口を目指して廊下を走っていると、所々で最後の仕事を終えたらしき職員たちがくつろいで過ごしているのが見えた。思い出や家族について語り合っている者もいれば、背景音楽を流して読書に耽る者など、各々好きに世界の終わりを堪能している。


「おーいハイラム君、少し話を聞いて行ってはくれないか」


 その中に見知った顔があった。声を掛けられ、正直焦れったい。だが無視する訳にはいかない。彼女には少なからず世話になったから。


「何です少将?手短にお願いしますね」


 彼女はカフェテリアで紅茶を啜っていた。テーブルには沢山の皿が積まれている。そりゃあ死ぬ前に楽しいことをするのは分かるけど、ここまで食欲が湧くのは肝が据わってると思う。


「急いでいるところすまないね。一言警告があるんだ。外は...ヤバいぞ」


 どうやら言葉にできないレベルで大変な状況らしい。ということは、やはり文明圏は既に壊滅しているのか。ならばこの場所も、間もなく潰れるだろう。


「地獄なんて、もう散々味わいましたよ」


「そんな諦観も、果たして君を守ってくれるかな。果てしない弱肉強食の奈落だ。その中に躍り出てまで、生き残りたいと思っているのか?」


「ええ。自分だけではそんなに強い意志は持てませんが、背中を押してくれる人がいましたから」


 少将は手に持ったティーカップに目を落とし、少し陰った顔をする。


「私はこのまま茶をきっして、優雅に滅びたいと思っている。守りたい人の一人でもいれば、無様でも生き永らえることができたかもしれないが」


 彼女は立ち上がり、僕の手を取った。


「足を止めさせた責任は取ろう。今すぐ外に飛ばしてやる」


 飛ばす、というのは空間跳躍のことだろう。人間の異才で為すものとしては高度な部類だ。


「本当にいいんだな?」


「鼠みたいに逃げ回ってみせますよ」


 一瞬の眩暈めまいの後、外へ出現した僕は、人類の棲み処が魔境に呑まれたことを理解した。

 言葉を失うしかなかった。寧ろ、この光景を描写できる人がいるだろうか。


 濃く重い闇が、物質的事物として洪水のように都市を覆って流れている。それを照らすのは摩天楼ではなく、瓦礫の上で踊る銀色の炎。

 海月の傘のような体幹に節足と毛の生えた触手を持つ魔獣が、触れた物全てを金塊に変えながら闊歩している。

 上空では、頭に二対の翼を持つ少年少女たちが、異界の讃美歌を謡い上げ、血に濡れた指で空に邪淫な紋様を描いている。

 腐蝕し膨れた肉塊の飛行船に乗った道化師が、リボンの巻かれた箱を地上へ投下し、その中からは哺乳類の臓器をそれぞれ奇形の怪物に変えた様なモノが生まれ出る。

 宙を飛ぶ巨大な皿、フォークとナイフ。フォークが獲物を串刺して捕らえ、皿の上でナイフが切り分け、肉が虚空へ運ばれると、そこに何者かの口があるかのように消失した。

 周囲に七色の光輪を展開した青年が笑い転げている。笑い声は拡大され、核兵器でも落ちたような轟音、衝撃となり、辺り一帯を塵の山へと変えた。

 最も強大な存在感を放つモノは、地平線の先に佇んでいた。山脈程の巨躯、赫い肌の馬だ。頭部には目、鼻、口が無いが、かおは別の位置にある。なびたてがみに幾万幾億と浮かび上がる三点の影。目と口の様に見えるそれが貌であるようだ。世界を蹂躙し繰り広げられる惨禍すら蔑む様に嗤っている。アレがこの“刻限”の頂点捕食者なのだろうか?或いは、それに準じた存在か。


 この混沌を突っ切って、“小惑星”を目指さないといけないなんて、悪夢と言うにも温い無茶だ。


「では、精々駆けずれ!」


 僕の肩をポンポンと叩き、少将は戻って行った。

 “小惑星”が発進していないとして、全力疾走すれば何時間もかかるような距離ではない。空間さえ壊れているならその限りではないけれど。そうだな、百万に一つくらいの可能性はあるんじゃないか。

 この状況下で考えて意味を成すことは少ない。ポケットから一粒のカプセルを取り出し、嚥下えんげする。最後の最後まで取っておけと言われて渡された手段だった。使った以上、後の激烈な副作用を覚悟しておかなければならない。

すぐに効果は表れた。人類が忘れ去った自然の本能が剥き出しになり、知覚能力が拡張、底を尽きかけていた体力が疑似的に回復し、身体能力も増強される。後は、走るだけだ。


 瓦礫の山の中に躍り出ると、早速魔物に襲われ、否、遭遇した。僕如き鼠に態々襲い掛かる猛獣がどれだけいるか。

 大砲や機関銃など重火器で埋め尽くされた、戦車のように物々しいそりが突進してくる。雪で形作られる、ペンギンに似た四足の魔獣によってかれ、乗っているのは、頭部が猛禽類の頭蓋骨の様になっている礼服姿の人型。彼の後ろには棺が並べられ、その内のいくつかは激しく揺れ動き、死体を収めているようには見えない。

