第9話 ひとりきりのイルカ


 通路にいると、そこはごく普通の水族館のように思えた。ほかのお客さんがいないだけ。

 うす暗くて、すこしひんやりしている。私たちはキョロキョロしながら歩いてみた。


 私たちが中にいたのは魚たちの大水そうだ。小魚の群れが形を変えながらひるがえるように泳いでいる。

 小さな水そうには光に照らされながらただようクラゲ。そして別の所には、ヒョコヒョコ顔を出すチンアナゴ。


「わあ、わあ、かわいいよチンアナゴ!」

「そうかあ? ちっせえ海ヘビみたい。それともミミズ」

「ひどい!」


 展示された魚を見ながら楽しくなってきてしまったけど、あれ、私ここに何しに来たんだっけ。


「あ、そうだった。えーとだからさ、前と同じなわけ」


 レイくんも忘れかけていたらしい。わりといいかげんだなあ。


「……てことは、また私への、何か?」

「そう」


 ――あのさあ、私まだ中学二年生なの。知り合いが死んじゃったとか、そんなに経験してないんだけど。死者の想いを受けとめろと言われても、心あたりが少なすぎる。


「んー、ならやっぱり撫子なでしこじゃない? それともおばあちゃん」

「当てずっぽうに言ってもだめだぞ。ここが想いだって、ハッキリつながる理由を見つけろよ」

「うええ、きびしいなあ」


 水族館なんて、しばらく行ってない。小さい時に父方の祖父母に連れられて行ったのは覚えてるけど。あのおばあちゃんは、もう死んじゃった。

 じゃあ、おばあちゃんかな? 最近の孫娘が情けなくて心配になったんだろうか。それはあり得る。息子夫婦より先に死にかける孫なんて、おちおち成仏していられないよね。ほんとごめんなさい。


 ――でもね私、死のうとしたわけじゃない。撫子だって、きっとそうなの。


『飛びたいなあ』


 撫子は、そう言ったんだもん。




 あの日、私たちは二人で放課後の教室にいた。

 三月になり、一年生が終わりに近づいている頃だった。

 学年末テストも済んで、撫子はたぶん成績もよかったんじゃないかな、結果なんて何も気にしていなかったから。私はまあ……まあいいじゃない。


『クラス替え、あるんだよね。はこべちゃんと別になっちゃったら嫌だな』

『別れるとはかぎらないよ』


 まだ寒い日だった。なのに撫子は窓を開けて校庭を見おろしていた。ううん、校庭から響く運動部の声を無視して空を見ていた。


『ねえ、なんでがんばらなきゃいけないんだろうね。がんばっても、みんなひとりでしょ。けっきょくひとりでしょ』

『撫子はひとりじゃないって』

『……うん。はこべちゃんがいるし』


 そう言って振り向いた撫子のほほは、冷たい風のせいか赤かった。




 私とレイくんが通路を進むと、魚以外の展示エリアに入った。といっても、最初にいたのは白イルカだったけど。泳いでてもこれって哺乳類なんだよね、知ってるもん。


「お、こいつバブルリングできるかな」


 レイくんがはしゃいだ声になる。さては大きい生き物が好きなのか。ふ、しょせん男子だな。

 白イルカは私たちを見ながら悠々と泳いでいた。筒状の大きな水そうの中に一頭しかいない。ぐるぐると泳ぐ姿に、撫子の言葉が重なった。


『ひとりでがんばらなきゃ』


 ――そうなの? そんなふうに思っていたの?


 撫子は友だちが多くはなかった。ううん、親しい子はほとんどいなかったかも。私の友だちとは仲良くなってグループだったけど、他の子とはあまり近づかなかった。

 全然話せないわけじゃない。会話の輪に入って笑い声をあげるぐらいは普通にしていた。でも自分から話しかけたりはしない子だった。


「……このイルカ、ひとりなんだね」


 私はそっとガラスにおでこをつけた。すこしでも近づいてあげたくなった。


「ああ……つがい、いないのかな」


 レイくんも隣で静かに水そうにふれる。白イルカはそんな私たちの前に泳いできた。ツンツンと口でアクリルガラスをつつくような仕草。遊んでほしいのかと私は笑顔になった。その時。


「うわッ!」


 ニュッとイルカの口がガラスから突き出した。軽く開いた口でレイくんの手をかじりそうになる。レイくんはあやうく飛びすさった。


「だ、だいじょうぶ?」

「うん。ハコベは?」

「平気。え、このガラス、イルカも抜けられるの?」

「……そうみたいだな」


 白イルカはもう知らん顔で水の中に戻り、ぐるっと向こうまで泳いでいっている。


「さっき俺は、通り抜けようと思ったら抜けられた。今はたださわるつもりでいたら、手がめり込んだりしなかった。だからイルカも、そうしようと思えば外に出られるんじゃないか」


 そのレイくんの推測が正しければ、白イルカは意識的にいたずらしたってことになる。


「あの子今のを、わざと?」

「かもしれない。全身で外に出たらどうしようもないから、それはやらないだろうけど。遊びなのかな、危ねえなあ」


 本当に危ない。

 それにしても、やっぱりここは不思議な場所だったんだ。なんだか普通に水族館に遊びに来たような気分になっていた私は、すこし浮かれていた気持ちをひきしめる。ひきしめたのに、レイくんはぼやいた。


「なんだよ。ハコベとデートしてるみたいだったのに、今ので気分だいなし」

「デ、デートってレイくん」

「だって水族館なんてさ。それっぽいだろ」


 私がびっくりしていると、レイくんはそっぽを向いた。


「俺だってさ、女の子と付き合ってみたかったなーとか、デートしてみたかったなーとかぐらいあるし」

「あ」


 そうだった。レイくんて死んでたんだ。たぶん私と同い年ぐらいで。

 どうしよう、そう思うと悲しくなる。でもなんだか腹も立った。それでつい、言った。


「……それなら相手は、ちゃんと好きな子じゃなきゃ、だめだよ」


 

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