『月下の決闘(三)』

 ————数年振りに交わった白虎びゃっこ青龍せいりゅうの闘いは熾烈しれつを極めるものだった。先の一戦も一歩間違えれば命に届くという苛烈かれつなものではあったが、飽くまでも試合というていで行われていたということもあり、この月下の決闘とは比ぶべくもない。

 

 一方が腕を振るうごとに一方の肉体が確実にむしばまれていくが、それでも二人は痛覚が麻痺しているかの如く手を止めない。それもその筈、この決闘の勝者が得られるものは愛する女の微笑みだけではない。おのれが認めた好敵手に勝利したという最高の美酒が懸かっているのである。二人は薄っすらと笑みを浮かべながら必殺の手を延々と繰り出していた。

 

 二人の男に同時に愛された凰珠オウジュは悲痛の表情でこの決闘を見つめていた。愛する男たちの肉体に傷が増えるたびに自らも傷つく思いなのである。二人分の傷を受けるその心の痛みたるや、神仙でさえ計り知ることは出来ないであろう。

 

 凰珠の瞳から一筋の涙が流れる。無論、心痛によるものではない。悔恨の涙である。決闘の前にどちらかを選んでさえいれば、愛する男たちが殺し合いにまで発展することはなかったかも知れない。

 

 しかし、もう遅い。さいは投げられたのだ。若き二人の天才武術家は眼前の相手に勝利したいという欲に取り憑かれてしまった。この熱を冷ますには対手の返り血を浴び、断末魔の声を聞くしかすべはない。

 

 凰珠はこの期に及んでもどちらかの男を選ぶことの出来ない自分の弱さに憤慨し、流れ落ちる涙はあかいものに変わっていった————。

 

 

 

 ————真円を描いていた月が欠け始めても成虎セイコ志龍シリュウの闘いは続いていた。

 

 超一流の武術家である彼らが呼吸を大きく乱し、おびただしい量の血と汗が足元に水溜まりを産んでいる。二人は互いの状態から、この決闘の終焉の瞬間ときが間近に迫っていることを感じ取った。

 

 肩を弾ませる二人は深呼吸して丹田に僅かに残った真氣を集めに掛かった。乱れていた呼吸が落ち着いていくと同時に、それぞれの拳と剣が淡い光を帯び始める。この記録に残らない稀代の一戦は次の一手で決着がつくのである。

 

 残り僅かな力をかき集めるために間合いを空けていた成虎と志龍は最後の攻防のためにジリジリとにじり寄る。互いの距離が縮まり、一足飛びで対手の身体からだに手が届くというところで二人の足が止まった。

 

 最後の攻防に臨む二人の顔つきは正反対なものであった。

 

 眉根を寄せて苦しげに歯を食いしばっている成虎に対し、かたや志龍は達観したような朗らかな表情を浮かべている。この両極端な表情の下に隠されている心情は彼ら自身にしか分からないだろう。

 

 成虎と志龍は眼を合わせて示し合わせるようにうなずくと、同時に地面を蹴って最後の技を繰り出した————。

 

 

 ————次の瞬間、志龍の眼には鮮やかなあかい衣が、そして成虎の眼には愛する女の顔が映り、それぞれの剣と拳は縫い付けられたように宙で止まった。

 

 

 両腕を広げて背中で志龍をかばう凰珠の眼が全てを物語っていた。全てを悟った成虎はいて精一杯の祝福の笑みを浮かべると、拳を収めて二人に背を向け去っていった。

 

 凰珠は涙顔のまま、去りゆく成虎の大きな背中に感謝するように何度も叩頭してみせる。やがて成虎の姿が見えなくなると、ゆっくり立ち上がり振り返った。その視線の先には真に愛する男の姿があった。

 

 茫然とした顔でたたずむ志龍を包み込むように凰珠は優しく抱擁する。この時、凰珠の脳内では愛する夫との幸せな暮らしが幻となって描かれ、悲しみで冷え切っていた胸は火に当たっているかの如くポカポカと温かみを帯びていた。

 

 ————しかし、この時の凰珠には想像も及ばなかった。愛する女に背中でかばわれた男の心の傷の深さがいかばかりかということを…………。

 そして、この傷はしこりとなって志龍と凰珠、二人の人生に暗い影を落とすことになる————。

 

 

 

 ————月餅湖げっぺいこを後にした成虎はフラフラとした足取りで宛てもなく森の中を彷徨さまよっていた。

 

 死人しびとのような青白さのその顔には何の表情も浮かんでいない。眼はうつろで焦点は合っておらず、口は半開きで赤子のようによだれが垂れているという、武術家にあるまじき無様な姿であった。

 

 

 ————あのまま続けていりゃあ、俺は志龍に勝ってたのかも知れねえ…………。

 

 

 成虎の身体からだから流れ落ちる鮮血が道標みちしるべのように点々と続いていく。

 

 

 ————だが、それがなんだってんだ……? 俺は結局『アイツ』に二度も負けちまった…………。

 

 

 生涯二度目の敗北の味はあまりにも苦く、止まった血液の代わりに今度は涙が道標となった。

 

 成虎は頼りなく歩きながら、初めて凰珠に会った時のことを思い返していた。あの時は空腹のあまり湖面に浮かんだ満月を月餅と思い込んで手を伸ばしたが、いくら試みても手中に収めることは出来なかった、

 

 

 ————喉から手が出るほど欲しいモンってのは、やっぱり手に入らねえモンなんだなあ…………。

 

 

 才能溢れる成虎は、子供の頃から望まずとも欲しいモノが向こうからやって来ていた。カネ情婦おんな・悪友・強運・頭脳・手先の器用さ・強靭な肉体・武術の腕など数え上げればキリがない。

 

 しかし、心の底から望んだモノはことごとくその手からすり抜けていってしまうのである。幼い頃、病に倒れた母のために毎日神仏に祈っていたが、遂に祈りは実らず母は若くして帰らぬ人となった。そして、初めて愛した女さえも————。

 

 

 ————俺が本当にほっしてるモンは、全部この手からこぼれ落ちていきやがる…………。

 

 

 ふと気付くと、視線の先に見知った女の姿があった。笑みを浮かべているような、いないような何とも言えない表情の太鳳タイホウである。

 

 太鳳は何も言わずにゆっくりと両腕を広げた。それは親鳥が自らの羽で我が子を優しく包み込むような愛情に溢れた動きであった。

 

 この姿を眼にした成虎は引き寄せられるように近づき、太鳳の肉体からだを無我夢中で掻き抱いた。

 

 

 ————相手は誰でもよかった。ただただ眼の前の瑞々しい肉体に、独りではとても抱え切れない悲しみを、やり場のない悔しさを獣欲のままにぶつけたかった————。

 

 

 

 ————夜が明けた頃、成虎は頬を舐められる感触で眼を覚ました。

 

 眼を開けた先には心配そうな表情で固まった血液を落としてくれている愛馬の姿があった。

 

 頭がハッキリとしてくると、まず感じたのは全身の痛みと耐え難い渇きである。次いで右手に何かの感触を覚え見てみると、水の入った竹筒が握られていた。震える手で栓を抜き、寝転んだまま顔に清水をぶち撒ける。

 

 一心地ついた成虎は痛む身体に鞭打って半身を起こした。辺りを見回してみたが、水筒を持たせてくれたであろう太鳳の姿は見えない。

 

「……義兄アニキと、将角ショウカクと酒が呑みてえなあ…………」

 

 ポツリとつぶやいた成虎はヨロヨロと立ち上がると、馬にまたがり西へと進路を取った。


 ———— 第十五章に続く ————

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