 薬を飲んでいなければ、轢き殺されていたかもしれなかった。地を蹴って橇を飛び越え、空中宙返りをしながら銃口を人型へ向け、引き金を引く。この銃の威力はグレネードのような爆発物にも匹敵する。人間ならば木っ端微塵だろう。

 ヘッドショットが決まった。だが、頭蓋骨には傷一つ付いていない。“砂利でも飛んだか?” 僕に攻撃されたことにも気付いていない様子でキョトンと首を傾げ、こちらには目もくれず走り去っていった。

 これで、魔物との戦闘は無意味であることが確認できた。まるで格が違う。踏み潰されなかっただけ、我ながらよくやったと思う。


 ――それから半時間程にも渡り、僕は魔境を生き抜くことができていた。魔物との遭遇を避けるため、周辺の気配の察知に全力を注ぐ。幸いにも魔物たちはそれぞれが強い“情報”を放っていたので、そう難しいことではなかった。

 それでも一瞬の油断がいつでも死に直結し得る。もちろん分かっているが、奴らは余りに速く、僕の時間尺度で対応できるとは限らないのだ。

 気が付いた時には、餌として捕捉されていた。多少の力があっても僕は所詮ヒトの身、頭上からの脅威には反応が間に合わない。

 豊かな体毛を持ちかにに近い姿をした節足の魔獣が、倒壊したビルの上から飛び掛かって来た。負傷は避けられないことを理解する。どこまで軽い傷で済ませられる? 場合によっては足搔きもここで絶えてしまう。何とか、肺と心臓だけでも護らねば...


 鮮麗なるうろこと優麗に揺らめくひれを持ったうつぼに似た魔獣が、僕を斬り裂く寸前だった蟹擬きを噛み潰した。

 鱓擬きは、餌を咀嚼しながら、こちらに視線を向ける。


Б我は食事の様を見られることを嫌う。疾くと失せろБ


 口は動いていないのに、声が聞こえる。テレパシー、だろうか?意思疎通できる魔獣もいるのか。だとしたら、訊かずにはいられない。


「まさかとは思うけど、助けてくれたのか?」


Бそうして無駄口を叩いている間にも、貴様の生存率は下がっていく。人類の命は唯一つしかなかろう。その鼓動、血の脈動を無二の宝玉と思えБ


 そう言った彼は、大きな体躯に見合わない素早さで宙を泳ぎ去って行った。

 運が良かった、とは思わなかった。僕はこれまで何度か、窮地を魔物によって助けられたことがある。もちろん善意によるものではない。人類は魔物の前で何時死んでも当然の儚い存在であるが、それは奴らも同じなのだ。僕を脅かすモノが、獲物を仕留める前に、より上位の捕食者によって喰われただけのこと。この魔境に奇跡や運命なんてロマンチックなものは無い。

 でも、あの鱓擬きには僅かながら慈悲と言えるものが感じられた。魔物は脅威で、対話の余地がない存在ばかりだと思っていたが、もしかすると、人類に対して友好的なモノもいるのかもしれないな。

 今はそんな甘く愚かな妄想に浸っている場合ではない。ここまで来たら、何が何でも生き抜いてやる。


 ――後少し...後少しだ。“小惑星”の発進地点が、もう目視できる所にある。

 もし、生存者たちの箱舟が既に飛び去っていたら。乗り込めたとしても、ドーピングが切れた身体がこれまでの負荷に耐えられず絶命するかもしれない。そんなことはどうでも良かった。生きるためにできる限りのことを貫徹する。それだけだ。


 いつの間にか、辺り一面が荘厳なる花畑に変わっていた。この世にある全ての色彩、否、人間には知覚できない彩りまでもを幻視させる花々が粛々と合唱しながら咲き乱れる。

 暖かな日の光。晴れ渡った青空。一呼吸毎に身体を爽快感と官能で満たす大気。世界の全てが僕を慈しんでいる。

 少し先では、純白の儀礼服を着た麗しい若者たちが、花束を手に僕を迎えている。顔のパーツがバラバラに配置されているが、皆が微笑みを浮かべている。ああ、重い足が憎い。早く彼らの群れに加わりたいのに。

 若者たちの後方には、見たことのない奇妙な大樹が聳えている。枝から常に果実を落とし続けており、それらは地に溶け、花々を咲かす養分となる。


 あれ?僕は何処へ向かっていたんだっけ?まあいいか。この楽園以上に至る価値ある目的地なんて無いから。

 母――抱擁――子守歌――慰撫――揺蕩い――眠り――交接し――贄となろう。

 “我らが大母の盡きざる糧の為に”


ДしっかりしろやマザコンД


 誰かのてのひらが僕の頬を張った。微かな痛みであるのに、頭の中の霧が吹き飛ぶ。ここは何処だ?あの樹は一体...分からないが、あんなモノは僕の母親などではないとだけ言える。

