第36話 (終) 夏空のレイ


 雨でもだいじょうぶな場所、と言って決めた水族館だったけど、その日はすかーんと晴れわたった。なんだか早く梅雨が明けたらしい。誘われた側のあおくんがあきれる。


「週間予報見てなかっただろ」

「いいじゃん。こうなると屋内も涼しくてありがてえし」

「よっしー、ジジむさいよっ」


 麻美あさみちゃんが笑って背中を小突いた。

 海のすぐそばの水族館前。空が広くて青くて、夏、て感じ。


 けっきょく男子四人女子三人の幼稚園仲間で出かけたこの土曜日。夏休みはまだだけど、家族連れとカップルでそこそこ混んでいた。

 この水族館は家から一番近い。何年か前にリニューアルしてから私は来たことがなかったのだけど、入館して立ち止まってしまった。

 私、ここ知ってる。


「……撫子、来てたんだな」


 世理くんが小声で言った。私は黙ってうなずく。

 あの水族館にそっくりだった。撫子の想い残りの世界の。

 うっかり息がふるえそうになるのを私は深呼吸してこらえた。後悔がこみ上げる――どうして現実では一緒に来なかったんだろう。


「ほら」


 軽く私をこづいて世理くんがうながしてくれた。


「もうあいつの夢はかなえたから」

「……うん」


 私はくちびるを結んでみんなを追いかける。

 そう、もういいんだ。撫子のことは、もう。




 大水そうには今日もいろいろな魚が泳いでいて、小魚の群れがひるがえるたびにきらめくうろこがきれいだった。よっしーがガラスにくっついているエイとにらめっこして、「それ顔じゃないぞ」とれんくんが冷たく突っ込んだ。

 チンアナゴはヒョコヒョコかわいいのに、やっぱり世理くんはミミズっぽいと言う。それに碧くんまでうなずいて鈴菜すずなちゃんの怒りをかっていた。

 白イルカは知らん顔でおとなしく泳いでいた。この子はもうアクリルガラスを通してイタズラしてきたりはしないんだな。

 カピバラは眠そうに目を細め、動かない。


 私たちは外でソフトクリームを食べ、ショップをのぞいた。これは撫子とはしなかったこと。

 すこしずつ私だけの経験が積みかさなって、私は撫子を過去に置いていく。


「――本日のペンギンパレードは、屋内通路での開催となります」


 館内放送が流れて私と世理くんは視線を合わせた。あの時は外までヨタヨタと歩いてきたペンギンたち。今日は中なんだ。暑いからだろうか。


「マジか。んじゃ戻ろうぜ」

「こっちまで出てくるかと思ったー」


 口々に言ってみんなと引き返す。そんなところも前とは違う。ガランとした三人きりの水族館はとても楽しかったけど、ごめんね撫子、今日も楽しいよ。


「はこべ」


 コソッと私を呼んだ世理くんが、ほら、と何かを渡してきた。


「代わりのヘアピン」


 手のひらにのせられたのは、貝がらの飾りがついたヘアピンだった。今、買ったの?


「いいのに」

「いいから。約束したろ」


 幼稚園の時に私があげたヒマワリのヘアピン。古ぼけてしまっていたけれど、世理くんは魂揺たまゆらの世界でそれを私の髪につけてくれた。

 現実に戻ったらまた渡してねと言ったそれは――こわれていたのだそうだ。

 三月のあの日、もし私に会えたら見せてみようと思って世理くんはポケットに入れて持ってきていた。そして落ちてきた私を受けとめて、ヘアピンはつぶれた。


『私がこわしたってことだよね?』

『まあ、そうとも言う』


 世理くんも退院してやっとそのことを知ったそうで、申し訳なさそうに謝られたんだ。代わりに新しいヘアピンをあげると言われたけど、そんなのよかったのに。でも私は嬉しくなって笑った。


「ありがと。かわいい!」


 パチン、と髪につけると世理くんもすこし照れくさそうに笑った。




 ペンギンは館内でもヨチヨチペタペタと頼りなく歩いていた。ニコニコと誘導する飼育員のお姉さんが、撫子とちょっと似て見える。

 私たちはそのままペンギン水そうに行って、海を飛ぶペンギンたちをながめた。スイスイと、なんて自由なんだろう。


「もう、おぼれるなよ」


 世理くんが隣でそっぽを向いたまま小さく言った。そのにされたことを思い出して私は赤くなる。ううう、あれは実体じゃなかったしギリセーフ!

 そっぽを向き合う私たちの前で、泳ぎ過ぎるペンギンがチラリとこちらを見たような気がした。




「あー、いやされたー」


 外に出て、よっしーが大げさに伸びをする。その肩を麻美ちゃんと鈴菜ちゃんが両側からポンポンとした。


「これで心おきなく夏期講習に行けるね」

「成仏しな」

「おまえら大嫌いだーっ!」


 海辺へと走っていくよっしーを、みんなで笑いながら追う。一番後ろをのんびりついていきながら、私は周りを見まわした。振り返る世理くんに訊いてみる。


「ねえ、撫子は、もういないんだよね」

「ちゃんと見送っただろ?」

「そうなんだけど。どこを見ても撫子がいるような気がするの」


 今日は何度も撫子を感じた。たぶんこの場所のせいなんだろうな、たくさんたくさん撫子を思い出した。


「幽霊ってさ、想いを残した人が姿だと思ってた」

「うん」

「でも、残された方が姿、ていうのもあるんじゃないかなあ」


 私が言うと、世理くんは空を見あげた。


「そういう霊も、あるかもな」

「今日は何も見えないんだね、霊感少年くん」

「それやめろよ」


 世理くんは嫌な顔をしながらもチラリと周りを見て答えた。


「今は、何も見えない」

「だよね。だけどさ、雨も降ってないけど、晴れてるけど、そのへんに幽霊がいたりするよ、きっと」


 こんな夏空の下、太陽をあびる幽霊だっていてもいい。だって私はすぐそこで振り返って笑う撫子を感じるもん。



 ね、撫子。

 私はまだ、私の飛ぶ空を見つけられないよ。

 それに撫子みたいに強くないんだ。ひとりではいられなくって、みんなに助けられてるの。

 強くなれなくても、弱くても、いい?

 ひとりの空を飛べなかったら、まずは誰かと一緒に飛ぼうかな。

 でももし誰もいなかったら。

 そうなっても私は歩くだろう。飛べずに泣きながら。

 トボトボとでも、ゆっくり歩いていけばそれでいいと今は思う。

 やさしい雨は大切な痛みをかくしてくれるけど。晴れた日にだって、その痛みと向き合いながら私は一歩ずつ歩いていくよ。

 ね、それでどう? 撫子。


 私はぽっかりと抜ける夏の空を見あげて心で訊いてみた。返事は聞こえてこない。

 だけどその時ふわりとやさしい風が吹いた。風が私の背中を押す。その先にはみんながいた。


 私たちの笑う声が、夏の空に響く。




                     〈おしまい〉



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