第二章

『湖での出会い(一)』

 興安こうあん城市まちを後にした成虎セイコの足取りは軽かった。何しろ産まれてこの方、故郷を出たことが無かったのである。踏みしめる土の感触や鼻腔を刺激する澄んだ空気、耳に心地良い小鳥のさえずりなど、ありふれたもの全てが新鮮に感じられた。

 

「————さーて、カク成虎改め、ガク成虎くんは何処どこに行きましょうかねえ」

 

 晴天を仰ぎながらく先を思案していると、脳裏に亡き父の言葉が蘇って来る。

 

『お前にこの城市まちは狭すぎる。『おり』から出て自由に生きろ』

 

 父・郭功カクコウの最期の言葉を思い出した成虎はニッと白い歯を見せた。

 

「よーし、皇帝サマの家に忍び込んで『岳成虎、参上』と落書きでもしてやっか!」

 

 皇帝が住まう皇居は、神州しんしゅうの中央に位置する黄州こうしゅうの州都・黄京こうけいにある。思い立った成虎は黄州へと足を向けた。

 

 

 

 ————黄京へ向けて歩を進めた成虎だったが、北に景勝地があると聞けば北に折れ、南に珍しい妖怪が出ると耳にすれば南に進路を変えて、一向に黄京に到着する気配が無かった。

 

 白州・紅州間の街道をゆったりと進んでいると、道端で粗末な卓と席に腰掛けた老人の姿が眼に入った。ボロボロで薄汚れてはいるが、その出で立ちを見るにどうやら老人は易者のようである。興味をそそられた成虎は今にも崩れ落ちそうな頼りない席にドッカと座り込んだ。

 

「よお、爺さん。占い師ってやつか? こんなトコで客なんか来んのかい?」

 

 うつらうつらとしていた老人は成虎の声にゆっくりと眼を開け、次いで更にゆっくりと口を開いた。

 

「……ええ、来ますとも。現に今日の初めてのお客が来ました」

 

 老人の返答に成虎は豪快に笑い飛ばす。

 

「ハハ! ちげえねえ! 面白え爺さんだな。そんじゃ、いっちょ俺の行く末を占ってくれよ」

「構いませんよ。お代をいただけるのでしたら……」

「おう、悪い悪い」

 

 成虎が妖怪退治で得た報酬から代金を卓に置くと、老人は眼にも止まらぬ速さで引ったくった。先ほどまで寝ぼけていた老人と同一人物とは思えないほどの所作である。

 

「……なになに、ふむふむ……。これは…………」

 

 老人は筮竹ぜいちくを殊更にわざとらしくジャラジャラと鳴らしながらモゴモゴとつぶやく。普通の者であれば大丈夫かと声を掛けそうなものだが、成虎は面白がって止めない。

 

「————出ました! あなたは『月餅湖げっぺいこ』で運命的な出会いを果たすでしょう!」

 

 眼を見開き声を張った老人とは対照的に、成虎はキョトンとした面持ちである。

 

「何でえ? そのゲッペイコってのは?」

「月餅湖とは、紅州にある神州最大の湖ですな。景勝地としても有名です」

「ふうん。月餅湖ってのは随分変わった名前だなあ。なんか由来はあんのかい?」

「聞くところによると、満月の夜に湖面に映るまん丸お月さんが月餅に見えるからとか何とか……」

「へーえ、そりゃなかなか雅じゃねえか」

 

 言いながら成虎は席を立つ。

 

「訊かないのですかな。運命的な出会いについては?」

「行けば分かるだろい。俺は楽しみは後に取っとく派なんだ」

「そうですか。それでは迷わず進まれよ……」

「おう、爺さんも商売頑張れよ」

 

 成虎は後ろ手に手を振って歩き出した。

 

 

 

 ————二週間後、満月が夜空に登る頃、成虎はようやく月餅湖に辿り着いた。

 

「…………アレが、月餅湖か……。ようやく着いたぜ……!」

 

 成虎は満足そうに笑うと、湖のほとりにバッタリと倒れ込んだ。続いて顔を豪快に湖面へ押し付けて湖水を喉に流し込んでいく。

 

 素直に街道を行けば一週間ほどで到着する道のりだったが、相も変わらず寄り道ばかりする上に、ある重大な事実が判明したのである。

 

「……俺って、もしかして方向音痴なのか……?」

 

 道中で妖怪を退治して得た報酬は、途中のまちでメシ・酒・女・博打でとっくに使い果たしており、ここ三日ほどは何も口にしていない。たらふく湖水を飲んで喉の渇きはうるおせたものの、腹の虫は一向に治まる気配がない。

 

「……確かに、まん丸な月餅が美味うまそうに浮かんでらあ……」

 

 成虎の霞む視界には、大きな月餅がボンヤリと浮かんでいる。それを掴もうと震える手を目一杯伸ばしてみるが、何度試みても手中に収めることは出来なかった。

 

 成虎は乾いた笑みを浮かべて仰向けにひっくり返った。

 

「……喉から手が出るほど欲しいモンってのは、手に入らねえモンなんだな…………」

 

 自虐的につぶやいた成虎は静かに眼を閉じた。このまま眠りに落ちようかと考えた時、不意に今まで嗅いだことのない芳香が鼻腔をくすぐった。次いで、柔らかな感触の何かが口元に触れた。

 

 眼を見開いた成虎は上半身をガバッと起こして、何も考えずにソレを口の中に押し込んだ。無我夢中で咀嚼すると口中に甘美な味が広がり、尽きかけた活力が僅かながら戻ってきた。その時————、

 

「————そんなに慌てて食べなくても、誰も取らないわよ?」

 

 鳳凰のさえずりのような澄んだ声音が成虎の耳朶じだを打った。

 

 声のした方へ成虎が振り向くと、いつの間に現れたものか、一羽の鳳凰が微笑を浮かべてたたずんでいるのが眼に映った。

 

「それほど気に入ってくれたのなら、もっと食べる?」

 

 豆鉄砲を食らった鳩のような表情で眼をこする成虎に対し、鳳凰————女は手巾に包まれた月餅を差し出しながらささやいた。

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