 逆様の顔が僕を嗤っていた。妖麗な美青年、否、女性だろうか?フリルの付いた赤と白のブラウスに、ショートパンツ、頭には錆び付いた鉄屑を冠し、棘のある草で編まれたアームレットが皮膚に食い込んでいる。宙から下がる鎖が片足に結ばれて逆さ吊りになっており、足を組んだ体勢は占術札における“吊るされた男”と同じで、何らかの罰を思わせる姿だった。


Д困った状況だな人類の紳士よ。俺が止めに入らなきゃ、君は九割方死んでいたД


 ヒューマノイドとの会話に特有の恐怖に襲われる。相手のことは何も分からないのに、自分のことは内心や一生涯の記憶までもを見透かされているような感覚だ。


Д一割の希望があれば十分だとか思ってる?じゃあもっと悪い話をしよう。小さな箱舟はついさっき発進したよ。最早君が生き残れる可能性は事実上、零だД


 ああ、そうかよ。知ったことか。1秒でも長く生きるんだ。そこまでやればこの魔境にだって、奇跡の一つくらい落ちてくるかもしれないだろ。


「百万に一つでも可能性があるなら、僕は諦めないね」


Д気が壊れたか。その意思は滅亡の絵図によく映えて、素敵だД


 青年は僕を愛でるように、頬に指を這わせた。


Д気に入った。俺がその“可能性”になってやるよД


 僕から視線を外した青年は、花畑の彼方で厳かに屹立きつりつする大樹へと臨み、小さく息を吐いた。

 蝋燭の火を吹き消すような静かな吐息。それが狂焔きょうえんとなり、花々のア・カペラで飽和した楽園を焼き尽くしていく。植物が火に勝てる筈もなく、この空間の主である大樹もまた灼熱に呑まれ、断末魔の様な轟きを放ちながら焼け落ちて行った。

 再び世界が闇に包まれる。蜃気楼の様な天国から、どうしようもない現実の地獄へと帰って来たようだ。上等、生きているだけ良しとしよう。


Д俺はバラルサゴイと言う。君は?Д


「ハイラムだ」


Дそれじゃあハイラム。ヒトとしての平穏なんてものを、最期の一瞬まで全部捨てて、“此方こちら側”に来る気はない?Д


 何を言うかと思えば、話を飛ばし過ぎだと思った。沈黙して説明を促す。


Д君を助けたのは、善意じゃない。役立つ手札として回収するためだД


「手札とは、よく分からないな。あんたみたいな上位存在が、ヒトの力を必要とするのか?」


Дもちろん今のままでは話にならない。“此方側”で生きる為に、ヒトの身を超えてもらう。俺が丹精込めて鍛えてやるよД


 ヒトと“そうじゃないモノ”の境界を越えるということか?それは隊長が最も恐れていたことだ。そんな道を選ぶくらいなら、いっそ死んだ方が賢明なのではないか。


Д君は稀有な原石だ。磨き上げることはさぞ快感だろうД


「其方は恐ろしく残酷なところなんだろう?」


Дああ。俺がこれまで経験してきた苦痛を少し伝えただけでも、君の精神は崩壊を免れないだろうな。君も酷い目に遭うことだろうが、それに耐える強さを獲得すれば問題ない。家具の角に小指をぶつけたくらいにしか思わなくなるさД


「耐え難いことだな」


 軽口を叩きながらも、一つ拭えない問題を考えていた。

 魔物になって“ヒトの心”を失ったら、僕をこれまで襲った奴らと同じ、他の命を糧や慰み物とすることを厭わない悪食に成り果てるのでは?

 ――隊長、貴方が繋いでくれた命を穢したくはありません。


「降りるよ。もうお休みの時間だ」


 青年は少し拍子抜けしたような顔をした。


「可能性に追い縋っていたじゃないか」


「希望を見誤る程乱心しちゃいないよ」


 生き残れなかったのは、特に悔しくはない。ただよく頑張ったと、自分を褒めてあげたい。


「あんたに少しでも親切心があるなら、一息に眠らせてはくれないか」


「...惜しいことだが、君の選択であれば仕方あるまい」


 青年が軽く指を振るうと、僕の身体は炎に包み込まれた。痛みはなく、疲れ果てた身体が火葬されていく感覚は心地良くて、何よりこの上ない解放感があった。

 やっと、壊れた世界から消え失せることができる。この結果はバッドエンド以外の何物でもないだろう。でも、最期の瞬間まで僕は信じていた。

 人類は決して無為な存在なんかじゃない。何処かに人間のシアワセがある筈だ。魔物の居ない平穏な在り処を見つけなければならない。願わくば、そんな星で息絶えたかったな。


 満天の星空、仄かに照らす月――魑魅魍魎ちみもうりょうの無い静かな夜。

 今際いまわの優しい幻覚に夢を見ながら、僕と言うちっぽけな命は死滅した。

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