第8話 その人は幽霊


 あの雨の日、不思議な森を歩いたこと。飼っていたハムスターの豆だいふくと会えたこと。またね、と言って手のひらを合わせ帰ったこと。私はぜんぶ思い出した。

 うそみたいだ、レイくんを忘れていたなんて。


「レイくん――」

「よ、ハコベ」


 レイくんはちょっと照れくさそうに片手を上げた。今日も傘は持っていない。白い星が落ちるエゴノキの下に近づくと、雨の中でも花のまろやかな香りがした。


「俺のこと、わかるんだ?」

「今の今まで忘れてたよ! もう、なんなの、これ?」

「なんだと言われてもさ。そういうもんだし」

「うわ、ぶん投げた」


 私が不満げに口をとがらせると、レイくんもムスッとして答える。


玉響たまゆらは一瞬の、かすかな響きのことだから。魂揺たまゆらの世界のことは外には持っていけないんだよ」

「……また難しいこと言う」

「ハコベが説明させたんだろ!?」


 レイくんに呆れられて、私はすこしいじけた。だって、わかんないんだもん。


「こんなのわからなくていいよ。に来たら感じるってだけだ。ハコベは来るな」

「えー、なあに、仲間外れなの?」


 文句を言った私に、レイくんが変な笑い方をした。笑ってるのに悲しいような、安心したような、あきらめるような、妙な笑い。


「こっちには、来るな」


 あらためて言われて、私はハッとなった。

 レイくんと会ったのは『いのちのはざま。揺らぐたましいの居場所』。だから死んでしまった豆だいふくの想い残りにもふれることができた。ということは――。


「レイくん……死んでるの?」


 私はこわごわ訊いた。魂揺たまゆらの世界に出入りするレイくんも、存在なのか。

 レイくんはへへ、と笑った。


「ニブ。今さらかよ」

「――だから、今までレイくんのこと忘れてたんだってば」


 忘れてたんだから、考えることもできなかった。

 だけど前のあの世界でレイくんの名前を呼んだら消えてしまうのかと心配した時にも、消えるのが死だとは思ってなかった気がする。

 だってレイくんはこんなに元気でくっきりしてて、私をからかって笑ってばかりなんだもん。死んでしまっているようには見えないよ。今だってヘラヘラと笑ってみせる。


「どーもー、幽霊のレイでっす!」

「え、ちょっと何それ。くんてそんな意味?」

「まあそんな感じ。あとは、もう何もないから、レイ、とかさ。別にいいじゃん、仮の名前なんて」

「うっわ……ドン引きだよ」


 明るくふるまうレイくんは、あきれる私に向かって手を出した。


「ハコベ、もう一度向こうに行く気ある?」


 私はとまどって立ちすくんだ。

 行く? あの――想い残りの魂揺たまゆらの世界へ?


「でも、来るなって言ったくせに」

に来なくても、一緒には行けるんだよ」


 レイくんの言葉はいちいち謎かけみたいだった。

 でも私はレイくんを信じることにする。この人は私に悪いことなんてしない。

 私はレイくんにそっと手のひらを向けた。


「――連れてって」


 学校に行くよりも、レイくんと一緒に不思議の世界へ行ってみたい。保健相談室にいてはわからない何かが、そこにはあるはずだから。


「そうこなくっちゃ」


 レイくんはニヤリとして、私と手のひらを合わせた。


 空気が波になった。





 世界を越える時、私はどうしても目を閉じてしまう。今回もギュッとなっていた私は、合わせていた手の指先をレイくんにつかまれてまぶたを開けた。


「わッ……!」


 顔のすぐ前を、魚が横切った。

 白と黒のしましま。

 続いて頭の上を、小魚の群れがクルリと向きを変え泳いでいく。

 ――泳いで!?


「な、な、な……!」

「おお、水の中じゃん」


 あわてふためく私の前で、レイくんはおもしろそうにあたりを見まわした。


「中じゃん、じゃないよ! おぼれるって!」

「いや、しゃべれてるだろ」

「……あ、うん」


 私は我にかえった。

 魚は泳いでいる。腕を動かすと水のような抵抗は感じる。でも話せる。


 また私の横を魚が群れて通りすぎた。見たことのある姿……アジ? なんだか知らない大きな魚もゆったりと泳いでいるし、上を見ると平べったいエイの影があった。

 立っているのは岩場で、ところどころにサンゴのような赤い物もある。でもなんだか全体に作り物っぽい。


「ここは、水そう?」

「うん……大きいな」


 私は前と同じようにカバンも傘も持っていなかった。身軽ではあるけど、こんな水中ならそうでなきゃ困るよね。

 レイくんはつないだままだった私の手を引いた。プールの中を歩いているみたいにフワフワする。どうするのかと思ったら、歩いた先には透明な壁があった。


「……行けるかな」


 これ、ぶ厚いアクリルガラスじゃなかったっけ。行けるってどういうことよ。

 ズズ。

 レイくんが伸ばした手は水そうの壁に入っていった。


「え、うそ」

「よっしゃ出ようぜ」

「わ、わわ」


 そのまま私を引っ張る。なんだか気持ち悪い感じだったけど、私たちは問題なく通り抜け――ズルリと外に


「ぐえ、おも……」

「ごめん!」


 レイくんをつぶしてしまって、私はあわてて飛び起きた。水そうのふちから地面まで、少し高さがあったんだ。


「……いいよ、俺が引きずり出したんだもんな」


 起き上がってレイくんはコキコキ肩を回した。ううう、重かったですか。失礼な。


「さて、ここは水族館か」

「……だね」


 私たちは気を取り直し、通路に並んで立った。今まで中にいた水そうを外からながめる。照明がひかえめな通路から明るい水の中をのぞくと、キラキラと魚のうろこが光った。

 これが一番大きい水そうかな。そして周りにも大小いろいろとつらなっている。完全に、水族館だ。


 水族館――となるとここは、いったい誰の心の中なんだろう?


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