第20話 ジェシカ・ランドール中尉

 死んでいる。

 最初に見たときはそう思ったが、駆け寄って確かめた。

 顔は青ざめ、ピクリともしない。剥き出しの頸部に指を触れると、まだ温かかった。脈も感じられる。

 体温を失い脈も弱かったが、生きている。


 霧香はナップサックを側らに降ろし、緊急医療パックの封を開けた。

 気付け薬のアンプルを一本注射して、次に簡易治療パッドを取り出した。白い布製パッドの片隅にインジケーターのコードを差し込み、診断モードにセットしてランドール中尉の手首に巻き付けると、一分ほどで結果が分かった。

 霧香はタコムのホロ画面に映し出された診断結果をあらためた。


 右大腿部骨折。肋骨二本単純骨折、脳震盪、脱水症状。


 なるほど、右足のブーツが硬化していた。骨折したので応急処置モードになっているのだ。

 できるだけ慎重にランドール中尉のGPDブーツを脱がすと、彼女がかすかに呻いた。しかし目は覚まさなかった。いちばんひどいダメージを負った箇所にもう一個の簡易治療パッドをあてがって、集中治療モードにセットすると、ストラップとそのへんの枝や剥がれた木の皮を掻き集めて簡単なギプス代わりに太腿に巻き付けた。

 それから折りたたみバケツを掴んで先ほどの川に駆け戻った。浄化処置した水を温めた。

 テントを張り、ランドール中尉の身体を抱え上げてテントの中に運んだ。今度も彼女は呻き声を上げ、ついでかすれ声で呟いた。

 「痛い……」

 「ランドール中尉、もうだいじょうぶですよ、喉が渇いてます?」努めて平静な声で語りかけた。

 「……うん……」

 テントに横たえて保温シートをかけ、上半身を支えながらひび割れた口元に水筒をあてがった。

 「落ち着いて」

 ゆっくり水筒を傾け、口の中を湿らせた。ランドールは弱々しく片手を上げ、水筒をもっと傾けようとした。霧香はその手を取って水筒にあてがい支えた。彼女は長い時間をかけて水筒に残っていた半分ほどをすべて飲み干した。

 「水はたっぷりありますから。食べ物もありますよ。その前にまず飴をなめてください」

 ランドールの口にエメラルドブルーとレッドの飴玉を差し込んだ。彼女は素直に舐め始めた。ひとつは塩の錠剤で、もうひとつはブドウ糖と栄養剤、それに抗生物質の塊である。

 彼女のコスモストリングの襟にタコムのソケットを取り付け、解除コマンドを打ち込んだ。

 コスモストリングはふつう着ている本人しか脱がせられないのだ。彼女の胃袋がいくらか回復するまでのあいだに、汚れた身体をできるだけ拭った。

 それが終わるとほかに為すべきことは思いつかなかった。ふたたび保温シートをランドールの体にかけた。


 しばらくすると、彼女はだいぶましになってきた。眠っている。

 霧香はようやくひと心地つくと、容体に注意しながら自分用のコーヒーをつくり、コンロを挟んでテントの向かい側に腰を下ろした。ランタンの素朴なともしびとコーヒーの香りがひどく心を落ち着かせる。

 任官以来ようやく仕事をした実感を味わった。


 二時間もするとランドール中尉は復活祭シーズンを迎え、血色の戻った顔に汗をかき始めた。

 簡易治療パッドが効果を現し始めたのだが、痛めつけられた身体の毒素をナノユニットが攻撃しているあいだはけっこう辛いのだ。

 霧香には応急処置の心得しかなかったので、タコムを通して伝えられる簡易医療パッドの情報と指示に従うしかない。

 その結果ランドールのこめかみや腕にチューブがいくつも取り付けられ、見た目だけは治療中の重症患者らしくなっていた。

 煮沸した上にさらにフィルターで濾過した蒸留水で生理食塩水を作り、水分不足の肉体に点滴した。脱水症状、熱、ショック症状、感染症、血栓、敗血症の兆候に注視すべし。

 赤血球にエネルギーが注入され、造血作用が促される。損傷した組織は簡易治療パッドの中に収められている代替組織と交換される。骨も急激な細胞活性で治癒されるため、痛みを取り除かれても肉体の負担は相当きつい。

 よい知らせと言えるのは単純骨折だったことと彼女が健康体だったことぐらいだ。三日以上治療せずにいたので骨折部分の筋肉組織がだいぶダメージを受けていたが太い血管は損傷しておらず、神経にも異常はない。

 それでも救出の望みもなく絶え間ない激痛に苛まれていた時間から解放されたランドール中尉は、夜中には見るからに元気になった。

 まだ憔悴して顔は汗にまみれ、眼のしたに隈ができているが、空腹を訴えるほど快復している。目を覚まして温めたレーションのシチューを平らげ、再び水を大量に飲んだ。


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